人気ブログランキング
←はじめにクリックをお願いします。

富士山1224

すこし厳しいようですが、日本には、「愛国無罪」という概念はありません。
「愛国無罪」は、支那人が自分たちの行動を正当化するときに使う言葉であって、日本にその概念はありません。
最近、支那国内で、尖閣漁船拿捕問題に関して、支那人たちが日本政府に抗議するデモをし、その際、日本車をひっくり返したり、日本食レストランを暴力的に襲撃したり、支那服を着ていた女性を和服女性と間違えて半裸にしてしまったりというニュースが報道されました。
彼らはこんなことを全国規模でやっていました。
支那には、個人の自由なんてものはありません。
とりわけ政治的な運動は、百パーセント中共政府の思惑のもとに行われる。
そして彼らがデモで、いかなる蛮行をしようが、それらは「愛国」のためにやったことなのだから、つまり動機が「正当な行為」なのだから、「正義のため」の行いなのだから、すべて「無罪」だと主張する。
ご存知、「愛国無罪」です。


「愛国無罪」は、動機が正義なら、どんな非道な行為でも正当化されるというものです。
こうしたご都合主義的な支那人の発想は、なにもいまに始まったことではありません。
義和団事件のときもそうだったし、通州事件、尼港事件も同様だし、満蒙で彼らが行った種々の卑劣かつ醜悪な犯罪は、すべて「愛国無罪」の思想のもとに行われています。
以前、ハリマオーのことを書きました。
怪傑ハリマオーは、実在の人物で、日本人の谷豊青年です。
≪実在した怪傑ハリマオー≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-731.html
彼はマレーシアで、床屋を営む両親と住んでいたけれど、当時のマレーは英国の植民地です。
そしてご存知の通り、東亜における植民地統治は、当該国に住む少数民族である華僑が用いられ、英国人たちは華僑に「特別な利権」を与えることで、言葉のわからないマレーを統治していた。
その東亜に日本が進出してきます。
日本は、東亜の植民地からの解放、人種差別の撤廃、八紘一宇を謳っています。
これが実現すると困るのは、欧米の植民地支配層たちと、その支配層の白人たちに近づいて特別な利権を得て準支配民族になっている現地少数民族の「華僑」たちです。
華僑は、あちこちで抗日デモをおこしました。
そして谷豊青年の実家の床屋を襲い、当時まだ6歳で、体の具合が悪くて家で寝ていた妹を襲い、生きたまま妹の生首をネジ切って、その頭をまるでサッカーボールのようにして蹴飛ばして遊びながら、マレーの街をデモした。
当時、谷豊は学校に行くために日本に来ていて、その事実を知ったのは、事件の半年後です。
谷青年は、マレーに飛び、英国政府や、マレーの警察に、犯人の逮捕を懇願します。
なんどもなんども懇願した。
けれど、帰ってくるのは冷笑と、あきらめへのいざないだけだった。
そこで復讐のために立ち上がり、マレーの人々から、彼は「ハリマオ(虎)」という尊称で呼ばれるようになった。
この事件のきっかけとなった抗日デモも、英国による植民地支配の継続を望んだ華僑(支那人)たちの自分たちの利権を守りたいだけの、かつ、英国植民地統治政府の後ろ盾を得た、抗日デモであり、そこで行う、ありとあらゆる非道な振舞い、畜生行為の数々は、彼らの言葉で、ことごとく「愛国無罪」となります。
これが支那人の価値感です。
つまり、目的が正しいなら、どんな非道も許される。
日本人には、こういう概念はありません。
どんなに目的が正当であっても、手段が不正であり不純であるなら、それは不正(有罪)である、と考えるのが日本人です。
仮にオウムの麻原彰晃の教えがどんなに正しいものであったとしても(筆者はそうとだはひとつも思いませんが)、地下鉄にサリンをバラまいたり、坂本弁護士一家を殺害したりしたら、それは犯罪であり、有罪です。
戦時中、日本軍が田畑の中の道を歩いていると、むこうから来る支那人の農民とすれちがう。
ニコニコしながら手を振る支那人、笑顔で答える日本兵。
すれ違って、しばらく経つと、後ろからその支那人たちがいきなり撃ってくる。
要するに農民に化けた便衣兵です。
近代にいたって、戦争にちゃんとルールを設けようということなった。
そして戦争というのは、軍隊と軍隊が戦うものだから、兵隊は殺してもいいが、民間人の殺傷は固く禁じる(ハーグ陸戦条約)と世界が約束しました。
あたりまえのことです。
戦争は子供のケンカではないのです、
だから、世界中どこの国においても、軍隊にいる軍人は、ひとめでそれとわかる服装をすることになったし、支那でも、汪兆銘の南京政府は、戦う軍人は軍人らしくという誇りと軍服をまとった。
ところが、毛沢東の八路軍には、まるでそうした概念がない。
まさに「愛国無罪」です。
自分たちは「正義」なのだから、なにをしても、どんなに非道、卑劣、卑怯なことをしても許される(無罪である)と考える。
そういう政権は、出発点から目的のためなら手段を選ばない、法さえも公然と無視する政権です。
なん十年がたち、政権が安定してくれば、彼らは、こんどは政権転覆や政権維持のためでなく、我が利権のためなら、すべての非道は許されると考えるようになる。
いまの中共政府そのものです。
戦前までの日本は、こうした「目的のためならどんな非道も許される」という考え方の対極にある思考をしています。
どんなに目的が正しくても、非道はいけない。
盗賊稼業であっても「盗みはすれど非道はせず」なんてのが本格のお頭(かしら)の誇りだったりもした。
まして普通の真人間や、政府であれば、目的も手段も方法も、つねに公正なものでなければならないと考える。
これが日本人の普通の考え方です。
ところが、最近、これを悪用し、支那人クオリティをその中に持ち込む、おかしな連中がでてきた。
その代表例が、イジメです。
イジメをする子供たちの多くは、自分は「正しい」と思ってイジメをしている。
イジメられる子が悪いのであって、自分たちはその子のために、あるいは、正義や公正のために、その子をかまっていると考えている。
インターネット上で、誹謗中傷を繰り返す人たちや、保守の中にいて、他の保守団体を誹謗中傷する人たちも同様で、自分たちが「正しい」のだから、悪いと考える人物や団体を責めることは正義であり、そこでは「いかなる卑劣な行為」をしても許される、と考える。
それだけの情熱があるなら、もっと違った、たとえば左翼や反日主義者を攻めればいいものを、そうではなく、仲間内を責め苛み、徹底的にいたぶって、自分たちは「正しいことをしている」と勘違いする。
たまに、このブログのコメント欄にも、そういう人が現れます。
ボクはいまのところ、余程低劣なアダルトサイトへの誘導コメントや、明らかなアラシと思われるコメント以外は、たとえボクの思いとは真逆の内容のコメントであっても、原則それを消さずに、掲載を放置しています。
おもしろいもので、人間、匿名性と自由を与えられると、自然と本性がでる。
自分の主張は「正義」なのだから、その正義の実現のためには、どんな非道をしても構わないといった我がままで身勝手な発想を持つ人が、間々、みかけられます。
それだけではなく、ご自身のサイトで、徹底した誹謗中傷を繰り返す。
その根底にあるのは、「愛国無罪」の発想です。
正義のためならどんな非道も許されると考える。
とんでもないことです。
ここは日本です。
たとえ正義であっても、手段方法が卑劣なら、それは卑劣な振舞いなのです。
日本人は、どんなにつらくても、命が削られるくらい悲しくて悲嘆に沈むようなことがあっても、ルールはルールとして守りぬくという民族です。
それはとっても悲しくて、重荷になることだけれど、大切なことでもあろうと思う。
大東亜戦争が終わったとき、あの「強い」日本軍は武装解除しました。
戦争は、国家が宣戦布告して始まり、国の終結宣言で終結します。
勝敗がつき、戦争が終わったのなら、堂々と武装解除に応じる。
戦えば必ず勝つ、その誇りある日本軍は、こうして武装を解きました。
ところが、日本軍が武装解除すると、その働き盛りの男たちをソ連は収容所に連れ去りました。
あとに残ったのは、民間人の婦女子だけです。
当然、武装もない。
高齢の警察官もいたけれど、通化事件にもみられるように、路上で強姦し、注意されて銃で抵抗したロシア人に対し、たった一回、高齢の警察官が軍刀で彼らを成敗すると、依頼、日本人警察官からは一切の刃物が取り上げられた。
強姦され、収奪される多くの日本人民間人にしれみれば、どうして日本の軍人さんたちは戦ってくれないんだ。どうしてこの不条理に立ち上がってくれないんだ。彼らは何をしているんだ、という気持ちになったであろうことは容易に想像がつきます。
しかし、日本人は人であって獣ではないのです。
戦時中であれば、武人として立派に戦う。
人も殺す。
ひとたび武器をもって立ち上がれば、日本軍よりはるかに強大な火力をもった相手ですら、たじろぎ、身を引かせる、世界最強の軍となって戦う。
日本軍がなぜ強いのかといえば、日本の兵は、なぜ戦わなければならないのかをちゃんと理解し、それを我が血肉として戦うからです。
だから日本軍の戦闘は、軍の戦闘であると同時に、常に個々の兵の戦闘でもあった。
他国の兵とはここがちがうところです。
たとえばソ連兵などは、ある日突然、村に軍服を着た連中がやってきて、村人に銃を突きつけ、広場に村人たち、全員出てこい、という。
で、銃を持たない村人たちに、銃口を突き付けて、屈強そうな若者を一方的にトラックに乗せてしまう。
トラックに乗せられた若者たちは、その瞬間からソ連兵です。
村でいかに仕事が残っていようが、彼女との結婚を控えていようが、そんなものは一切考慮されない。トラックに乗せられた、その瞬間が運命の分かれ道です。
で、いきなり軍隊の中で教練を施され、銃を渡されて戦地に派遣される。
上官の命令に逆らえば死。
戦わずに逃げれば死。
給料なんてありません。
給食があるだけです。
で、給料や女が欲しければ、戦地で勝ったら、いくらでも略奪して良い、とされた。
そうしてベルリンが陥落した時、町の女性は年齢の別なく3分の2がソ連兵によって強姦され、町中の財物は強奪された。
兵に誇りなんてないし、なぜ戦わねばならぬのかなんて晦渋な哲学もないです。
戦わなければ殺され、戦えば欲望を満たすことができる。
それだけのことです。
だから、指揮官が倒され、軍の指揮系統が破壊されると、兵たちはすぐに降参した。
戦う理由がないからです。
そもそも何のための戦っているかさえ、わかっていない。
これに対して日本兵は、ひとりひとりが戦う意義を理解して戦っています。
だから、戦いは軍の戦いであり、自分の戦いでもあった。
これは強いです。
日本軍の強さの秘訣は、まさにここにあった。
けれども、それは、日本軍の強さでもあり、また弱さでもあったわけです。
日本人は、自分が兵だから、戦います。
軍の命令だから戦う。
なぜなら、軍の命令は「公」だからです。
命令のない戦いは、「私闘」にすぎません。
だから、戦争が終わり、武装を解いたら、もう戦わない。
そのあと、どんな非道が行われたとしても、ひたすら我慢する。
痩せ我慢であっても我慢する。
どんな卑劣なことをされても、我慢する。
日本には、「愛国無罪」という概念はないのです。
逆にいえば、日本というのはそれだけ厳しい国だし、だからこそ「愛国無罪」のような軽はずみな言動は一切許さない。
許されないから我慢する。
ひたすら我慢する。
我慢して我慢して、我慢する。
女房が強姦され、娘が殺されても、それでも元軍は、あくまで元であり、いまは私人にすぎないとなれば、ひたすら我慢する。
ただし、なかには我慢できない男もいます。
そういう者は、たったひとりでも、手にする武器が木刀しかなくても、女房子供を守るために立ち上がり、戦った。
その彼らは、ことごとく、殺された。
≪参考:通州事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html
このことは逆に言えば、日本人は、残虐な民族ではない、ということです。
日本人に残虐さを喜ぶ傾向があるならば、愛国無罪と称して、ありとあらゆる非道を、戦後の混乱やどさくさのなかで、むしろ日本人がやっているはずです。
けれども日本人はしなかった。
あれだけ勇敢で強かった日本兵が、武装解除後は、一切の組織的抵抗さえしていません。
要するに日本人には「愛国無罪」という概念はない。
兵として銃を手にして戦っているときですら、「殺す」のはいけないことだ、と知って、わかって戦っている。
だからせめてルールはきちんと守ろうとする。
それが日本人のクオリティです。
いまでも、尖閣や民主党の行状について、毎週のように国会周辺などで保守系のデモが行われいます。
そのデモは、整然と行われ、シュプレヒコールはしても、暴力的行為は一切行われていません。
日本国内のデモは、何かが壊されたり逮捕者が出たりということがない、だから報道しない。
支那の抗日デモは、モノが壊されたり国旗が燃やされたり、商店が襲われたりするからニュースバリューがあるので報道する、などと、もし本気で考えている人がいるなら、それは大きな間違いです。
整然としたデモが行われているところに、内圧の高まりがあり、国民の怒りの蓄積があるのです。
モノにあたって(壊して)発散していない。
発散されない怒りは、蓄積し、内圧となるのです。
これは、ある意味、たいへんにおそろしいことです。
報道は、そういうことをちゃんと報道しなければいけない。
ネットの世界でも、愛国無罪気取りで、自分たちは正義である、だから何を言っても、やってもゆるされるとばかり、他人の誹謗中傷を重ねている者たちがいます。
誰しも、過去を振り返れば、たくさんの過ちをしています。過ちばかりの人生です。
だからこそ、これからの人生を、すこしでもよりよく、世の中にほんのちょっぴりでもいいから、何か貢献したいと考える人がいます。
そしてその真逆に、過去の過ちにこだわり続け、人を責め苛み続けることに生きがいを持つ人もいます。
しかし、過去は「評価」するものではなく、「学ぶ」ものです。
失敗も成功も、済んだ昔の話です。
大切なことは、これからの未来をどうするか、ではないかと思います。
 ↓クリックを↓
人気ブログランキング

鶴田浩二 飛車角より

日本の心を伝える会 日心会

コメントは受け付けていません。