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満天の星空

秋も深まり、空気がすこし冷たいな、と感じるようになると、夜空の満天の星が美しく輝く季節になります。
ボクは大人になってからずっと関東在住なのですが、単身赴任のためはじめて広島に在住となった頃、夜、なんかの用事で東広島の八本松方面に車を走らせたのです。
その帰り路、山の中で、ふと夜風に吹かれてタバコでも吸おうと車を降りたとき、見上げた空の満天の星に、強烈な印象を受けました。
天の川がいまにも手が届きそうなところにある。
無数の星がまたたいている。


いまから40年ほど前になりますが、まだ中学生だった頃、天文が好きになり、星座を見上げるために屋根に登って見上げた空と同じ空がそこにあった。
同じ日本なのに、首都圏ではまず見られない無数の星です。
タバコに火をつけるのも忘れて、しばらく星を眺め続けたのを思い出します。
星空といえば、2006年8月17日、当時、石垣島天文台で副所長(当時)をしておいでの宮地竹史さんという方が、琉球新報に次の一文を載せられています。
引用します。
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【特攻隊の見た星】
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-16388-storytopic-64.html
石垣島に来ることになる前は、長野県の八ケ岳東麓、標高1350メートルの野辺山高原にいた。
夏は避暑地、冬は一段と星空も美しいが、氷点下の日が続く厳寒の地である。
27年前、ここにミリ波という波長の天体電波観測では、世界の群を抜く性能を誇る直径45メートルの電波望遠鏡を備える野辺山宇宙電波観測所が完成し、最先端の研究が続けられている。
ある日突然、観測所の入り口に石碑が建った。
表には「三重航空隊」「野辺山派遣隊」の文字が刻まれていた。
建立のいわれを尋ねてみて驚いた。
この観測所のある場所が、太平洋戦争最後の特攻隊の訓練地であったというのだ。
昭和20年5月、いよいよ本土決戦を覚悟した軍は、B29爆撃機に体当たりし撃墜するためにわが国初のロケット型特攻機「秋水」を開発する一方、ひそかにこの野辺山高原に海軍飛行予科練習生である少年兵を全国から集め搭乗員とすべく訓練していたのだ。
その数1196名。
そんなわけで、特攻隊にも関心を深くしていたが、石垣島に来てみるとなんと最初の特攻隊員は、石垣島出身で陸軍の伊舎堂用久中佐だと知らされた。
天文台の仕事を通じて、最初と最後の特攻隊について知ることになった。
何年か後に石垣市の平和祈念館で催された伊舎堂用久展で、ガラスケースに収められた遺品の中に、夜間に星の位置を測り飛行する天測航法のための手帳があった。
そういえば、元予科練の方は、
「夜でも自分の機の位置が分かるように星の位置は正確に憶(おぼ)えていた」とよく自慢された。
ゼロ戦で沖縄の空を何度も飛んでいたという方が石垣島を訪ねて来たことがある。
地上から眺める星空の美しさに平和の尊さをも感じてもらえたと思っている。
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実は、沖縄の空で、特攻隊として散った特攻隊の飛行機は、はじめは知覧ではなく、石垣島からの出撃だったのです。
沖縄戦が始まったのは、昭和20年4月1日とされていて、沖縄が日本に復帰する前、つまり米国委任統治領だったころは、上陸記念日として、この日は公休日とされていた。
しかし実際に戦闘が始まったのは、3月23日です。
この日米軍は延べ2000機の爆撃機で沖縄への大規模な空襲をしています。
そして翌24日には、沖縄本島南部と、米軍上陸予定地点への大規模な艦砲射撃を行った。
続いて26日には、沖縄本島那覇市の西30キロの海上にある慶良間諸島への上陸作戦を開始しています。
ちなみに慶良間には、日本側は、地上部隊をほとんど配備していません。
沖縄本島防衛のための「マルレ部隊」が3個いただけです。
マルレというのは、○に連絡の「レ」の字を書いたものの略です。
全長5.6メートル、全幅1.8メートルといいますから、ほんの小さな船です。
その小さな船は、もともとは海軍の連絡用艇として開発されたもので、だから、装甲は、薄いベニヤ板です。
これに日産自動車製の70馬力のエンジンを積んでいた。
そのエンジンも、なんともともとはトラック用のエンジンであり、海洋船舶用に開発されたものではありません。
そんな装甲もない、馬力もない小さな船に、250キロ爆弾をくくり付け、これで米軍艦艇に特攻しようとしていたのです。
その数なんと、300隻。
これが慶良間にいた。
ところが、特攻用に待機していたマルレ船は、事前の米軍の空襲で、全部焼かれてしまい、残ったのはたった4隻です。
慶良間にいたマルレ部隊は、この残ったわずかばかりの4隻で、米軍艦艇に向かって海上突撃戦を挑んでいます。
一方、米軍の上陸にやむなくジャングルに後退した日本軍と島の住民たちは、そこで一夜を明かすのだけれど、座間味島の住民172人は、翌朝の未明に集団自決してしまっています。
これを日本の軍部の強制だとか、わけのわからないことを反日左翼の方々が言っているようですが、きわめて無責任な発言です。
平和な島で、事前に、空爆と艦砲射撃で、徹底的に破壊掃討をやられているのです。
周囲の身内がそれでみんな死んだ。
かろうじて生き残って、体一つでジャングルに逃れて、明日はどうなるかわからない。
敵に見つかれば、男や子供は殺され、女たちは強姦され殺害される。
そんな状況の中で、生きて辱めを受けたり、苦しみながら殺されるくらいなら、いっそ死を選ぶというのは、ごく自然な庶民感情です。
なるほど米軍は、のちに沖縄戦において、日本軍や日本の民間人に対して保護的な扱いをするようになりますが、それは、あくまで日本側が勇敢に最後まで戦い、敵将バックナー中将や、ニミッツ提督が、勇敢に戦う日本軍に、むしろ敬意を表するようになってきてからの話です。
それまでは、彼らの眼で見た日本人は、ただのジャップ、黄色い猿でしかない。
よく聞く話だけれど、ひとりしか通れない田んぼのあぜ道で、向こうからアメリカ人がやってくる。
道を譲るためには、どちらか一方が、田んぼの泥水の中にはいらなければならない。
日本人同士なら、おたがい後ろに下って、道を譲り合うのだけれど、このあたりのマインドが、アメリカ人はずいぶん違います。
で、いちど米人に道を譲ると、次からは絶対に道を譲らない。向こうから、拳をブンブン振り回して威嚇しながらやってくるようになる。
ところが、こっちも道を譲らずに堂々と戦いを挑むと、次からはちゃんと互いに譲り合うようになる。
国民性の違いというか、あらくれ男の西部開拓者魂というか、とにかく勇敢に対抗する者でなければ、相手の存在を認めないというのが、ある意味、白人文化でもあります。
こういうことは、ほとんどの反日左翼の人でも、日本人と西洋人のマインドの違いとして、いわば常識的に知っている知識なのだけれど、なぜか、こと沖縄戦の話になると、日本が米軍相手に戦ったから悪いのだというようないい加減な主張がまかり通っています。
おかしな話です。
北米にいた先住民族のアメリカ・インデアンたちは、抵抗せず、相互の約束事で白人の居留地と自分たちの居留地を分けようとしました。
結果はどうなりましたか?
800万人いたインデアンは、いやまわずかに35万人。
そしてその全員が白人のDNAを体内に持っています。
さて、話が飛びましたが、沖縄戦です。
日本側にとっては、予期せぬ事態だった米軍の慶良間上陸に対し、一機の偵察機が、石垣島から夜間の強行偵察飛行で、状況の確認に向かっています。
操縦していたのは、撃墜王の誉れ高い岩本徹三少尉です。
岩本徹三少尉は、慶良間諸島に、まるで砂糖の島に群がる蟻の大軍のように海上を埋め尽くす米軍艦艇を見て、これを単機で銃撃します。
味方の援護なんてありません。
突然襲来して、米艦隊に大損害を与えた。
岩本徹三少尉というのは、最強のゼロ戦パイロットとして戦時中に216機の撃墜をし、戦後まで生き延びた天才パイロットです。
撃墜王というのは、5機以上の敵機を撃墜したパイロットに与えられる名称で、数の上からは、海外には岩本徹三少尉よりも撃墜数の多いパイロットはいることはいます。
ただ、自機が損傷を受けても、パラシュートで降下し、また戦闘機に登乗できた外国人パイロットと異なり、日本軍のパイロットは、自機が損傷を受け、墜落すれば、イコール死を意味します。
いわば、勝ったり負けたりしながら、生涯の勝ち星がいくつ、というカウントの外国人パイロットと異なり、日本軍パイロットの場合は、撃墜数=連勝数でもあります。
いかに、岩本徹三少尉の216機撃墜という数字が、凄みのあるパイロットだったかが、わかろうというものです。
岩本少尉は、敵レーダーをかいくぐるため、まるで泳いでいるかのような海面ギリギリの高さで長時間飛行し(これも普通できることではない)、米艦隊の前に突然姿を現します。
高高度の敵に対しては、近接信管の砲弾でもって、とにかく敵機が近づいただけで撃ち落とせた米軍ですが、海面ギリギリでやってくる敵機に対しては、近接信管が海面に反射して、まるで役に立ちません。
これは言いかえるとものすごいことで、近接信管が放つ電波は、半径15メートるなのです。
つまり、岩本徹三少尉の飛行は、海面から15メートル以下で敵艦に近づき、艦の直前で高度を上げ、ついで、機体を艦に向け、機銃を撃った。
一歩間違えば、海面や敵艦に激突してしまう、まるで曲芸のような飛行を繰り返し、砲弾が尽きるまで米艦隊を撃ち続け、悠々と夜の闇に消えて帰還しています。
想像するだけでも、いかにものすごい技量をもったパイロットだったかわかろうというものです。
(岩本徹三少尉については、また稿をあらためて詳しくご紹介したいと思います)
この岩本少尉の攻撃は、時間的には、座間味の住民の集団自決の直後くらいの時間帯です。
もし、自決の直前くらいに、この日本軍の勇敢に戦う様を座間味の住民たちが見ていたら、もしかしたら早まることはなかったのかもしれないと思うと、なんだかとてもやりきれない思いにかられます。
さて、3月26日に慶良間の島々を占領した米軍は、翌日までに作戦拠点となる泊地や水上機基地などを設置します。
岩本少尉の飛行と、座間味の駐屯兵からの無電で急を知った大本営は、翌27日に、沖縄防衛計画である天一号作戦を発動し、第三航空艦隊などを九州方面へ移動させます。
さらに戦艦大和を中心とした第一遊撃部隊、回天特攻隊にも、出撃を命じ、陸軍にも航空部隊による総反撃の命令を出します。
要するに、この日まで大本営は、米軍は台湾に先に上陸すると読んで、防衛計画を練っていたのです。
いいかえれば、米軍に裏をかかれて、急きょ作戦計画を沖縄防衛に切り替えたのです。
これを見て「大本営はなにやってんだ」などと考えるのは、素人判断というものです。
この時点で、日本側は、すでに戦争を維持できるだけの装備がほとんどなくなっていた。
残り少ない兵員や装備を、最大限有効に活用しようとすれば、ヤマをかけるしかない。そんなことは古今東西、あたりまえのことです。
だからこそ米軍は、これを承知で日本軍の裏をかき、まんまとそれに成功したのです。
どんな戦いでも、相手があっての戦いです。
敵に裏をかかれれば、それに呼応して、作戦計画も変更しなければならない。
この日、米軍側も、あわただしく動いています。
先ず米合同遠征部隊第51機動部隊司令官ターナー海軍中将が、南西諸島海軍軍政府首席軍政官に任命され、米第77歩兵師団が慶良間諸島に最初の陸海合同の「軍政府」を設置します。
そして、米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)を公布している。
これは、南西諸島方面について、米軍が占領統治を宣言したものです。
これに対し、すでに完璧な防空体制を整えた米軍慶良間上陸部隊に対して、決死の特攻攻撃を行ったのが、石垣島にいた日本海軍「誠」第一七飛行隊です。
隊長は、石垣市出身の伊舎堂用久大尉です(死後二階級特進で中佐)。
彼は、陸軍士官学校第五十五期で、このとき、満二十四歳だった。

伊舎堂用久(いしゃどうもちひさ)大尉
伊舎堂用久大尉

26日午前4時のことです。
沖縄出身の特攻隊員、伊舎堂用久大尉は、4機編成の九九式襲撃機に、それぞれ爆弾を搭載し、石垣基地を出撃します。
生まれ育った石垣の島々をなつかしむように、上空で旋回した伊舎堂隊は、慶良間に向かう。
そして、午前5時50分、慶良間諸島西方洋上の敵空母群を補足した伊舎堂少尉たち誠隊4機は、上空から一気に敵空母めがけて特攻を敢行した。
伊舎堂用久大尉の遺詠が残っています。
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 指折りつ
  待ちに待ちたる
     機ぞ来たる
 千尋の海に散るぞたのしき 
~~~~~~~~~~~~~~
指折り数えながら、待ちに待った敵がきた。
私は、たのしく海に散って逝きます、というこの歌には、行間に、遺された家族が悲嘆に暮れないよう、精一杯の明るさを遺した武人の優しさが織り込まれています。
最近の沖縄左翼は、「日本軍は残虐だった」、「米軍より日本軍の方が怖かった」などなど、卑劣なスローガンを声高に叫びます。
先日(23日)、沖縄独立を狙う中共さんから、このブログに支那が作った「琉球国国歌(琉球人歌)」の歌詞をご紹介いただきました。
以下のものです。
~~~~~~~~~~~~
琉球は我々のものだ。
琉球は我々のものだ。
それは、恥知らずで残忍な日本のやつら
私たちの郷里を占領して
私達の妻と娘を姦淫して、
私たちの愛する国王を連れ去ってしまった。
さすらう中国琉球子民
素早くに軍刀を手に持ち
日本のやつらの頭を切り落とせ!
琉球は我々のものだ。
琉球は我々のものだ。
琉球には芳しい魚米があります。
中国は私たちを引きとって世話をして
私たちは家に変えるために戦わなければならない。
死んだ国王を奴隷化されたため、号泣します。
胸に怒りの炎あふれる琉球子民
素早く魚叉(やす)を手に持ち
万里の波濤を克服して、帰ってきなさい。
~~~~~~~~~~~
そろそろ日本人は、ひとつのことに気付くべきだと思います。
上の歌詞を見たらわかるのですが、共産主義者が嘘偽りで他人を貶めようとするとき、必ず使う常套手段があります。
それは、貶めようとする相手については、その「固有名詞の前に、かならず悪意ある形容詞をつける」ということです。
上の歌詞を見てもあきらかですが、
~~~~~~~~~~~~
「恥知らずで残忍な」日本
~~~~~~~~~~~~
という表現などに象徴されています。
かならずこうした否定的な「決め付け」や「レッテル」用語が先にくる。
要するに故意に悪意に満ちた意図的な印象操作をするわけです。
普通の日本人は、たとえ認めがたい相手であっても、こういう悪意ある表現はしません。
せいぜい鬼畜米英や、売国民主党くらいがいいところで、「鬼のように残虐で畜生のような強姦癖のあるチョーセン人」とか、「残虐な殺人鬼集団の中国人」というような表現方法は、極右と呼ばれる人たちや会派ですら、まず、することがない。
むしろ「こうでこうだから彼らは危ないのです」と、理由を明示しながら、具体的にここと、ここが、危ない、という表現の仕方をする。
単にレッテルで人や国家を貶めるような発言はしないものです。
いくら保守を気取っていても、そこにまぎれた工作員や左翼主義者は、こういうところで、簡単に見破ることができる。
もういちど、上の伊舎堂用久大尉の遺詠と、支那の扇動的な歌詞を詠み比べてみてください。
いかに反日主義者たちの品のないことか。
その下劣さがわかろうというものです。
彼ら反日主義者たちが、いかに扇動的な歌を作ろうが、いかに反日的なスローガンを叫ぼうが、いかに日本軍は暴力的だったと叫ぼうが、及ばなかったとはいえ、多くの日本人の若者が沖縄防衛のために、勇敢に戦い、若い命を散らしたという事実は、決して消し去ることはできない事実に他なりません。
そして私たちは、私たちの先人達が、ひとつしかない大切な命を犠牲にしてまで守りぬこうとしてくれた大切な日本の直系の子孫です。
だからこそ私たちには、この日本の大地を、文化を、人々を、守り、子や孫につたえていく義務がある。
「日本を守る」ということは、世界の中で正義と自由と道理と真実を、破壊主義者達の手から守る、ということでもあります。
そのすべては、わたしたちひとりひとりの今を生きる日本人にかかっている。
守りましょう、日本を。
守りましょう、真実を。
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