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島守の塔(沖縄)
島守の塔

非常事態などというものは、起こらないに越したことはないのです。
たとえば、尖閣領海や竹島を、中共や韓国が強奪しに来る、あるいは、中共が日本に内乱を起こし、それに乗じて日本に戦争をしかける。
一触即発の事態や、万一の事態などというものは、申し訳ないが誰もそのような事態が来ることなど望んでいない。
しかしだからといって、万一の事態に「備えなくてよい」ということにはなりません。


事前に打てるべき手はちゃんと打つ。
しかしそのためには、情況をきちんと把握し、点と点をつなぎ合わせて、洞察力を働かせ、非常事態に備えるという行動が必要になります。
こうした非常事態が、現実に起なったことがあります。
それが昭和19(1944)年当時の沖縄です。
フィリピンが米軍に占領され、いよいよ次は台湾か沖縄に敵が上陸してくる可能性があった頃のことです。
沖縄にいた日本軍の守備隊は、万一に備え、沖縄県民を本土に集団疎開させようとします。
これは当然の判断です。
沖縄が戦場となるなら、それ以前のサイパンやパラオ、硫黄島での戦いがそうであったように、米軍は大量の兵と圧倒的多数の火力を持って上陸作戦を展開することでしょう。
しかも島の大きさや人口規模からして、米軍上陸部隊の戦力は、それ以前の南方戦線とは比較にならない大規模なものとなるのは間違いない。
このことは当時の軍関係者にとっても、当然予期できた事態です。
万一、そのような事態が起こったとき、島の住民の生命を守るためには、なによりもまず島の住民の本土への集団疎開をさせなければならない。
しかし、当時の沖縄の人口は60万人です。
疎開といっても、その規模は半端でなく大きい。
しかも、もはやいつ、米軍が上陸するかわからないという事態にあっては、まずは老人や婦女子から先に本土への集団疎開を開始しなければならない。
実際、昭和19(1944)年7月7日夜、政府は沖縄県民の60歳以上と15歳未満の老幼婦女子を本土と台湾へ集団疎開させることを閣議決定しますした
同じ日に、サイパンが陥落しています。
約31000名のサイパン守備隊は、玉砕した。
島にいた12000名の在留邦人も、運命を共にしています。
「もし同じことが沖縄で起こったら」と考えるのは軍事の常識です。
戦場となる地域から民間人をあらかじめ避難させようと考えるのは、誰の眼にも明らかだった。
戦場に多数の民間人がいたら、困るのです。
なぜなら民間人に被災者が出る。
そうなれば軍は、その守護や避難誘導、あるいは医療保護のために、戦闘力を大きく削がれてしまうからです。
さらにもっと大きな問題があります。
食料です。
当時の沖縄は、年間に消費される米の3分の2を、県外からの移入に頼っていました。
沖縄で戦闘が始まり、海上輸送が途絶したら、県民への食糧補給が困難になる。
一日もはやく沖縄県民を集団疎開させることは、沖縄を守る守備隊にとっては、まさに喫緊の課題だったのです。
しかし、この時点では、まだ、沖縄の海に米軍はいません。
空襲もまだない。
沖縄の空も、海も、いつもとかわらぬ平和な日常です。
そうした平和な日常の中にあって、まだ、自分の家も畑も、そのままの日常でいるのに、家の年寄りや女房子供を、本土に集団で疎開させる。
疎開したら農地はどうなるのか。
家で飼っている牛や豚の餌は、誰が面倒みるのか。
女房がウチからいなくなったら、明日からの飯はいったい誰が炊くのか。
疎開先で、子供たちの学校はどうなる?
疎開先での食事の面倒は誰がみるのか?
体の具合の悪い年寄りの面倒は誰がみるのだろう?
かかりつけの医者があるけれど、疎開先に医者はいるの?等々
現実に疎開ということになれば、それぞれの家庭ごとにいろいろな問題がでます。
そりゃあ、集団疎開なんてしないで済めば、それにこしたことはないし、沖縄が戦場にならないなら、それがいちばんいい。
見上げる空は、今日も青いし、見渡す海は、青く広く続いています。
その海原を埋め尽くすほどの米軍艦船があらわれ、巨大な手法から嵐のような艦砲射撃を加えてくるのは、それからまだ8カ月も先のことなのです。
いまこの瞬間は、あくまで、「もし、敵軍が来たら、こうなる」という仮定の話でしかない。
昨日と変わらぬ日常を送る一般の人たちにとっては、昨日と変わらぬ今日があり、今日と変わらない明日があるだけです。
荒井退造(あらいたいぞう)が、沖縄県の警察部長として着任したのは、昭和18(1943)年7月42歳の時のことです。
そして着任からちょうど一年後の7月に、荒井退造は、県民疎開の責任者を命じられます。
県民のみなさんに、ちゃんと説明し、納得していただかなくてはならない。
退造は、全署に指示して、講演会や家庭訪問を開催させ、県民一人ひとりに疎開の必要性を説いてまわります。
7月7日には、サイパンが陥落しているのです。
3万1000名の守備隊は玉砕、1万2000名の在留邦人も運命を共にしている。
沖縄で同じことがおこったらどうするのか。
ここは、つらくても一時的に疎開するのが一番良い。
疎開することで、沖縄守備隊も精いっぱいのご奉公ができる。
しかし、県民の反応はイマイチです。
警察官の言うことはわかる。
けれども、先祖伝来の土地からはそうそう簡単には離れられるものではないのです。
やむをえず退造は、県の職員や警官の家族を先に疎開船に乗せることを企図します。
役人や警官の家族が動き出したとなれば、県民たちだって安閑としてはいられなくなる。
それに、老人や妻子を本土に疎開させた暁には、残った職員たちは後顧の憂いなく奉公ができる。
7月21日、疎開船第1号の「天草丸」が県庁職員や警官らの家族752人を乗せて那覇港を出発します。
このとき、警察部輸送課長だった隈崎俊武警視(当時42歳)の妻と5男2女もその中にいました。
当時6歳だった四男の勝也さんは、当時の状況を鮮明に覚えています。
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追い立てられるような、慌ただしい旅立ちだったと子供心に記憶しています。
その日、一張羅を着せられ、まだ新しい帽子をかぶり、ランドセルを背負い、新品の革靴姿でした。
母は乳飲み子と3歳の妹をつれ、兄や姉は持てるだけの荷物を持って、那覇港に行きました。
埠頭(ふとう)は乗船する家族連れ見送りの人たちで一杯で、父も見送りに来ていました。
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輸送船「天草丸」は、すこし走っては停まっては耳を澄ます、また少し走っては、停まってあたりを警戒するという動作を繰り返しながら、すこしずつ航海をすすめます。
敵潜水艦による攻撃を警戒したのです。
通常ならわずかな道のりの航海も、だからこのとき、鹿児島に着くまでに2週間もかかった。
航海の途中、勝也少年は、ある日、黒く長い物が水面すれすれに、ジャブジャブと泡を立てながら、船体をかすめていったのを目撃しています。
大きな魚かと喜ぶ勝也少年を、大人たちは「じっとしなさいっ」と叱りつけて、ぎゅっと体をつかまえた。
それは敵潜水艦の魚雷だったのです。
天草丸は間一髪で助かった。
8月5日には、二番船だった「対馬丸」が、鹿児島の南西260キロの海上で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しています。
この船には、学童825人、一般疎開者836人が乗っていた。
助かったのは177人だけです。
ひとつ、たいせつなことを付け加えます。
非戦闘員を運ぶ船舶への魚雷攻撃は、国際条約に従い明らかな「戦争犯罪」だ、ということです。
戦後日本は、東京裁判で、戦後の事後法である平和に対する罪などで裁かれました。
しかし、法律不遡及の原則といって、法というものは遡って罪をなすりつけてはいけない。
法学のイロハのイの字です。
日本の輸送船は、当然のことながら非武装輸送船(疎開船)であることを示す標識を掲げて航海している。
しかも、走ったり停止したりを繰り返している。
さらに、進路は戦地に兵員や軍備を運ぶ「行き」のコースではなく、沖縄から本土に向かう「帰り」のコースです。
誰がどうみても、素人判断でも、よほど頭の足りない戦闘員でも、それが非戦闘船であることは、明白です。
こういう船を、一方的に攻撃されたのだ、ということを、私たちは事実として忘れてはならないと思います。
ともあれ、この疎開船によって、昭和19(1944)年7月から翌年3月までに、沖縄から本土に、延べ187回、合計7万3000人が疎開しています。
沖縄の人口は60万人です。
疎開者が以外と少ない、とお感じになると思います。
必死の思いで退造や沖縄県警の職員たちが推進した集団疎開に、おもわぬ邪魔が入ったのです。
邪魔をしたのは、仙谷、いや間違いました。
当時沖縄県知事だった泉守紀と、県のNO2である内政部長の二人です。

泉守紀第26代沖縄県知事
泉守紀第26代沖縄県知事

泉知事は新聞記者や議員たちに、露骨に疎開反対の意思表示をします。
年寄りや女、子供を言葉や風習の違う本土に行かせるのは可愛そうだ、というのです。
挙句の果てが、荒井退造県警部長の推進する集団疎開は、「県知事の意に反して、警察部長が勝手にすすめている独断専横である」とまで言い募った。
おかげで退造は、県議会に呼び出され、議員から激しい追求まで受けています。
間違った上長のもとでは、正が邪に、邪が正になるのです。
退造は、当時の日記に次のように書いています。
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排斥ならいくらでもやれ。
喜んでその排斥を受けるぞ。
愚民どもめ。
まったく沖縄はいやになった。
~~~~~~~~~~
誤解のないように文章の前後の関係から少し付け加えると、愚民と言っているのは、排斥運動をしていた県議会議員たちのことです。
沖縄がいやになったと書いているのは、沖縄県民が嫌になったというのではなく、沖縄に赴任して、さんざん嫌がらせをされ、いじめられる自分が嫌になったという趣旨です。
それが当時の男たちのマインドというものです。
先々の危険を予測すれば、当然やらなければならないことをしているのです。
しかもそれは、お国の決定事項でもある。
退造は、誰からも咎められるようなことをしているわけではない。
そして退造を信じてついてきてくれている沖縄県警の警察官たちは、全員が退造の指示を信じ、必死になって村々の説得にあたってくれています。
村で一緒になって村人たちの疎開のための荷物や老人を運ぶのを手伝ったり、ひとりひとりの健康を気遣ったり、空家となった村人たちの家の戸締りを確認したり、家畜動物たちの保護先を探したりして、みんな懸命に働いてくれているのです。
にもかかわらず、その責任者である退造は、県知事から嫌がらせを受け、県議会では吊るしあげられる。
風雲急を告げているのです。
内輪揉めしているような場合ではない。
にもかかわらず、退造さえ追い払えば、集団疎開のプロジェクトをつぶせると彼らは思っている。
内政部長も同じです。
彼は、NHKの取材に答えて、県民向けラジオ放送の中で、
「敵は絶対に沖縄に上陸しないことを確信します」などと放言した。
制空権、制海権を持ち、日本の絶対防衛ラインも破られているのです。
そしてそうした機密情報は、ちゃんと県知事にも内政部長にも知らされている。
米軍が、沖縄にくるか台湾にくるか、いきなり飛び越えて本土上陸を画策するか、それは米軍の判断であって、沖縄県庁が決定する事項ではない。
そんなことは、すこし冷静になって考えれば、誰にでもわかることです。
ところが、人というものは、理屈でばかり動くというものではない。
情が行動を左右してしまう。
警察が強権発動で集団疎開を進めている、家族が離れ離れになる。
多くの人にとって、それはとってもつらいことです。
なかには、そうした退造たち警察官の指導を疎ましく思う人もいる。
内政部長のこのラジオ談話は、沖縄県民の間に、いっきに広まります。
そしてせっかく盛り上がりつつあった疎開気運に、まっこうから冷や水を浴びせる結果となってしまいます。
こうなると、集団疎開を推進している荒井退造ら警察は、まるで県民の敵です。
当時の県の幹部というのは、本庁からの派遣です。
いまのような県内の公選制ではない。
本社が東京にある会社の沖縄支店長や副支店長みたいなもので、東京の本庁で人事が決まり、沖縄に赴任している。
そして県知事も内務部長も、沖縄がすでに「危険な状態」にあることは、一般県民よりもはるかによく知っています。
そして、このまま沖縄に残っていたら、もはや命はないと知った彼らは、とにかく一日もはやく、沖縄からどこか違う県に転勤したいと願い出て、裏でこっそり運動していたのです。
要するに、沖縄で集団疎開運動が大々的に起こり、沖縄が戦場と化す危険が高まれば高まるほど、総責任者である県知事、内務分野の総責任者である内務部長は、立場上の責任から、当然、最後の最後まで危険な沖縄に残らなければならない。
そうなれば、グァム、サイパン、パラオのように、自分たちが生き残れる可能性は、まずありません。
言いかえれば、集団疎開が本格化すれば、すでにイエローゾーン、レッドゾーンになったという認識となり、自分たちが転勤になれる可能性は皆無となる。死んでしまう。
要するに泉知事と県内政部長は、県民の命を盾にとって、自分たちだけの安全な転勤だけを夢見ていたのです。
そういう卑怯者に操られて、退造らを糾弾した県議会の議員たちも、いまにしてみれば哀れなものです。
しかし、こうした卑怯者というのは、はじめのうちはわからなくても、時がたつとだんだんに庶民の目にも明らかになってくるものです。
まず、県の内政部長は、東京に出張中に出たかと思ったら、無断で大分県の山奥の電話もない湯治場に「胃病の治療」と称して雲隠れしてしまった。
さらに泉知事は、用もないのにまる一ヶ月も東京に出張し、そこで転勤のための工作を必死でやっていた。
そしてやっと泉知事が沖縄に帰ってきた10月10日、米軍機による最初の大空襲が那覇を襲ったのです。
このとき泉知事は、寝間着姿のまま、官舎の防空壕に飛び込んで、市内の状況把握もしないで、空襲が終わると、そくさくと12キロも離れた普天間の地方事務所に、ひとりで逃げてしまった。
空襲の後なのです。
那覇の町は、大火災に見舞われている。
街の消化活動、被災者の救助と保護、医療機関の手当、焼け出された人々の避難場所の確保と食料やトイレの確保、離れ離れになった家族や迷子の子供の保護や捜索、瓦礫の山の撤去等々、やらなければならないことは山のようにある。
それらを全部放り出して、自分ひとりだけ、逃げてしまった知事に代わり、退造は、県庁のすべての機関をとりしきり、市内を駆け回って督励や具体的手当を講じて行きます。
その途中、車で移動中の退造を、米軍の戦闘機が上空から機銃で攻撃してきた。
間一髪、難を逃れた退造は、それでもめげずに、現場の警備中隊や警防団の督励に走ります。
警察部長の命がけの視察は、現場で働く多くの人々を勇気づけ、彼らは力を合わせて町の消火作業に努めたけれど、渦になって町を駆け抜ける猛火の前には、どうすることもできない。
ここへきてようやく、怨嗟の声が、知事や内政部長に対してあがるようになります。
「この重大な戦局のさなかに長たるものが逃げるとは何だ」というわけです。
一方、退造は、自宅にしていた官舎を焼かれて、着の身着のままになったけれど、県庁の近くのほら穴に寝泊まりしながら県庁に通い、みんなとともに被災地の復興や、疎開の手当てに奔走を続けます。
ここまでくると、沖縄守備隊の牛島中将以下の第32軍も、もはや泉県知事は相手にできないと悟ります。
第32軍は、退造を頼ってくる。
といって、退造は、警察部長です。
県の行政全部に権限があるわけでもない。
やむなく第32軍は、大本営に対し、沖縄県において軍で戒厳令を引き、県知事も軍の指揮下に入れるべし、との要求を出します。
これを聞いた東京の内務省は、驚いて、ようやく泉知事の転勤と内政部長の解任を承諾した。
ひとつの地方自治体について、軍が戒厳令をひくというのは、内務省のメンツが丸つぶれになるからです。
こうして沖縄には、昭和20(1945)年1月になって、島田叡(しまだあきら、43歳)が、大阪府の内政部長から沖縄県、第27代県知事として赴任します。
島田叡第27代沖縄県知事
島田叡第27代沖縄県知事

そして島田県知事は、荒井退造警察部長を右腕とし、第32軍とも打ち合わせて、沖縄県民の集団疎開を本格化させる。
けれども、この時点では、もはや疎開船だけでは、間に合わない。
やむなく、島田と荒井は、島に残っている老人や婦女子を、沖縄本島の北部に避難させることにします。
2月中には4万人を移動させ、学校、集落事務所などの既設建物に収容する。
その移動中に、新たな収容施設を建設し、3月上旬までに5万人強を移動させる。
そのために県土木課員を総動員し、移動する住民になじみの深い教職員の一部を疎開の第一線に配置する。
単に人が移動すればよいという話ではないのです。
人が移動すれば、そこには施設を作らなきゃいけない。
食べ物や排せつの面倒もみなければならない。
女性や高齢者の集団です。医療の問題も見過ごせない。
島田知事と退造は、半年分の備蓄食料を確保し、医者を手配し、それらを県北部に移送するだけでなく、避難民が決して飢えることがないよう細々とした手配を行います。
これにより、疎開船で本土に疎開した人、戦場とならない北部に疎開させた人は、合計で約20万人にいたった。
沖縄県60万県民の、3分の1が、疎開することができたのです。
戦火の中で生き延びた沖縄県民は、戦地となった南部の人たちではありません。
助かった多くの人々は、このとき島の北部に逃れた人々でもあるのです。
沖縄戦では、その後第32軍の牛島軍司令官が6月23日に沖縄本島南部の摩文仁で自決、その数日後、荒井はアメーバ赤痢で亡くなり、島田は近くの海岸の自然壕でピストルで自決しました。
沖縄ではいまも、戦時の記念日ともなれば、毎年平和集会が行われます。
そしてなぜかその期間中は、市内のホテルは、そうとう小さな旅館にいたるまで、宿泊施設は満杯になる。
要するにその反戦平和集会に集ってきているのは、沖縄県民などの地元の人々ではない、ということです。
そういう無責任な連中が、平和運動家と称して毎年やってきては、エセ平和運動を展開する。
ことさらに被害を強調する。
しかし、はっきりと申し上げれるのは、それら平和運動家さんたちは、いざとなったとき、沖縄県民を守るために命をかけて戦うということを、絶対に「しない」人たちである、ということです。
ひらたくいえば、卑怯者の集まりである、ということです。
祖国も歴史も郷里も、誰かが守ってくるようなものではありません。
尖閣も沖縄も、まずは私たち国民が「大切なものを守る」という意識を持たなければ護れない。
上にある、泉知事と島田知事の写真を見比べると、泉知事は実に押し出しの立派そうな大物然とした方に見えます。
一方で、島田知事は、なんの貫禄もなさそうにみえる。
けれども、戦闘など、実際に命のやりとりをする場にいたったとき、本当に真剣になって身を捧げて働いてくれるのは、見た目の立派そうな人でなく、妻や子を愛し、職務に忠実で誠実な人たちです。
口先だけの平和運動家には、いまの尖閣や沖縄、そして日本の危機は護れません。
戦うべき時に戦うのは、愛する人を持つ者だからです。
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