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11月17日から27日まで、入院のためブログの更新ができません。
期間中、更新をさぼろうかと思ったのですが、花うさぎさんからのご助言をいただき、過去のエントリーの中の昔のオススメ記事を、若干の加筆修正をして、11日間流してみたいと思います。
今日は、その第一回です。
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【たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり りんと気高く たじろぎもせず】
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-408.html
長谷川伸といえば「沓掛時次郎」、「 一本刀土俵入」など 股旅もので、一性を風靡した作家です。その長谷川伸の書いた本の中に、「日本捕虜志」という著書があります。
第4回菊池寛賞を受賞した本なのですが、その中で、二木可南子さんという実在の女性が紹介されています。
彼女は、日本が降伏した昭和20年当時、数え年20歳でした。
東京で陸軍に徴用され、同じ年頃の娘3人とともに、シンガポールの医薬部隊に配属されます。
可南子さんの父、二木忠亮氏は、はイギリスのロンドンで個人商店を営んでいました。
そのため可南子さんはロンドンで生まれ、ロンドンで育っています。
ある日、可南子さんの母がロンドンで亡くなり、父は娘を連れて日本に帰国します。
やがて戦争が始まり、父は徴用され、大尉相当官の英語通訳を命ぜられ、マレー半島の攻略軍に配属されました。
娘の可南子さんは徴用されたとき、「父のいるシンガポールへ行きたい」と条件をつけたのが聞き入れられて、医薬部隊に配属されます。
医薬部は軍医少将の指揮下で、軍医中佐3人と、薬剤の中佐と主計少佐などが6人、そして徴用の技術者が600人いました。
女性は可南子さんのほかに3人。
いずれも英語が書けてタイプが打てます。
ことにロンドン生まれの可南子さんの英語は格調が高かったそうです。
終戦を迎えたとき、このシンガポール医薬部には、イギリス人が部局の接取にくることになっていました。
医薬部としては、接収のときのもつれを未然に食い止めるためにも、英語が堪能でタイプの打てる4人の日本人女性はいてもらいたい人たちです。
しかし接収に来るイギリス人が、すべて敬虔で紳士的とは限らない。
乱暴狼藉をはたらかれる危険はじゅうぶんにある。
結局一人ひとり説得することとし、可南子さんには軍医官があたりました。
軍医官は勇気を奮ってこう言います。
「あなた以外の三人の女性にも、残留してもらいたいと、それぞれ今お話をしています。」
「喜んで残留いたします。」
軍医官の言葉が終わると同時に可南子さんはそう答えた。
「え?」
「わたくし、東京へ帰っても父はおりません。」
「そうでしたね。あなたのお父さまはあのころから消息が絶えたのですね。」
可南子さんの父はその言動が軍の一部の怒りを買い、危険な地域に転出され、消息が絶えていたのです。
「ええ、ですから残留を喜びます。父はいつになってもシンガポールに、わたくしがいると信じているはずです。父は消息が絶える少し前に言いました。『父子のどちらが遠くへ転出となっても、一人はシンガポールにいようね。もう一人はいつの日にかシンガポールに必ず引き返してこよう。いつの日にかシンガポールで再会の時があると信じて』」
「二木さん、有難う。今後の仕事はあなたを疲労させるでしょうが元気を出してやってください。お願いします。」
「はい。愛国心は勝利のときだけのものではないと、散歩しているとき父がそう言いました。」
「そうでしたか。勝利のときより敗北のときこそ愛国心をと、お父様が言ったのですか・・・・。
二木さん、もう一つ、人すべてが善意を持っていはいない。
忌まわしい心を持つものもいます。
僕は、いや僕たちはあなた方4人の女性に危機が迫ったとき、人間として最善をつくすために、死にます。
これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です。」
「いえ、そのときには少なくともわたくしは、一足お先にこれを飲みます。」
襟の下からチラリと見えたのは青酸カリでした。
軍医官が唇をかみ締めて嗚咽を耐えたが、ついに咳を一つします。
それは咳ではなく押し殺したしのび泣きでした。
可南子さんは言います。
「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです。」
当時、終戦で復員する日本人を狙って、乱暴をはたらき、その女性が死んでもなお恥ずかしめをあたえられるという事件が実際にあったのです。
9月1日キング・エドワード病院にイギリスのハリス軍医中佐が、イギリスの300名の武装兵とともにやってきました。
4人の女性は青酸カリに手をかけて、窓のカーテンに隠れるように成り行きを見ています。
ハリス中佐と老紳士が印象的でした。
老紳士は、医学博士のグリーン氏です。
彼は穏やかなまなざしで言います。
「日本人の皆さん、私はまだあなたがたの気持ちがのみこめないので、武装した兵を必要としました。
日がたつにつれ、武装しない兵をごく少数とどめるだけにしたいと思います。
皆さんはそうさせてくれますか」とにこっと笑った。
ある日、日本刀が幾振りも隠されていたのが発見されます。
グリーン博士は激しく怒った。
「ここの日本人が私を裏切ったのが悲しい。
私の憤りを和らげうる人があれば、言うがよい。」
可南子さんは、軍医の意を受けて発言します。
芸術としての日本刀の在り方、名刀の奇蹟の数々、新田義貞が海の神に捧げて潮を引かせた刀、悪鬼を切り妖魔をはらった刀などの伝説等々。
日本の言葉で昼行灯という言葉があります。
これを人にあてて薄ぼんやりした人のことをいいます。
マレー人の言葉では、白昼に灯を点じていくとは、心正しくうしろ暗いことのない人をいいます。
「人種と言葉の差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずです」とユーモアを交えて可南子さんは説きました。
苦りきったグリーン博士の顔は、いつか和らぎ、何度もふきだしそうにした。
グリーン博士は、時折、可南子さんのロンドンなまりの英語を懐かしむように眼を閉じて聞います。
グリーン博士はロンドン生まれだったのです。
可南子が席につくと、グリーン博士は言います。
「発見された日本刀は直ちに捨てます。日本刀を捨てたものの追求はやりません。」
軍医たちは語りあいます。
「いつか警備隊員で色男ぶってるのがいたろう。
あいつが上村美保江さんに失礼なことを言ったのさ。
すると彼女は、『汝は警備隊員か侵略隊員か』と毅然として言ったそうだ。
後でグリーン博士は『お前の頭の中の辞書にはレディという項がないのだろう』と言ったそうだ。
そこでその兵は転属を志願して二度と顔を見せなくなったそうだ。」
「それはね、可南子さんが教えたんだ。
降伏直後、3人の女性を集めて、イギリスの女性という超短期講座を開いたそうだ。だからあの4人はイギリスの兵隊につけこまれることはない。
だけど、その3人は、イギリス人の将校に階段で会えば、どうぞお先に道を譲るけど、可南子さんは決して譲らないね。
僕は何度も見ているよ。
あの子はロンドン育ちだけど、それだけじゃない。
国は負けても、個人の権利をそのために自分で進んで割り引くのは卑劣だという信念があるのだね。」
グリーン博士がかくも寛大だったのには、昭和17(1942)年イギリス軍が降伏して日本軍が入ったとき、博士も捕虜になった経験があったからです。
監獄はひどかったが、やがて日本軍が、敵と味方を一つに視て、双方をあわせて供養した無名戦士の碑を建てたという話を聞いた。
そして、たびたび監獄に来て、私財を投じて食糧や薬や日用品をながいあいだ贈ってくれた何人かの日本人がいた。
グリーン博士は、「自分たちが生き延びたのはこのお蔭です。いつの日か報いたい」と語り合っていた。
「わたしは、チャンギー監獄で日本人によって人間愛を贈られたのです。わたしはこれに答えなければならない。」
雨季に入ってグリーン博士はロンドンに帰り、後任としてカンニング博士がくることになった。
ある日、カンニング博士が着任します。
前日に可南子さんがタイプした、残留60人の日本人の名簿を博士に提出した。
グリーン博士がその名簿を読み上げた。
「上村美保江、守住浪子、成田由美子それから二木可南子」
「Oh! フタキ。フタキですね。」
「そうです。カンニング博士」
「私はこの名をずっと尋ねていたのです。」
まもなく二木可南子さんが呼ばれて部屋に入ってきた。
カンニング博士は、またたきを惜しむように可南子さんを凝視した。
「ドクター・カンニング、お忘れになっている言葉をどうぞ」と可南子さんは毅然として言った。
「あっ、おかけください」
「ぶしつけに見つめて大変失礼しました。私があなたをみつめたのは、あなたの顔に見出したいことがあったからです。タダスケ・フタキを知りませんか?」
可南子さんの心は胸打ったが、声に変化はいささかもありません。
「私の父です。」
「OH!」
「1940年、東京へ帰るまでロンドンにいた二木忠亮ならばです。」
「そうです。そうです。そして1942年にシンガポールに日本軍の通訳でいた人です!」
「父です、確かに。」
可南子さんの頬が赤く染まった。
「あなたはあの人の娘か。」
「父をご存じですか?」
「忘れるものですか。」
「父は生きていますか?」
「ああ、あなたも私と同様、あの人の現在を知らないのですか。」
カンニング博士は可南子のそばに来て抱き寄せ、
「カナコの父が、カナコの前に立つまで、私がカナコの父になります。」とささやいた。
カンニング博士も日本軍のマレー攻撃で捕虜になってチャンギー監獄に入れられていたのです。
200名の捕虜はそこから連れ出されて、タイとビルマをつなぐ鉄道の大工事にかりだされた。
その時の捕虜係通訳が二木だった。
二木は捕虜の辛苦をます生活の中で献身的につくします。
病人やけが人、衰弱者があるごとに二木はできるかぎりのことを尽くした。
捕虜たちは二木を、神の使徒ではないかと噂しあった。
二木は長期間捕虜達と一緒だったけれど、1944年に入って突然姿を消し、二木の後任者も彼がどうなったかを知らなかった。
カンニング博士は可南子に遭遇してから、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍と二木の生死を照会したが一向にわからなかった。
激しい雷雨が去ったある日、カンニング博士が、
「カナコ、誰かカナコを呼んできてくれ」と言った。
可南子さんが姿を見せると
「カナコ、お父さんは生きていたよ! 妻から電話で知らせてきた。 グリーン博士も電話で知らせてくれた!」
そのときの可南子さんの深い微笑みを、後でカンニング博士は「東洋の神秘の花」とたたえたそうです。
「カナコ、お父様はフィリピンにいた。アメリカ軍が今朝知らせてくれた。すぐに希望のところに二木を送還するそうだ。」
これを聞いて可南子さんの眼に涙があふれてきた。
可南子さんは一人シンガポールにとどまり、フィリピンから来た父と再会できたのでした。
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たおやかに
やまとなでしこ
咲きにけり
りんと気高く たじろぎもせず
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父を慕って、シンガポールの医薬部に単身、赴任した可南子さん。
強いというか、たくましいです。
敗戦によって施設が接取されることになったときに、
「愛国心は勝利のときだけのものではない」と、自ら残留を望んだ可南子さん。
この精神性の高さ。素晴らしいです!
そして、万一、残ってもらう女性の身に何かありそうになったら、「自分は人間として最善をつくすために死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です!」と、嗚咽した軍医官もすばらしい。
自分の彼女でもなんでもないのです。
いってみれば同じ職場のスタッフの女性です。
その女性のために「万一のときは、自分は人間として最善を尽くして死にますっ!」
しかも、
「それが自分に確約できる全部ですっ!」
多少の訓練は受けていたとはいえ、軍医官です。お医者さんです。
そのお医者さんが、職場の女性のために、自分に残されたすべてを賭して、あなたを守って死にます、って言うんです。
ボクなどには到底及びもつかない精神の高みです。
しかし自分もそういう男でありたいと、本気で思います。
「いいえ、もしそういうことがあれば、私はこれを飲みます」と青酸カリを見せる可南子さん。
そして可南子さんは言いました。
「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたい」
これって、死後の自分の遺体をきれいなままで守りたいっていうことです。
もうこんなこと言われたら、ほんと絶句です。
そしてイギリス軍が接取にやってきたときも、凛として是非を主張した可南子さん。
イギリス人の軟弱男が、女性に下品な口をきいたとき、「汝は警備隊員か侵略隊員かっ!」と、凛として言い放つ。すごいです。
そうした凛とした人としての高みにある女性。それが大和撫子というものだと思うのです。
可南子さんにいたっては、階段の道すらも譲らない!!気丈です!
考えてみてください。
当時のイギリスは、大英帝国です。
イエローは、家畜以下の存在でしかない。
身長だって、当時の日本女性は150cm少々。
対する英国人は、平均身長190cm以上。
大柄なイギリス人将校が前からやってきて、小柄な可南子さんが、道さえ譲らす凛として胸を張って階段をすれ違う。
現代日本人よ、その凛々しい姿を見よっ!と言いたくなります。
そうした気丈さに心打たれたイギリス人の将校が、可南子さんのために、父親を探してくれるんです。
父親が見つかった知らせを受けたときの可南子さんの微笑みを、博士は
「東洋の神秘の花」
と讃えた。
わかる気がします。
当時のことです。捕虜の日本人女性は化粧などしていません。
スッピンです。
でも、命の輝きというか、人格からにじみ出る美しさというのは、下手な化粧などよりも、はるかに気高く美しい。
そういうものだと思います。
可南子さんのオヤジさんも立派な方です。
捕虜のために、ほんとうに必死で、私財までつぎ込んで働いた。
当時、日本人にすら、配給食や医薬品が行き届かない時代です。
飽食に慣れたイギリス人の生活水準と、日本のそれとでは天地ほどの開きがあった。そういう中で、捕虜のために最善を尽くしたお父さんも、ほんとうに立派な方です。
この物語には、後日談があります。
ある日、グリーン博士が、
「帰還の目処がついた、昭和21(1946)年の桜の花咲く頃に、あなたがたは日本に帰れるでしょう」とうれしい知らせを告げにきたとき、ちょっと気になることを言ったのです。
「ジェロンの収容所にいる日本人諸君が、あるイギリス人に不満をもっているそうですね。そういう話を聞いていますか?」
「いえ、聞いていません」
「私も確実には知らないのですから、今の話は取り消します。」
それは実は、こういうことです。
ジェロン収容所はシンガポールから5マイル離れたところにありました。
日本への復員船が3隻あったのだけれど、輸送指揮官の少佐が男だけ乗せて、女性の乗船を許さなかったのです。
その後、暴風雨が吹く季節風が吹く時期となり帰還船は停まってしまいます。
そこで日本人女性のなかで、怨嗟の声が起こったのです。
それに残った男どもが声を合わせるから、不満はますます大きくなる。
3月下旬にやっと1隻入ったが、このときもやはり女性の乗船は許されません。
少佐に対する怨嗟の声は、ますます高まった。
やっと次の引き上げ船がタンジョン・バガーの大桟橋に入ってきたとき、ようやく女性たちと子供全員の乗船が許されます。
女性たちは満腔の不満を胸いっぱいにして乗船してきた。
するとそのイギリスの少佐がお別れにきてこんなことを話しました。
「皆さんは私を怨んでいたそうですね。
でも私は皆さんに少しでも楽に日本で帰れることのほうが、私は大切だったのです。
私は船が入選するたびに検分しました。
そして一番気になるところを見に行きました。
この船には婦人用のトイレを心して作ってあります。
これならば、ほかのところもよいだろうと思いました。
私は戦時用の輸送船にあなたがたをおしこめて、不快な不自由な思いをさせたくなかったのです。」
女性たちの顔から恨みや不満の表情が消え、感謝の表情に変ってきた。
そしてその船が桟橋を離れる時、少佐へのせめての感謝のしるしにと、どこからともなく「蛍の光」が歌われ、歌声は60人ほどの女性たちの声で唱和されたのです。
イギリス軍の兵隊達はいついつまでもその船の影が見えなくなるまで見送っていたそうです。
このイギリス人少佐の日本人復員女性にたいする対応は、彼の意識の中に、二木可南子さんによる、日本人女性に対する畏敬の念があったからだといわれています。
たったひとりの女性の毅然とした姿が、勝者である英国人将校の心まで変え、多くの日本人女性を救ったのです。
このことは、私たち戦後の日本を生きる者も、忘れてはいけないエピソードではないかと思います。
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