
♪吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
賭けた命を 笑わばわらえ
うまれ浪速の 八百八橋
月も知ってる 俺らの意気地
♪あの手この手の 試案を胸に
やぶれ長屋で 今年も暮れた
愚痴も言わずに 女房の小春
つくる笑顔が いじらしい
♪明日は東京に 出て行くからは
何が何でも勝たねばならぬ
空に灯がつく 通天閣に
おれの闘志が また燃える
ご存知、村田秀雄の「王将」です。
この歌は、昭和36(1961)年11月の発売で、西條八十作詞、船村徹作曲で、翌昭和37年には、第4回、日本レコード大賞特別賞を受賞しています。
歌のモデルになっているのが、大阪府堺市堺区協和町出身の将棋棋士、坂田三吉(さかたさんきち)です。
もう有名人なので、詳しくは申しませんが、舞台の大本あらすじで、非常にコンパクトにまとまっているものがありましたので、ご紹介します。
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http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8483/ousyou.htm
路地の将棋打ち、坂口三吉(板尾)。三度の飯よりも将棋が好きで商売ほったらかし、高利貸しからの借金で首も回らない。
巷で強い将棋打ちと誉め称えられ天狗になっていた三吉、ある日新聞社主催の将棋大会に出場、関根八段(荒川)と対局する事になる。
だが激しい攻防の末、千日手によって惜敗。将棋の道に専念したいが女房子供にこれ以上苦労をかけられない、かくなるうえは離縁だと宣言するが、近所の人々の取りなしで思いとどまる。
しょせんは素人将棋、有段者に勝てるわけもない。
もう将棋にのめり込むのはやめ、すっぱり忘れた方がいい。
親友のうどん屋・新吉(宮藤)に説得され、一度は将棋盤を捨てる三吉だったが、格子戸から路上に投影される方眼を将棋盤に見立て、通行人を駒にして手を考え続ける。
病弱な女房・小春(片桐)の献身的な内助と悔しさをバネに精進した三吉は、八年の月日を経て七段となり、ついに関根八段との再戦で初の勝利をおさめる。
後援者や彼に肩入れする新聞記者たちに囲まれ勝利の美酒に酔いしれる三吉に、しかし、娘の玉江(西牟田)は不機嫌に言う。
「お父ちゃんが勝ったんやない。関根さんが負けてくれはったんや。
みんな、あの銀で形勢逆転したって言うけど、うそや。
あの一手はヤケの一手や。
お父ちゃんの将棋は品がない。
勝つことばっかり考えて、いい将棋さしになることを忘れてる。」
痛い所を衝かれ、腹を立てる三吉。
だが夜更け、ひとりで将棋盤に向かう彼の姿を小春は見つける。
娘の言葉に目を覚まし、初心に返った三吉は弟子取りをやめ、ようやく豊かになった生活も捨て、さらに将棋の道を精進したいと話す。
すべての苦労をほほえみながら受けとめる小春。
小春に体を揉んでもらいながら、
「わしが死ぬまで生きていてくれ」と言う三吉……。

さらに八年後。関根の名人襲名のパーティー会場に、ひっそりと足を運んだ三吉の姿があった。
子宮ガンで危篤の小春をおいて、関根のお祝いに駆けつけたのだった。
関根の好敵手として常にたたえられ、今や東の関根、西の坂田と当代随一の差し手を争う三吉。
下馬評に反して名人襲名を逃したものの、世の中では三吉に「関西名人」の称号を与えようという運動が起こっていた。
だが、三吉の心の中からは以前の名声を追い求める気持ちは失せていた。
華やかな席を嫌い、控えの間で淡々と関根に祝いの言葉を伝える三吉。
関根もまた三吉の虚心に打たれる。
互いをたたえあい、自らを謙遜する東西の名人。
騒々しすぎる周囲から遠ざかり、心から楽しむために二人だけで将棋をさしたいと語る二人。
そこに飛び込んできた、大阪からの電話。
息子のヨシオからだった。
とうとう小春が息を引き取ったのだ。
最期に「あんまりアホな将棋さしなはんな」と言い残して……。
三吉に涙はなかった。
ただ、「小春に聞かせてやるから、受話器耳に当ててやれ」とヨシオに命じ、受話器に向かって念仏を唱え始めるのだった。
かなたにいる妻の耳に向かい、三吉はいつまでも南無妙法蓮華経を唱え続けるのだった。
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これはもちろん舞台の筋書きなので、多分に誇張があるのだけれど、それでも、いまも坂田三吉の人物的魅力は、多くの人の心をとらえて離しません。
たとえ勉強ができなくとも、たとえ字が書けなくても、たとえ貧しくても、男一匹、これと決めた道にとことん賭けて行く。
食堂のメニューが読めないため、一緒に行った付き人に読んでもらって食事を注文したり、記録係だった大山康晴が算用数字で考慮時間を記録しているのを見て、「英語で記録しているのか」と聞いてみたり。
ある日、字が書けないことを知った相手には、三吉は自分の頭を指さして「ここに将棋が一杯入ってまんねん。」とおどけたりもしたといいます。
書道家北野千里は、
「ほんまの先生は真率という言葉がありますやろ。あの通りですわ。ちょっと変わったとこはあったけど、素直で生地のまま、それはもう何のまじり気もない、あんな人がよう将棋させるなと思うような、純粋でええ人でした。」と語っています。
坂田の弟子といえば、藤内金吾に星田啓三で、孫弟子には内藤國雄、谷川浩司などが出ています。
それだけ三吉が魅力ある人物であったということであろうかと思います。
一方、映画や芝居の中で坂田三吉の好敵手として描かれる関根金次郎名人は、慶応4(1868)年の生まれで、出身地は、いまでいう千葉県関宿町です。
関宿というところは、橋幸男の名曲「潮来傘」にも謡われたところで、利根川と江戸川がちょうど分岐するところにある町です。
利根川は、別名を坂東太郎と呼ばれ、昔はしょっちゅう氾濫しては関東平野を洪水で水浸しにしていたのですが、これではせっかく徳川さんが江戸城を築城しても、嵐が来たらひとたまりもありません。
徳川さんは、嵐の度に流れを変える旧・利根川を、広くて大きな堤防のある新しい川に流し、利根川の水路を霞ヶ浦から銚子方面に流してしまいます。
そして、大都市である江戸に水をひくために、新たに築いた利根川から新らしく支流として江戸川を築いた。
いまでも、利根川や江戸川を見に行くと、ものすごく広くて、遠くの方はかすんで見えないくらい広大な河川と立派な堤防を見てとることができますが、こんな壮大な建築物を、なんと江戸時代初期にぜんぶ人力でこしらえてしまったのだからたいしたものです。
そして、利根川から江戸川が分岐するところに、川の番所として、関宿城を築城し、ここに直参旗本を配して、関東平野の治水を守らせます。
関宿から出た有名人といえば、他に鈴木貫太郎がいますが、そんな治水城下町から、関根金次郎は出ています。

関根金次郎は、340年続いた世襲制および修身名人制を廃止して、選手権制による実力名人制を制定したほか、現在の日本将棋連盟の前身である日本将棋大成会を興して、こんにちの将棋界興隆の基礎を築いています。
治水の要である関宿で生まれ育つことで、世の中の大きな仕組みそのものの変革を行うことで、後世の人々の安寧を願う、そんな気風が自然と身についていたのかもしれません。
関根名人が、実際に修身名人制を廃止したのは、大正10(1921)年に、第十三世名人となったあとのことですが、彼は相当若い頃からこうした理想に燃えていたようで、だから彼は全国を行脚して、地方の名棋士たちと交流を持ち、彼らの育成に努めています。
坂田三吉が、関根名人と出会ったのも、関根名人がこうして全国で将棋好きな人々と交わろうと開催した将棋大会でのことで、このことがご縁となって、坂田三吉という未曽有の天才棋士が西の横綱として誕生することになる。
関根名人は、将棋だけじゃなく、武道の達人でもあったのだけれど、弟子に対してはいつもやさしく、小手先の勝敗にも、まるでこだわらなかったといいます。
関根名人の最後の弟子である五十嵐豊一は、
「奨励会でなかなか昇段できなくて、成績を報告しに行く時にいつ田舎に帰れ、と言われるかとびくびくしていたけど、関根先生はどんな時でも、顔色一つ変えずに『負けろ負けろ』と励ましてくれて、小遣いをくれたりした」と述懐しています。
関根名人は、340年続いた歴史や伝統があまりにも大きくドンとのしかかっている将棋界を、たったひとりで大変革してしまわれた方です。
それを考えれば、戦後の反日左翼の歴史などというものは、たかだか65年しかない。
日本を守ろうと目覚めた多くの志士たちが団結し、たがいに励まし合ってひとつに結束したとき、日本は変わる。
必ず変わる。
とかく腹の立つことが多い昨今の世相ですが、腹を立てているばかりでは、なにも変わりません。
ただのぼやきや愚痴になってしまう。
ひとりひとりが、自分でできる範囲で、ほんのちょっぴりでもいいから、具体的に日本をとりもどすための行動をおこす。
ほんのちょっぴりが千人集まったら千倍の力です。
百万人集まったら、百万倍の力です。
理想に燃えて、ひとつの方向に走り出したとき、世の中は動く。世の中は変わります。
戦いましょう。
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