
落語に「桃太郎」という作品があります。
三代目、桂春団冶が演目のマクラによく演じたことで知られた名調子ですが、寝かせつけようと桃太郎の昔話を聞かせる父親に、子が、
「なぜ昔なの?」
「なぜ何町だと言わないの?」などなど、いろいろと質問をぶつけます。
親が返事に窮すると、
「昔々、あるところに」というのは、時や場所を特定しないから想像力が働き、話が普遍的になるのだ、などと子が説くのです。
で、感心して聞いていた父親の方が寝てしまい、
「たわいない、いい親だなぁ」というのがオチとなっている。
実に愉快な落語なのですが、このお話を、実は「君が代」の説明のときに思いだしました。
以前、日本の国歌である「君が代」についての記事を書いたのですが、
≪君が代≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-566.html
この記事で、ボクは、君が代の歌詞の現代語への意訳として、「愛するあなたを未来永劫守り抜くために、小石が固まって岩になって、苔が生えるまで、ずっとずっと君を守る」と書きました。
で、このお話をある方がご友人の方にした。
するとそのご友人が、次のように反論したというのです。
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それはかなり現代風な意訳ですね。
君が代とくれば、その当時の天皇で、大抵は正月や即位の時の言祝ぎ(ことほぎ)の歌だし、
この(今の国歌になってる)君が代の歌には「守る」とは一言も書いてはない。
あなたの御代が永遠に続きますように、くらいの意味です。
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で、どう答えたら良いものかとご相談をいただき、それに対するご回答として、以下の文を書かせていただいた次第です。
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君が代の解釈ですね?
まず、君が代ですが、江戸時代には一般の民間人のご婚礼の際の長歌として、普通に謳われていたということがあります。
君は、天皇であり、愛する妻や子であり、祖国であり、郷土でもあります。
なるほど歌詞に「守る」とは書いてありませんが、
「書いてないから意味を持たない」
という認識では、日本の和歌や俳句を理解することはできません。欧米の詩人からもバカにされます。
行間に文字があるのが詩であり、和歌です。
そんなあたりまえのことですら、唯物史観論に汚染された現代日本人にはわからなくなっている、ということです。
石川啄木の一握の砂に、有名な歌があります。
東海の
小島の磯の 白砂に
我泣きぬれて
蟹とたわむる
この歌を、「お兄さんが、浜辺で蟹と遊びながら、泣いているシーンを描いた」とだけしか解釈できないなら、それはアホというものです。
なぜ泣いているの?
それは号泣なの?
それとも静かに涙でほほを濡らしているの?
なぜ蟹なの?
どうして東海なの?
小さな島って、どこなの?
なぜあえて白い砂浜なの?
要するに、それら短い文章の中の一語一語から、様々に想像力が膨らむ。
その膨らみが豊かであればあるほど、名歌と呼ばれます。
それが日本の和歌というものです。
もし、和歌について、書いてないから意味がないなどと答えれば、小学生の国語の授業でも、答案はバツです。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の 巌となりて
苔のむすまで
なぜ「大君」でなくて「君」なのか。
なぜ、千代だけでなく、八千代とまでかさねているのか。
さざれ石とはどのような石なのか。
どうして「巌」なのか。なぜ「岩石」や「塊」ではいけないのか。
どうして「苔のむすまで」なのか。
そうした一語一語へのこだわりが、豊かな想像力を産みます。
たとえば、「劫」という感じがあります。
これは数字の単位で、
万
億
兆
京
垓
穰
溝
澗
正
載
極
恒河沙
阿僧祇
那由他
不可思議
無量大数
劫
と、一万倍(4桁)ずつ単位がくりあがってきます。
そしてその最大値が「劫」です。
「劫」というのは、ガンジス河のほとりにある巨大な岩のてっぺんに、千年に一度天女が降りてきて、そのとき天女の羽衣が、岩のてっぺんをフワリと撫でる。
撫でられた岩が、羽衣で撫でられたことですり減って、ついに岩そのものがなくなってしまうまでの期間が「一劫」なのだそうです。
もし、単に未来永劫と歌うなら、「苔のむすまで」でなくて、「劫になるまで」でもいいはずです。
しかしこの歌の作者は、単にそれを数字の単位とするのではなくて、あえて「苔」という表現を用いた。
これはすなわち、日本が豊葦原の瑞穂の国であり、緑の国であり、アマテラスから天壌無窮の神勅を得た、緑を大切にする国であることからきている。
つまり、苔=緑であり、わたしたちは単に永遠にというのではなく、その間、常住して緑を大切にしていく民族であるという意味もこの「苔」の文字の中に込められている。
そういうひとこと、ひとことに深い意味を持たせ、そこから想像力をはたらかせながら、我と我が身を振り返って、よりよく生きるための手がかりにしていこうとするのが、日本人のものの考え方というものです。
要するに、ボクからみれば、
「君が代」の歌詞には、「守る」とは書いてない」という、その程度の解釈ができなかったことこそ、不明であり、恥じ入るべきことである、といえようと思います。
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とまあ、いささか、きつい調子で文を書かせていただいた次第です。
戦後左翼は、なにがなんでも「君が代」=天皇=戦争と結び付けたいようですが、ひとつ言わせていただければ、君が代という10世紀に編纂された古今和歌集に収録された和歌から、天皇、戦争というキーワードしか読みこなすことができないという狭い了見自体におおいに問題がある。
なぜ問題かというと、君が代=戦争と結びつけることで、そういっている左翼の人自身の人生に、何の益があるのか?といいたいのです。
君が代を戦争礼賛の歌である、と頭から「決め付け」、そう「レッテルを貼る」だけで、まるでそこから「学ぼう」という姿勢がない。
君が代が10世紀に編纂され、いまも歌い継がれているということは、1000年の時を超えて、君が代は人々に愛され、口ずさまれている歌であるということです。
それはなぜなのか。
なぜ歌い継がれたのか。
日本人の感性として、単に誰かを礼賛するだけのようなものは、あっという間に廃れます。
君が代は、誰かを礼賛するとかそういう意味あいではなく、人々の生き方や心のおきどころに、直接ひびく内容を持った歌だからこそ、1000年の時を生き抜いてきたのです。
その歌から、謙虚に学び、そして学んだことを自分の人生に活かしていく。
それこそが、歌を愛し、歌に学ぶということなのではないかと思う。
そういう謙虚さ、素直さを失うと、とたんに、君が代=軍国主義というような貧相で軽薄なレッテル貼りの言葉遊びに騙されることになる。
世界中探したって、1000年前の歌詞で出来た国歌を持っている国なんて、他にないです。
君が代は、私たち日本人の誇りです。
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