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孫田智恵子さん

ある本の前書きです。
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その女性は、手のひらに乗るほどの小さな箱を箪笥から取り出すと、
「大切なものが入っているの」
そう言って微笑み、私の前へ静かに置いた。
見事な寄木細工の小箱だった。
一体、何が入れられているのだろう。


そっとふたを外してみると、タバコの吸殻がふたつ、綿に包まれて入っていた。
銘柄も判別できないほどに変色し、指で触れれば崩れてしまいそうな――。
「彼の唇に触れた唯一のものだから」
八十四歳になる伊達智恵子さんにとって、六十年以上も前の吸殻は、婚約者であった穴沢利夫少尉(享年二十三)の遺品だったのである。
「女物のマフラーを巻いたまま、敵艦に突っ込んでいった特攻隊員がいる。しかも、その隊員の婚約者だった女性は、未だに健在でいるらしい」
特攻隊の取材をしている知人からの情報で、都内で一人暮らしをしている智恵子さんを訪ねたのは、平成十八年一月十三日のことだった。
寂しいご婦人なのだろうか。
そんな私の予想は裏切られ、実際の彼女は明るく、力強く生きていた。
「利夫さんは生きたくても生きられなかったけど、残された私や彼の家族、それに未来に続くあなたたちのために特攻隊として身を投じたの。私はその遺志を受け継いで、できることなら利夫さんの思いを果たしていきたい」
小柄でチャーミングな笑顔を絶やさない智恵子さんだが、彼女が語る利夫さんとの「物語」は、切なく、苦しい。
智恵子さんの記憶は鮮やかだった。
生への願望を持ちつつ、二十歳そこそこで死を覚悟しなければならなかった利夫さんの無念と、彼と結婚の約束をしていた自分が受け入れなければならなかった現実が、彼女の心に痛ましいほど深く記憶を刻みつけたのだろう。
「利夫さんが私だけに残してくれたものを公にしていいのかとずいぶん悩みました。だけど、彼の日記や手紙を見て、そこから何かを汲み取ってくれる人もたくさんいるでしょう。私自身もそれを何度も読み返して、利夫さんへの理解を深めることができたから」
こう言って彼女は、しまい込んでいた利夫さんの日記や手紙、写真を見せてくれた。言うまでもなく、これらは特攻隊に参加した若者たちを理解する上での貴重な「資料」である。
しかし、私が目にしたのは資料という無機質なものではなく、人の心を打つ「作品」であった。
「死」が前提にありながらも、利夫さんの書く言葉に愚痴めいたものは見つからない。
ただ、智恵子さんへの思いやりと、国家に危急が逼り来るときに青年として何をすべきなのか、という熱い思いが綴られている。その隙間に、さらりと挟まれている利夫さんの若者としての本音が、智恵子さんの話と共に私の心を打った。
しかし、智恵子さんは時折、私に戦時中のことを話すのをためらうことがあった。特に、その時々の彼女の気持ちを話す際、戦後三十年近く経って生まれた私がよく理解できないことに、もどかしさを感じるようだ。
「あなたたちは、命は尊いものだと教えられているでしょうけれど、あの時代は、命は国のために捨てるべきものだったの。今とは、あまりに価値観が違うから、わからないと思うことも当たり前かもしれないわね」
それでも、丁寧に話せば若い人にも伝わるはずだと、智恵子さんの下へ通い続ける私に、彼女は根気強く話してくれた。
そんな智恵子さんだが、最近まで思い出を胸に秘めたまま、誰が来ても取材に応じることはなかったという。彼女の考えを変えたのは、こんな思いだった。
「最近は、戦争が美談とされることもあるし、特攻隊を勇ましいと憧れを持つ人もいる。でも、私たちは戦争がいかに悲惨なものかを知っています。間違った事実が伝わらないように、今、話しておかないと、と思ったのです。あの時代を生きて、身をもって体験したことを語る人は、毎年少なくなっている。長く生かされていることに、何らかの使命が課せられているとしたら、それは語り部の役割かもしれませんね」
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この文は、水口文乃著「知覧からの手紙」 (新潮文庫)の前書きにある文章です。
文中に出てくる穴沢利夫陸軍大尉は、昭和20(1945)年4月12日、特別攻撃隊「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」に乗って知覧を出撃しました。
■桜を振って見送る知覧高女の女生徒達軽く手を振り微笑みを返して出撃してゆく穴沢少尉の隼機■

穴沢少尉機の出撃

その出撃のときの写真が、上の写真です。
写っている飛行機が穴沢機。
写真が小さいので、わかりずらいかもしれませんが、機上から穴沢大尉が敬礼をしている様子が見てとれます。
この日、穴沢大尉は、沖縄洋上で米駆逐艦に体当たり炎上する。
そして、火柱をあげて散華されています。
出撃のときの模様を、この写真で手を振って見送っている前田笙子さんが、日記に書いています。
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昭和20年4月12日
今日は晴れの出撃。
征きて再び帰らぬ神鷲と私達をのせた自動車は、誘導路を一目散に走り飛行機の待避させてあるところまで行く。
途中「空から轟沈」の唄の絶え間はない。
先生方と隊長機の偽装をとつてあげる。
腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかつた。
本島さんの飛行機も、ブンブンうなりをたててゐる。
どこまで優しい隊長さんでせう。
始動車にのせて戦闘指揮所まで送られる。
うしろを振り返れば可憐なレンゲの首飾りをした隊長さん、本島さん、飛行機にのつて振り向いていらつしやる。
桜花に埋まつた飛行機が通りすぎる。
私達も差上げなくてはと思つて兵舎へ走る。
途中、自転車に乗つた河崎さんと会ふ。
桜花をしつかり握り、一生懸命馳けつけた時は出発線へ行つてしまひ、すでに滑走しやうとしてゐる所だ。
遠いため、走つて行けぬのが残念だつた。
本島機が遅れて目の前を出発線へと行くと隊長機が飛び立つ。
つづいて岡安、柳生、持木機、97戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機もにつこり笑つた操縦者がちらつと見える。
二〇振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。
一生懸命お別れのさくら花を振ると、につこり笑つた鉢巻き姿の穴沢さんが何回と敬礼なさる。
パチリ・・・・・・後を振り向くと映画の小父さんが私達をうつしてゐる。
特攻機が全部出て行つてしまふと、ぼんやりたたずみ南の空を何時までも見てゐる自分だつた。
何時か目には涙が溢れ出てゐた。
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穴沢利夫大尉
穴沢利夫大尉

穴沢利夫大尉(出撃時少尉、没後二階級特進で大尉)は、大正11(1922)年2月12日、福島県那麻郡(旧・会津藩)のお生まれです。
幼い頃から読書好きだった利夫さんは、故郷に児童図書館を作ることが夢で、文部省図書館講習所を卒業します。
そして、中央大学に進学した。
親の仕送りで遊んで暮らせる生徒なんていうのは、当時はまずいません。
利夫さんも、お茶ノ水の東京医科歯科大学の図書館で働きながら、勉強した。
その図書館に、昭和16年夏、図書館講習所の後輩たちが実習にやってきます。
これが運命の出会いでした。
その中に、後に婚約者となる孫田智恵子さんがいたのです。
お二人の交際は、昭和16年の暮れ頃からはじまります。
もっとも、学生の男女がつきあうなどということは、はしたないこととされた時代で、
お二人の交際は、もっぱら手紙のやりとりばかりだった。
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智恵子様へ
半年前、あなたがぐらじおらすを持ってきて図書館の花瓶に生けてくれた日の夜、僕は誰もいない図書館でそれを写しました・・・・
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その手紙には、繊細なタッチで模写したグラジオラスの絵が添えられていた。
そして、智恵子さんが手紙で
 たまゆらに
  昨日の夕(ゆふべ)見しものを
と詠めば、利夫さんが、
 今日(けふ)の朝(あした)に
  恋ふべきものか
と返す。
この歌は、柿本人麿呂の歌です。
意訳は、「昨夜の、ほんの僅かなひとときお会いして愛を交わしたばかりなのに、一夜が明けてお帰りになると、もうこんなにあなたが恋しくなるなんて、こんなことがあってよいものでしょうか」
教養と教養、情感と情感がお二人の愛をはぐぐみます。
お二人にとって、とても幸せな日々でもあった。
穴沢利夫さんと智恵子さん(昭和17年春)
穴沢少尉と智恵子さん

お二人は結婚を望みます。
しかし利夫さんの郷里の兄は、都会の娘である智恵子さんとの結婚に反対する。
これにひきずられる形で、両親も結婚に反対です。
時は大東亜戦争の真っ只中です。
利夫さんは、昭和18年10月1日、戦時特例法によって大学を繰り上げ卒業します。
そして、陸軍特別操縦見習士官第一期生として、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入隊した。
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智恵子様へ
僕が唯一最愛の女性として選んだ人があなたでなかったら、こんなにも安らかな気持ちでゆくことはできないでせう。
どんなことがあっても、あなたならきつと立派に強く生きてゆけるに違ひないと信じます。
昭和18年9月6日夜
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昭和19年7月、サイパン島が陥落します。
昭和19年10月、制空権、制海権を失った日本は、神風特別攻撃隊を編成する。
昭和19年12月8日、飛行第二四六戦隊に配属されていた利夫さんは、特別攻撃隊第二〇振武隊員に選抜される。
利夫さんが、任地である三重県の亀山兵舎にいたときのことです。
そこに智恵子さんが訪ねて来た。
冷やかし半分に、二人を旅館に送りだした同僚たちだったけれど、このとき利夫さんは、連日の猛訓練で疲れて寝てしまったそうです。
二人は清い交際のままでいます。
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 わかれても
  またも会ふべく思えば
 心 充たれて
  わが恋かなし
    智恵子
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昭和20年3月8日、隊長から特別休暇をもらって帰郷した利夫さんは、両親を説得します。
そしてようやく智恵子さんとの結婚の許可を得た。
大喜びの利夫さんは、翌9日には、さっそく東京の智恵子さんの家を訪ね、その報告をします。
そしてその日、目黒の親戚の家に泊まった。
この日の未明、事件が起こります。
死者8万人以上、東京の3分の1を焼き尽くした3月10日の東京大空襲です。
東京大空襲
東京大空襲1129

智恵子さんの無事を心配する利夫さんは、まだ夜が開けないうちに親戚の家を飛び出し、智恵子さんの実家へと向かいます。
同じ時、利夫さんの実を案じる智恵子さんも、夜明けとともに目黒に歩いて向かう。
そしてお二人は、大鳥神社のあたりで、バッタリと出会います。
互いの生を確認できたお二人は、大宮の飛行場に帰る利夫さんを送って、二人で国電に乗りこみます。
ところが電車は、空襲のあとで避難する人々があふれかえり、あまりの混雑の息苦しさに、智恵子さんは池袋駅で電車を降りてしまった。
そして、これが二人の最後の別れとなった。
ひと月後、利夫さんから手紙が届きます。
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二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。
希望も持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた“時期を失する”ということが実現して了ったのである。
去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。
転々と処を変えつつ多忙の毎日を送った。
そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。
便りを書きたい、書くことはうんとある。
然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。
あなたの御両親様、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。
至らぬ自分にかけて下さった御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。
今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。
問題は今後にあるのだから。
常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。
然しそれとは別個に、婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。
「あなたの幸を希う以外に何物もない。
「徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない。
「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。
 あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。
 穴沢は現実の世界にはもう存在しない。
極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。
純客観的な立場に立って言うのである。
当地は既に桜も散り果てた。
大好きな嫩葉の候が此処へは直に訪れることだろう。
今更何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言って見たい。
1、読みたい本
 「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
2、観たい画
 ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」
3、智恵子。会いたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑って往く。
昭20・4・12
智恵子様
     利夫
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これが、穴沢利夫さんの最後の手紙となりました。
手紙の書かれた日付と、利夫さんの戦死の日付は、同じです。
おそらく、出撃の直前に、書かれたのでしょう。
智恵子さんは、利夫さんとの面会の折に、「いつも一緒にいたい」との想いから、自分の巻いておられた薄紫色のマフラーを手渡されました。
利夫さんは、その智恵子さんの女物のマフラーを首に巻いて出撃されました。
その様子が、次の写真です。
穴沢大尉のマフラー

マフラーが首に二重に巻かれているので、他の隊員よりもマフラーが膨らんでいるのがわかります。
愛する利夫さんを失った智恵子さんは、悲嘆の底に沈みます。
その智恵子さんの生きる支えとなったのは、利夫さんの入隊二週間前の日記だったそうです。
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智恵子よ、幸福であれ。
真に他人を愛し得た人間ほど、幸福なものはない。
自分の将来は、自分にとって最も尊い気持ちであるところの、あなたの多幸を祈る気持のみによって満たされるだらう。
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真に他人を愛し得た人間ほど、幸福なものはない
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八五歳を過ぎた智恵子さんは、「あなたたちは、命は尊いものだと教えられているでしょうけれど、あの時代は、命は国のために捨てるべきものだったの。
今とは、あまりに価値観が違うから、わからないと思うことも当たり前かもしれないわね」と述べられています。
日本人というのは、魂を親から子、子から孫へと伝達し、縦の命のつながりをつなげる民族です。
愛する人のために、その命を捧げる。
その命は、短い一生だったかもしれないけれど、肉体なんていうものは、魂を入れておくための殻でしかない。
魂は生き続け、後々の日までも人々に生きる勇気を与え、民族を活かしてくれる。
「命が終わったらおしまい、生きているうちが花」ではないんです。
そういうのを「刹那主義」といいます。
日本は「つながり」「共生」の文化です。
そして究極の愛は、自らの命を捨てることを厭わない。
そして究極の愛は、永遠に生き続ける。
そういうものなのではないでしょうか。
穴沢利夫さんの肉体は、昭和20年4月12日、沖縄の海に散りました。
しかし、穴沢利夫さんの心は、智恵子さんに生きる勇気を与え、そして未来永劫、世界の人々の魂をゆさぶる愛の物語として、語り継がれます。
何もなさず、ただ無益な人生を長く生きることが大事なのか、なにごとかを為し、死して名を残す生きざまが大事なのか、それこそが「価値観」の違いなのだろうと思います。
しかし、ひとつだけはっきりと申し上げれることは、すくなくとも後者こそが日本人の生きざまに他ならないということなのではないでしょうか。
そしてすくなくとも、我が国には祖国を愛し、愛する人を守るために命を賭けて戦い、散って行かれた236万柱の英霊の命がある。
その命をないがしろにする者は、もはや日本人にあらず。
国政における大臣の発言は、現代人だけでなく、この国に生まれ死んで行ったすべての人々へ向けた発言です。
その重みを理解できないような白痴は、もはや大臣でも政治家でもなく、もはや日本人ですらない。
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