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林信雄医学博士
林信雄博士

レントゲン写真といえば、いまや医療に欠かせないものです。
発明したのは、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen)で、彼はこの発明によって明治34(1901)年、第一回ノーベル物理学賞を受賞しています。孔子賞とかいうインチキ賞ではなくて、ちゃんとした賞です(笑)
初期の頃のレントゲンは、骨を写し取るのが精いっぱいでした。
しかし、骨折などの外科治療に欠かせないものとして、あっという間に世界中に技術が普及します。
そのレントゲンは、いまでは、人体を輪切りにして撮影するCTスキャンにまで進化し、さらにその輪切り像は、3D処理された立体像にまでなっているのだそうです。
各段の進歩ということができようかと思います。
しかし、こうした進歩は、一朝一夕にできたものではありません。


とりわけ、レントゲンというものは、放射線を照射して撮影するものです。
その研究者の多くが、被爆し、命を失っています。
なかでも、レントゲンを用いて内臓臓器や血管など、骨以外の人体各部を撮影できるように技術開発したのは、日本人の医学博士林信雄先生です。
林博士は、当時まだ骨の撮影しかできなかったレントゲンで、胸部や、消化管、胆のう、心臓などの内臓臓器そのものや、臓器の病状の撮影、あるいはレントゲンで用いる放射線を利用した治療、放射線生物学などへとレントゲン技術の幅広い応用を可能にするという偉業を成し遂げました。
そのおかげで、どれだけ多くの人の命が救われるようになったか。
ちなみに、レントゲン撮影といえば、いまでは「息をとめて~~、ハイッ、終わりました」と、一瞬で済みます。
これも撮影機材やフイルムの技術開発が進んだからで、林博士が研究していた当時は、撮影時間は、指で一分、胸部で三分、頭がい骨内部では十分もかかったのだそうです。
レントゲンというのは放射線を扱う撮影です。
放射線を出す物質が、放射能です。
要するに、撮影時間が長いということは、逆にいえばそれだけ長時間、被爆するわけで、林博士は、X線の障害によって、両手の全指を失い、つづいて左腕を切断し、さらには内臓まで癌に侵され、それでもなお研究を続け、今日のレントゲン技術の基礎を築き上げ、亡くなられました。
しかもこの頃の林博士は、自らも身障者となったことから、身障者の施設や身障者用の各種介護用具の開発に巨額の献金をされていて、まるで自らの生活を省みることがなかったといいます。
それだけじゃなく、林先生が病院に出勤のため、バス停に向かうと、そこここで市民の方から声をかけられ、先生がそのおひとりおひとりに詳しく応対なさるので、気がつくと病院に到着するのが毎日遅刻になっていたそうです。
病院では、この時間のことを林時間と呼んで、むしろ暖かく受け入れていたとか。
そうして林先生がお亡くなりになったとき、告別式にはなんと二千人もの参列者が並ばれたといいます。
先生のお人柄がしのばれます。
林信雄博士は、明治30年、山形県鶴岡市のお生まれです。
荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し、千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)を卒業し、県立千葉病院に勤務したのが大正8(1919)年のことです。
その後、千葉医科大学講師を経て、昭和5(1930)年に33歳で学位を得、昭和8(1933)年に、横須賀市立横須賀病院内科医長兼放射線科医長に就任した。
ちなみに、横須賀病院には、始め、院長として迎えられるはずだったのだそうです。
ところが市側の人事の手違いで、院長の席が空かない。
仕方がないので、当面、医長でお願いします、となった。
普通なら約束が違う!と激怒されるところです。
関係者は戦々恐々だった。
ところが、当の林先生は、どこ吹く風でまるで淡々とされていたそうです。
当時のお医者さんというのは、めちゃくちゃ給料が良かった。
横須賀市立病院に就任時、林先生の年俸は4千円だったそうです。
昭和8年といえば、米1俵(60kg)が10円80銭だった時代ですから(いまは1万4000円くらい)どれだけの高給取りだったかがわかります。
普通なら、これだけの高給をもらったら、豪壮な邸宅に住み、お手伝いさんを何人も於いて、高級車に乗り、華やかな貴族のような生活をするものです。
ところが、林先生は、もらった給料のほとんどを横須賀市民や身障者への社会奉仕に寄付してしまう。
おかげで、横須賀に引っ越して以来、背広の一着も新調していません。
住んでいる家も、柱の骨組みが弛んで、戸を締めても風の通る隙間がある。
廊下の敷板や戸の木目は浮き上がって隆起し、床や畳には起伏があった。
それでも、そもそもそういうことにまるで頓着しない。
そんなことより、自分の体が放射線で蝕まれていてもなお、ひとりでも多くの人の命を救うために、博士は研究と医療に没頭していたのです。
戦前というのは、この手の人が非常に多く出ていますね。
おそらく、いまの日本と戦前の日本との最大の違いは、いまの日本では、価値観が金銭的なものにあまりにも偏っている、ということなのだろうと思います。
とにもかくにも、価値=金でしかない。
そしてその傾向は、平成にはいってから、いっそう顕著になってきているけれど、皮肉なことに日本人の価値観が銭金に偏れば偏るほど、世の中は不景気になり、見通しすらたたない暗黒に飲み込まれて行っています。
大切なことは、お金じゃなく、別なところにある。
そんな価値観を、もう一度日本は見直すべきじゃないかと思います。
だいたい「儲かりさえすれば何やったっていい」という感性は、支那人や朝鮮人のお家芸です。日本的価値観じゃない。
林博士の死後、博士を敬慕する市民の感謝のこころはいっそう燃えあがり、横須賀市では博士の功績をたたえる記念事業として、社会福祉機関、マザース-ホーム、並びに点字図書館が創設されたのだそうです。
さらに、林博士の郷里では、その篤行をたたえて「林博士記念文庫」が創設された。
ひとりの人間の偉大な精神は、多くの人を動かし、新しい時代を築く。
林博士の肉体はほろびましたが、ボクたちは、お医者さんに行けば、必ずといっていいくら、レントゲンやCT撮影をします。
そうした技術は、自らの腕や手指を失ってまで、レントゲン撮影の研究に打ち込んでくださった林博士がいてくれたから、のことです。
林博士の偉業は、こうして世界中の人々を支えている。
死して名を残す、というのは、こういうことなのではないかと思うのです。
一代限りで、自分ひとりが贅沢できたら、子や孫たちの時代なんてどうなったっていい・・・そんなわがままがまかり通る時代です。
ひらたく言ったら、時代が傾いている。斜めになっている。
そして斜めになっているところからみたら、まっすぐなものが歪んでみえる。
それがいまの日本なのだろうと思います。
眼を覚ましたボクたちが、みんなで力をあわせて、毎日ほんのちょっぴりでかまわないから、まっすぐな人を増やしていく。
そうすることで、一日も早く日本を生まれ変わらせなければならないと思います。
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