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ラクシュミー・バーイー
ラクシュミー・バーイー

先日「特攻と日本武士道」の記事を書いたとき、インドのジャンヌ・ダルクのことを、ちょっとだけ触れさせていただきました。
今日は、その女性のことを書いてみたいとおもいます。


名前をラクシュミー・バーイー (Lakshmibai)といいます。
上の写真の女性です。
長い間、インドが英国の植民地におかれていたことは、みなさまご存知の通りです。
そのインドが、1857年に、いちど大規模な英国への反乱を起こしています。
それが「セポイの乱」です。
「セポイ」というのは、英国の東インド会社に雇われていたインド人傭兵のことです。
この傭兵たちが、英国の圧政に対して立ち上がったのです。
「自由を我らに!」
「インドに独立を!」
セポイたちの叫びは、圧政に苦しむ全インドの民衆運動へと広がりました。
セポイの乱は、2年後の1859年は、英国軍によって鎮圧されています。
反乱の首謀者たちは、ことごとく英国によって死刑になりました。
情け容赦はありません。
実は、セポイの乱の鎮圧の背景には、実際に反乱活動をしたインドの民衆に対し、町の指導者たちが、なまじ中途半端に英国と和睦を図ろうとしたことが大きな原因となっています。
リーダーたちの腰が座っていなかったのです。
だから英国の鎮圧に対し、民衆をを裏切って自分だけが助かろうとしたりという事件も起こっています。
要するに町の指導者、つまり今の日本で言ったら、国会議員や内閣の大臣、県知事や地方議員たちが、市民の勇敢な行動に対して、中途半端に和睦の道を探ろうとしたのです。
インドは、英国統治になってから、祖国を裏切り、英国にすり寄ることで新たな利権を得て、カネと権力を持つ集団を形成していました。
そうした集団は、当然インド人でありながら英国に与したし、そうした金持ちたちと親しい、街の大物たちは、民衆の行動を必ずしもこころよく思っていなかったのです。
その結果どうなったか。
セポイの乱が鎮圧されたとき、真っ先に英国軍によって、処刑されたのは、中途半端に英国と和睦を図ろうとしたインドの民衆への裏切り者であるインドの指導者たちでした。
彼らは全員、英国軍によって逮捕され、大砲の前にくくりつけられて爆死させられています。
民衆を裏切るものは、古来、味方だけではなく、敵からも信頼などされないのです。
そういう歴史を、いま支那に摺り寄る民主党幹部は、すこしは勉強すべきです。
さて、そうして終焉をみたセポイの乱ですが、民衆の指導者の中に、最後の最後まで勇敢に戦い、幾度も英国軍を打ち破った勇気ある女性がいました。
それが、インドの英雄、インドのジャンヌ・ダルクと称される王妃ラクシュミー・バーイーです。
ラクシュミーは、英国軍の狙撃銃の前に倒れ、23歳の若い命を散らせました。
しかし、ラクシュミーの心は、インドの民衆の中に赤々と受け継がれ、89年の時を経て、インドを独立へと導いています。
肉体は滅びても、その心は時代を超えて語り継がれ、人々の心に勇気の火を灯す。
それが死んで名を残す、ということです。
インドの初代首相のネルーは、ラクシュミーを「群を抜いた名声を持ち、いまもって人々の敬愛を集めている人物」と述べています。最大級の賛辞を彼女に与えている。
ラクシュミー・バーイーは天保6(1835)年に、インドの小さな城塞都市国家、マラータの貴族の子として生まれています。
インドは、日本でいう室町時代である1526年に、ムガール帝国が起こり、全インドを統一しているのだけれど、当時のインドというのは、小さな城塞都市国家の集合体です。
ちなみに「ムガール」というのは、実はインド語で「モンゴル」という意味です。
ジンギスカンの血筋の遊牧貴族バーブルが建国したことから、その名が付いています。
いろいろと複雑な事情なのですが、このムガール王朝というのは、厳格なイスラム主義国です。
インドは、もともとカースト制で有名なバラモン教や、ヒンズー教、仏教などの宗教が入り混じる国ですから、どうにも統一国家としてのまとまりがつかない。
インド各地で反乱が起こり、帝国は徐々に衰退します。
そこに目を付けた英国が、1600年頃から次第にインドに入り込み、大量の機械製綿織物をインドに流入させています。
このためインド国内では、伝統的な綿織物産業が破壊され、インドの民衆は貧窮のどん底まで追い詰められてしまう。
ラクシュミー・バーイーが生まれたのは、ちょうどそんな時代です。
彼女の幼名は、「マナカルニカ」です。
これは、ガンジス川の別名で、心に悠久の母なるガンジス川が流れるような、凛々しく、おおらかな女性に育ってほしいという願いを込められて付けられた名です。
幼い頃のラクシュミー・バーイーは、父にたいへん可愛がられ、剣術や乗馬を好む、ちょっとおてんばな少女だったようです。
ところが、マラータ王国が英国と戦闘となり、敗北し、父は戦死してしまう。
城を追われ、流浪の身となったラクシュミーの一家は、苦難の中、母も他界してしまいます。
そんな苦労の中でも美しく凛々しい娘に育ったラクシュミーは、1850年、15歳で中央インドの小さな城塞国家であるジャーンシー王国のガンガーダル・ラーオ王に嫁ぎます。
ジャーンシー王国は、古くから交通の要衝として栄えた国です。
王妃となったラクシュミーは、ジャーンシーの民衆からもたいへんに愛された。
やがてラクシュミーは、念願の男の子を出産します。
しかし王子は、わずか三カ月でこの世を去ってしまう。
父の死
母の死
愛する我が子の死。
悲嘆に暮れるラクシュミーに、天はさらなる試練を与えます。
英国が「後継ぎのいない国は、東インド会社に併合する」という無嗣改易政策を押し付けてきたのです。
世継ぎがいなければ、王家の存続を認めない、というのです。
そうなれば王家は廃絶され、王宮は英国東インド会社の領事館として明け渡され、王室や貴族は四散しなければならない。
そして民衆には、奴隷としての圧制が待っています。
ラクシュミー王妃とラーオ王は、後継ぎに養子を迎え、なんとかして王家の存続を図り、民衆を守ろうとします。
しかし無理難題を押し付ける英国との交渉ははかどらず、心労を重ねたラーオ王は、1854年にあえなく他界してしまう。
夫を失ったラクシュミー王妃のもとに、英国は、まだ喪も明けないうちから、ジャーンシー王国の城塞の明け渡しを強硬に求めてきます。
このままでは、国が滅んでしまう。
悩み抜いたラクシュミー王妃は、英国の総督のもとに自筆で何度も手紙を送ります。
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インドの伝統を無視し、一方的な「法」を押し付けても、私たちの社会では通用するものではありません。
かえって英国領事の無知、無教養、狭量をさらけ出すだけです。
どうしても養子ではいけないとおっしゃるのなら、誰もが納得のいく説明を求めます。
国の力が強大であれば、それだけ自分の気ままに行動したり、間違いを侵すことを認めなくなるものです。
ジャーンシー王国の併合は、強い大国の、弱い小国に対する権力の発動でしかありません。
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このときのラクシュミー王妃の書簡は、彼女がインドだけでなくヨーロッパの法律や外交や歴史にも通じていた事を示しています。
当時の英国の役人でさえ、その鋭い説得力に感嘆したといいます。
ラクシュミーは、東西の学問に通じる群を抜いて聡明な女性でもあったのです。  
しかし英国によるインドの植民地支配の目的のもとでは、王妃の論説がいかに正しくても、蟷螂の斧です。
ラクシュミー王妃の書簡は、英国の総督によって完全に無視され、その年のうちに英国は軍を動員してジャーンシー王国を併合してしまいます。  
そしてラクシュミー以下、城内の貴族ら全員、王宮から追出されてしまう。
その日、ラクシュミー王妃は、居並ぶ英国の将兵の前で、決然と顔をあげ、
「メーレー・ジャーンシー・ナヒン・デーンゲー」と述べたと伝えられています。
「私はジャーンシーを決して放棄しない」といったのです。
王妃とはいえそんなきつい言葉を吐く若い女性を、城の摂取に来た英国の将兵たちは、鼻で笑った。
ところが3年後、セポイの乱が起こります。
セポイたちの叫びは、圧政に苦しむ全インドの民衆運動へと広がります。
運動の炎は、ジャーンシー国にも燃え移った。
決起したジャーンシーの民衆は、城に駐屯していた少数の英国軍を攻め、これを降伏させます。
そして、英国に対して徹底抗戦をしようと考えたジャーンシーの男たちは、城内の武器で武装し、デリーにあるセポイ反乱軍の本体と合流するため、城を後にしてしまいます。
このとき、男たちは城内に残る英国人の将兵を虐殺してしまう。
城内に残るのは、ラクシュミーをはじめ、女子供や老人と、わずかに残った体の弱い男性ばかりです。
この時点で、城には戦力と呼べるものがない。
屈強な男たちがいない。
歴史というのは複雑なもので、ジャーンシー王国が滅亡して、英国がこれを摂取すると、そこにいる民衆たちを裏切って、新たな領主となった英国と結託して特別な利権をもらい、大儲けし、新たな権力を築く連中がいます。
簡単にいったら、戦後GHQに我らは進駐軍だといってゴマを摺り、利権を得て駅前の一等地や飲食街を勝手に摂取して、極貧から大金持ちに大変身した在日コリアンみたいなものです。
彼らにとっては、ジャーンシーが復国することは、まったくもっておもしろくない。
彼らはすでに女子供しか残っていないジャーンシー国を、自分たちで攻め滅ぼすことで、英国に恩を売り、さらに自分たちの権力基盤を固めようとします。
そして傭兵を集め、ジャーンシー城の奪還を図ろうとする。
困ったジャーンシーの民衆は、元王妃であるラクシュミーのもとに集まります。
どうしていいのかわからない。
戦うと言っても、女子供ばかりなのです。
ラクシュミーは、城内にいる老人や女子供全員を城に集めます。
そして古くから伝わるカースト(階級)の差別なく、全員に等しく食事を与え、城内に残るすべての者たちで、徹底抗戦することを説きます。
わけ隔てのないラクシュミー王妃姿勢と、王妃の強くて固い決意に、城内の人々全員の心がひとつになります。
いよいよ敵が攻めてきました。
王妃は、兵士や民衆の先頭に立って指揮をとり、最前線に立ちます。
それだけじゃない。
激しい戦闘の中で、人々に食べ物を配り、傷を負った者に手厚い看護を施す。
王妃の細やかな気遣いに、城内の戦意はますます高まります。
戦意はあがり、結束はいよいよ固まった。
ジャーンシー城内にいるのは、婦女子というだけではありません。
カーストによる身分の違いに加え、ヒンズー教、イスラム教、バラモン教、それぞれの信徒がいる。
そこには宗教の対立さえあったのです。
しかし彼らは、そうした日ごろの信仰の違いさえ超えて、ラクシュミー王妃のもとに団結して戦った。
圧倒的な兵力で攻めてくる戦争のプロの屈強な傭兵たちの軍団を、彼女たちは次々に撃破します。
そしてついに、ジャーンシー城の人々は、女子供だけで、屈強な傭兵軍団を打ち破ってしまう。
この戦いに勝利した王妃ラクシュミーは、一躍反英闘争の旗手として、全インドにその名が知られるようになります。
こうなると英国としても、もはや在日連中を使ってお茶を濁しているわけにいかなくなる。
ラクシュミー王妃を危険人物とし、翌年、英国軍の本体によって、ジャーンシー城への総攻撃を敢行します。
在日に雇われた傭兵軍団と異なり、英国軍本隊は、近代装備による圧倒的な火力と兵力を持つ、訓練を受けた軍隊です。
ラクシュミー王妃は、私財を投げ打って傭兵を雇い、さらに城内の女子供全員にも訓練を施した。
そして、英国軍の圧倒的な火力の前に、なんと半月間も、頑強な抵抗を続け、何度となく英国軍を撃退します。
女子供に苦戦しているのです。
余りの苦戦振りに英国の指揮官であるローズ少将が、当時次のように書き遺しています。
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理由は十分すぎるほど明らかである。
彼らは王妃のために、そして自分たちの国の独立のために闘っているのだ。
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ラクシュミー王妃も、寝る間も惜しんでライフル片手に奮戦します。
けれども多勢に無勢です。
英国軍自慢の大砲の前に、城壁は破壊され、城門は破られ、ついに城は陥落してしまう。
戦いに敗れたラクシュミー王妃は死を決意します。
ところが、周囲がそれを許さない。
なんとしても祖国と民衆のために生き抜いてほしいという。
仲間たちの懇願に押された王妃は、養子の男の子を連れ、少数の護衛兵とともに馬にまたがって絶壁を駆け降り、城を脱出します。
このときラクシュミー王妃の一団は、一昼夜で160キロを走り続けたと伝えられています。
途中でいちど英国軍の検問に引っ掛かって逮捕される。
けれど、警護の英国士官をラクシュミーは、手にした剣で、抜く手も見せない早業で斬殺し、全員をそこから脱出させています。
そして一団は、やっとのことでカールビー城に到着する。
ラクシュミーは、カールビー城の反乱軍に交じり、徹底抗戦を主張します。
ところが、英国軍本隊の強大な火力に怖れをなしたカールビー城の指導者たちは、闘いを前にしてすでに腰砕けになっています。
英国と和睦の道を探るのだ、と主張する。
意見が対立したラクシュミーは、年若い女性ということもあって、カールビー城で孤立してしまいます。
そこに英国軍がやってきます。
大軍です。
指導者が腰砕けになっているカールビー城塞は、あっけなく陥落してしまう。
そして中途半端に和睦の道を探っていた城の指導者たちは、英国軍にとらえられ、大砲の先にくくりつけられたあげく、みせしめに全員殺されてしまう。
古来、戦うべきときに戦えない腰ぬけや、卑怯なゴマ摺りには、最後は死が待っていると相場が決まっているのです。
カールビー城の一軍の戦士たちを指揮しながら徹底抗戦を続けたラクシュミー王妃は、再びこの城を脱出し、計略を以って近くの城塞都市グワーリオル城を、無血奪取します。
そしてここを拠点に、全インドの民衆に徹底抗戦を呼びかける。
陸続と同志たちが集まってきます。
グワーリオル城は、ラクシュミー王妃を盟主とする闘う大軍団となる。
衝撃を受けた英国軍は、軍の本体の大軍をグワーリオル城に差し向けます。
迫ってくる英国軍の本体に対し、ラクシュミー王妃は、騎馬隊を編成し、最前線に立って英国軍に果敢に突入する。
騎乗のラクシュミーたちの一団がやってくるたび、英国軍は、蹴散らされます。
とにかく騎馬の利点を活かしたラクシュミーは、神出鬼没なのです。
あるときは夜陰にまぎれ、あるときは早朝の眠りの中を、突然現れては、英国軍を蹴散らしていく。
たまりかねた英国軍は、ついに、奸計をもってラクシュミー王妃をおびき寄せ、これを遠くから狙撃をして、王妃の命を奪います。
こうして安政5(1858)年6月17日、ラクシュミー王妃は、23歳の若い命を散らせます。
指揮者を失ったグワーリオル城の反乱軍は、散り散りになり、ついに反乱軍は鎮圧されてしまう。
闘いのあと、英国軍のローズ少将は、貴人に対する礼を以て彼女の遺体を荼毘に付したといいます。
それだけ彼女の勇敢な戦いは、英国軍にとっても脅威であり、尊敬に値するものだったのです。
こうしてセポイの反乱は、鎮圧されました。
そして英国のインド植民地支配は、ますます強められていきます。
インドの民衆は、ラクシュミーの死を嘆き悲しみ、そしてインドの自由と独立のために戦った彼女の鮮烈な生涯を、熱い追慕の思いを込めて語り継ぎます。
英国は、ラクシュミー王妃の生涯を描いた本は、すべて見つけ次第、焚書処分にしました。
しかし、彼女の勇敢な行動は、インドの民衆の間に語り継がれ、インド独立の闘士たちにとっての、かけがえのない心の支えとなるのです。
89年後の、昭和22(1947)年8月15日、インドは英国からの独立を果たします。
いま、インドの各地には彼女の名のついた「通り」や「女子大学」がある。
彼女は、祖国インド解放の先駆者の一人として、人々の胸に今なお生き続けているのです。
戦うべき時には戦わなければならない。
死して名を残す勇気を、私たち現代日本人は、もういちど思いだす必要があると思います。
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