
アムンゼンとスコットと聞くと、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
そうです。南極大陸探検隊です。
ロアルド・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen)は、ノルウェーの探検家です。
明治44(1911)年12月14日、人類初の南極点到達を果たしました。
一方、ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott)は、イギリス海軍の軍人です。
明治45(1912)年1月17日、世界で二番目に南極点到達を果たしています。
ところで、この南極点到達競争に、日本も参戦していたのをご存知でしょうか。
もっとも、日本の探検隊は、国がバックアップしたものではなく民間ベース、しかも個人の力によるものです。
ですからたとえばスコットの探検隊は、当時のお金で40万円というたっぷりと余裕のある資金で組織されていたのに対し、日本の探検隊の予算はわずか4万円だったし、南極まで行く船も、木造の元漁船でした。
アムンゼン隊からは、「よくもこんな船でやってこられたものだ」と、あきれられるほど粗末な木造の機帆船です。
しかも装備も、他国と比べて、貧弱そのもの。
それでも日本の南極探検隊は、南極点まであと一歩の南緯80度05分の地点に達し、その地に日章旗を立てて、「大和雪原(やまとせつげん)と名付け、南極に我が国領土をしっかりと構築してきたのです。
もっとも南極の領有に関しては、日本は昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約第2条で南極地域の領有権を放棄し、また、南極自体が、昭和34(1959)年の南極条約によって、いまでは各国の領有権は、すべて凍結された状態となっています。
ただ、明治の終わりに、アムンゼンやスコットと並んで南極探検隊を、民間ベースで組織し、それを実際に成功させた(スコット隊は帰投時に全滅しています)という事実は、やはり同じ日本人として、忘れてはならない歴史なのではないかと思います。
探検を行ったのは、秋田県金浦町(現在のにかほ市)出身の白瀬矗(のぶ)です。
白瀬は、文久元(1861)年、寺の住職の長男として生まれ、幼い頃は、両親が手を焼くほどの暴れん坊だったそうです。
8歳で蘭学医佐々木節斎の寺子屋に入門し、11歳のときマゼランなどの冒険物語を先生から教わって、日本には間宮林蔵に続く者がいない、それなら俺がなろう!と、探検家を志したのだそうです。
ところがこの佐々木節斎先生、なかなか厳しい先生で、白瀬に「君は探検家を志すなら、禁酒、禁煙、禁茶、禁湯、禁火の誓いを立て、生涯これを守り抜け」と、白瀬を戒めます。
白瀬は、昭和21(1946)年に85歳で逝去するのですが、なんと生涯をかけて、このときの師匠との約束を守り抜いた。
そういうところにも、明治の男の、なにかこう、すごさのようなものを感じます。
ちなみに、禁湯、禁火というのは、真冬でも暖かいお茶や、ストーブはダメという意味です。いやはやなんとも厳しい。
さて、白瀬は、もともとの名前を白瀬知教(ともたか)といいます。
しかし、北極、南極の極点踏破の探検を目指す白瀬は、明治14(1881)年に20歳で学校を卒業して陸軍に入隊すると、すぐに名を「矗(のぶ)」と改めています。
「矗」というのは、直線の「直」の字が3つ重なった漢字ですが、この字は「ちょく、ちく、のぶ、なおい」等と読み、「高くそびえる」という意味を持ちます。
人生のすべてを極地探検に賭けた男の夢を、彼はそんな名乗りであらわしてもいたのです。
白瀬矗が、29歳で仙台で勤務していたときのことです。
そのときの上官が、あの有名な児玉源太郎です。
児玉は、極点を目指すという白瀬に、「そんなに極点に行きたいのなら、先ず先に千島列島を目指すことだ。極寒の地で身を鍛え、その後、素志を貫き、一生の事業としてやるがいい」と白瀬を励まします。
なんだか、さすがは児玉源太郎!という感じがします。
しかし残念なことに、陸軍勤務の間には、白瀬の千島行きは実現しませんでした。
それでも白瀬は、日々、その日のための自らの体を鍛え続けます。
実際に千島に行く機会は、白瀬が陸軍を退役し、予備役となった明治26(1893)年に訪れます。
このとき32歳になっていた白瀬に、幸田露伴の兄、郡司成忠大尉が、千島列島への探検隊を組織するという話がもたらされたのです。
白瀬は喜んでこれに参加することにします。
この明治26年という年は、日清戦争のはじまる前年にあたります。
そもそも日清戦争も、ロシアの南下への恐怖が起こさせた戦争です。
世はまさに、ロシアの脅威への対応に追われていた。
そんな中で、郡司大尉の千島遠征隊は、対ロ戦略上、非常に重要な使命を帯びたものとして、当時、国民の熱狂的支持を得ていたそうです。
ところが、この遠征隊は、東京を船で出発したものの、青森県の沖合で暴風雨に襲われ、隊員80名中、19名が命を落としてしまう。
やっとのことで函館に到着した一行は、すっかり意気消沈しているだけでなく、隊員の中には指揮官の指揮に対して公然と反旗を翻すものまで現れる始末です。
こういうところ、当時の軍というもものは、なんでもかんでも上官のいいなりのように言われるけれど、いまも昔も日本人は変わりません。
上司の指示がおかしければ、やっぱりおかしいです!と言うのが日本人です。
しかし、ここまでまとまりがないのでは、とてもじゃないが、これから千島の探検どころではありません。
函館港で郡司隊に合流した白瀬は、この姿をみて、彼らを一喝します。
「諸君は武士である。武士には武士の情けというものがある。嵐で優秀な仲間を失い困り切っている上官に対して、数を頼りに不穏な態度をとるとは何事か。逆ではないか。
それに、ここで千島行きを止めたのなら、亡くなった19名は犬死にである。
むしろいまこそ上官を支え、亡くなった彼らのためにも、一致団結し、千島を目指すべきではないのか!」
白瀬の不退転の決意の言葉に、あらためて勇気を得た一行は、いよいよ千島列島へ向かいます。
目指すは、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)です。
占守島といえば、大東亜戦争の折、ここで大きな戦いが行われています。
ねずブロにも過去のエントリーがありますので、お時間のある方はどうぞ。
【北海道を守りぬいた男たち・・・占守島-1】
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-671.html
【北海道を守りぬいた男たち・・・占守島-2】
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-672.html
北海道の東端から、いよいよ千島列島を目指した一行は、捨子古丹島(しゃすこたんとう)に9名、幌筵島(ほろむしろとう)に1名の隊員を越冬隊として残し、本体はこの年の8月31日に、最終目的地である占守島に到着し、そのまま同島で越冬します。
ところがこの越冬で、島しょに残してきた10名全員が、水腫病という千島特有の風土病で、お腹が水膨れで太鼓のようになって死んでしまいます。
さらに越冬してようやく春を迎えると、その年、日清戦争が勃発。
郡司司令官らは、軍の命令で帰還せざるをえなくなり、結局、白瀬を含む6名が、その年、2年目の越冬をすることになります。
ところがこの越冬で、隊員のうち3名がやはり水腫病で死亡、白瀬自身も罹患します。
しかし白瀬は、全身を激痛に悩まされ、絶食状態が続きながらも、鍛え抜かれたその体力で見事生還します。
そしてあとの二人は、仲間の死に動揺し、精神を病んでしまった。
結局、このとき白瀬は占守島で3年を過ごすのだけれど、最後まで生き延び、精神の健康を保ち続けることができたのは、白瀬ひとりだったといいます。
明治42年、人類未踏であった北極点を、米国の探検家ベアリーが制覇します。
このニュースは世界の探検家に大きな衝撃を与えたのだけれど、この日、白瀬も日記に、「私の心臓を凍らせた」と記しています。
そして世界の探検家たちの次の目標は、いよいよ南極点の制覇へと向かうことになったのです。
明治43(1910)年7月5日、当時人気だった雑誌「成功」の村上俊蔵が中心となって、神田の「錦輝館」という映画館で、「南極探検発表演説会」が開催されます。
「人類最後の未踏の地、南極」を「いったい誰が」「どこの国が」「最初に征服し」「南極点に到達するのか」
南極の大地に旗を立てることは、そこに新たな領地を得ることでもあります。
世はまさに植民地時代です。
人類未踏の南極には、明治42(1909)年に英国のシャクルトンが、南緯88度23分まで進んでいます。
英国は、スコット隊を編成し、国をあげて南極点到達を狙います。
一方、極点ならまかせろ!とばかり、ノルウェーのアムンゼン隊も、南極点を目指して出発します。
そしてこの2つの探検隊は、まさに英国、ノルウェーの国家事業として編成されています。
ところが、日本では、村上俊蔵が白瀬を隊長に、後援会長を大隈重信にと、体制は決まったものの、政府がなかなか動かない。
大隈重信は、明治43(1910)年の帝国議会で、「南極探検ニ要スル経費下付請願」を建議し、衆議院は満場一致でこれを可決したのです。
ところが、時の総理、桂太郎は、白瀬らの成功を危ぶみ、3万円の援助を決定したものの、そのお金を支払わない。
というか、このとき、日本政府は、日露戦争が終わった(明治38年)ばかりで、財政が非常に厳しかった時代でもあった。
結果、白瀬隊は、政府から1銭の援助もないまま、頼りは募金だけ、となってしまいます。
そこへもってきて、後援会の幹事だった朝日新聞社も、成功を危ぶんで、途中で後援会を降りてしまう(ほんとうに明治の昔からこの新聞社は信用できなかったのですね)。
大隈重信は、当時大阪毎日新聞の記者に次のように語っています。
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白瀬氏の競争者ともいうべきスコット大佐は、英国帝室並びに国民の同情を得て、すでに本国を出発したるを以って、遅くも来る8月中に出発するにあらずんば、南極の天王山はついに他に占領せらるる虞(おそ)れあり。
しかるに日本人が学術上大冒険をなすの初陣に際し、僅か4万円の経費のために、みすみすこの勇者を見殺しにするは、国民としてあまりに腑甲斐ないことなれば・・・
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明治43年11月29日、5万人の大観衆に見送られて、白瀬は東京の芝浦埠頭を出航します。
いよいよ南極への探検です。
民間からようやく集めた総予算4万円の中から、船を調達したのです。
アムンゼンやスコット隊の10分の1の予算です。
当然、大型の寒暖の対策(南極へ向かうには、赤道を通り、南極に向かいます。猛暑と猛寒、両方の対策が必要になる)も、船の大きさ上、充分にとれない。
エンジンも中古です。
船には、東郷平八郎が「開南丸」と名前を付けてくれたし、それはとても名誉なことだったけれど、後に、アムンゼン隊のフラム号の船長がこの船をみて、驚嘆したそうです。
「日本人はクレイジーだ。こんな小さな船では、自分たちなら南極はおろか、途中まででさえ覚束ない」
開南丸は、約4カ月をかけて赤道を越え、南極圏に向かいます。
しかし、小船の悲しさ。
26匹連れて行った樺太犬は、赤道をくぐっている間に、暑さにやられて21匹が死んでしまいます。
わずか5頭の犬では、南極大陸の犬ぞり踏破はできません。
加えて、速度の出ない船のため、南極圏の到達に時間がかかりすぎた。
南極に冬が到来してしまったのです。(南半球では北半球の夏が冬)
やむなく一行は、いったんシドニーに引揚げ、南極の冬が過ぎるのを待ちます。
もし、この時点で、政府がちゃんと資金を出していれば、おそらく白瀬隊は、世界初の南極点到達を実現できたのではないかと思うと、本当に悔しいです。
南極の冬を越して、いよいよ白瀬隊がシドニーを出発したのは、明治44(1911)年11月19日のことです。
犬も、日本から、あらためて樺太犬30頭を取り寄せた。
ちゃんとした船で輸送すれば、ちゃんと無事に運べるのです。
しかし、この航海の途中、12月17日に、ノルウェーのアムンゼン隊が南極点到達の報が流れます。
白瀬隊のショックがいかばかりだったか。
また、英国のスコット隊も、すでに南極大陸に上陸しています。
もはや、南極点到達競争では後れを取ったことは明らかです。
けれど、それならそうで、彼らは、学術調査を目的に、南緯80度5分、西経156度37分の地点を最終目的地とすることとして、南極の踏破をしよう。
彼らはそう決意し、明治45(1912)年1月16日、南極大陸の鯨湾西側に小さな湾を見つけ、そこに船を停泊させて、80メートルもの高さのある、ほぼ垂直に切り立った棚氷の氷崖を、すべて人力で荷物を運びあげて上陸します。
白瀬は、この湾に「開南湾」と名前を付けます。
このときの航海の模様を、白瀬本人がインタビューで語っています。
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昨年11月、シドニー発。
本年1月16日、極地に着けり。
シドニー発後、ニュウジーランドの沖、南緯60度の辺より、極圏に達するまでは、例により海上波高く、40尺(12メートル)を超ゆることあり。
航路困難云うべからず。
61度辺より、流氷の東に流るるを見る。
これより氷塊数十里に渡りて浮動する故、航海に危険を感じ、一進一退、多くの日時を要した。
かろうじて極圏に入れば、一面の氷塊にて、71度より先にて、船長はコールマン島を目当てに進まんと主張せしも、陸岸は流氷の危険多からんことを恐れ、エリバス山を目当てに沖の方を航行することとせしに、果して危険大いに減じ、進んでロッス海に入る。
66度より70度までは、氷を縫うて行かざるべからざるため、この間2週間を要し、更に進んで76度辺に至れば、また一面の氷に包囲さる。
かかる次第にて1月13日までは進路未だ定まらず、苦心惨憺を極めたるが、
天佑なるかな、14日に至り船路一条を発見したれば、一同雀躍して進みたるに、
15日に至れば、始めて大氷原を見る。
更に進んで78度30分に至り、また大氷原を見たるが、種々探検の末、氷原にあらずして時々浮動する大氷塊たるを確かめたり。
イルス湾の手前にて一湾を発見したるも、無名なるを以って開南湾と命名し、国旗を樹(た)て、一行の名刺を埋めたり。
(明治45年5月13日時事新報)
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現代の南極観測船は、氷を船でガンガン割って前に進みますが、なにせ白瀬隊の開南丸は、木造の小舟です。
浮遊する氷山にぶつかったら、その瞬間に全員の命がないのです。
だから、ほんとうに、注意深く、ゆっくり、ゆっくり慎重に進んだ様子がうかがえます。
1月20日、白瀬以下5名が、29頭の犬に2台のソリを引かせ、目的地へと出発します。
残った2名は拠点で、気象観測を続けます。
開南丸は付近の海域を調査し、アムンセンを迎えにきたフラム号に会い、たがいに表敬訪問をしています。
白瀬らは、9日間で300キロメートルを走破し、1月28日、南緯80度5分、西経156度37分、標高305メートルの地点を最南点とし、その地点を中心として見渡せる限りの氷原に、「大和雪原(やまとせつげん)」と名前をつけて、日本の領土とすることを宣言します。
その地点は、南極点は90度ですから、極点としてはほんの入り口にすぎないけれど、彼が到達した西経156度37分の地点は、南極を東方に進んだ記録としては、当時の新記録であり、また黄色人種が南極の領有を宣言したものとしても、これが世界で初の出来事となりました。
また、英国のスコット隊が、帰路に遭難し全滅しているのに対し、日本の白瀬隊は南極点には到達していないものの、木造の老朽船で、ひとりの遭難者もなく帰還した勇気と英知に、世界は、嵐のような絶賛をしています。
そして白瀬隊は、氷盤の形成について研究し、新説を発表するなど、多数の学術上の成果をあげ、6月20日、19か月55万キロメートルの航海を終えて、日本に帰国しました。
ところが、それだけの大成果を与えた白瀬を、日本で待ち受けていたのは、勲章でも褒章でもなく莫大な借金でした。
彼は、隊員に給料を支払うために、家屋敷はもちろん、軍服から刀まで売り払い、全国各地を講演に回りながら、海外にまで金策に走り、住所を転々と十数回変え、別荘の番人などをしながら食いつなぎ、ほそぼそと借金をしはらい続けました。
昭和21(1946)年、85歳になった白瀬矗は、愛知県豊田市の間借りした下宿宿の2階で、妻やす子と一緒に、栄養失調となった体を床に横たえながら、「講和の日に間に合わなかったことが残念だ」と言って、妻と娘に看取られながら、この世を去りました。
そうです。
終戦を迎えた日本が、いつの日か、講和条約を締結してふたたび独立国となる。
そのとき、南極の大和雪原が、あらためて日本の領土として認知される。
白瀬は、その日を夢見ていたのです。
しかし、昭和27年、サンフランシスコで行われた講和条約で、日本は南極の領有は認められませんでした。
しかし、昭和37(1962)年、ニュージーランドは、白瀬の功績を称え、ロス海東側を「白瀬海岸」と命名してくれました。
白瀬の名は、世界地図に刻印されたのです。
また昭和60(1985)年、米国の「ANTARCTCA」という本は、白瀬をアムンゼン、スコットと並ぶ、世界の三大南極探検家として、とり上げてくれています。
そうそう。ひとつ付け加えておきます。
それは、晩年に至っても、白瀬はいつも、堂々として、さわやかな男だったということです。
彼が11歳で抱いた極地踏破の夢は、日本国政府に認められず、彼は莫大な借金を抱えて、生活は困窮を極めました。
けれどもかれは、極地探検という夢を目指して一目散に進み、そして何があってもくじけずにその信念を貫き通した。
そんな白瀬矗の心というもは、世代を超えて伝わるものなのですね。
彼の弟の孫の白瀬京子は、昭和45(1970)年に、日本人女性として、初めて小型ヨットで世界一周を果たしています。
やっぱり、人の人生って、経済ばかりじゃないですよね^^
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