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442部隊

442部隊のことを書いてみようと思います。
442部隊については、以前にもいちど書いているのですが、実は442部隊が、今度映画化されるのです。
ちょっと映画のテロップをご紹介します。
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アメリカ史上最強の陸軍部隊とは何か?
それは「442連隊」である。
「442連隊」とは二次大戦時に日系人で編成された部隊。
彼らはヨーロッパ戦線でファシズムと戦い、また祖国アメリカでの差別と戦い、二つの敵に立ち向かい勝利した兵士達である。
≪オフィシャルサイト≫
http://www.442film.com/
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正式名称は、第442連隊戦闘団(英:442nd Regimental Combat Team)です。
第二次世界大戦中の米国陸軍において、日系アメリカ人のみで編成された部隊です。
部隊の要員数は、3800名です。
ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘し、のべ死傷者数9486人という激闘をします。
442部隊の獲得した名誉勲章は21です。
名誉勲章と言うのは、米軍における最高の栄誉です。
21というのは米国史上、最多の叙勲です。
他に、陸軍殊勲十字章が52、銀星章が560、勲功章22、陸軍軍人章15、銅星章4000、樫葉賞が1200、名誉戦傷章9486、大統領部隊感状7枚の褒章を受けています。圧倒的な数です。
ちなみに、第442連隊として7枚目の「大統領部隊感状」は、トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に括り付けた。これは合衆国陸軍では初めての出来事です。
また、ひとつの連隊で7枚という数字も合衆国陸軍で過去最多受賞です。
昭和18(1943)年2月、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表されたとき、約1万人の応募が殺到しました。
募集定員は、1500名です。
いくら定員だからといっても、殺到した日本人たちは、どうしても部隊に参加させろと言って聞かない。
日ごろ従順な日系人にしては、めずらしいことです。
米軍の警備兵が、いくら殴ろうが叩こうが怒鳴ろうが、選んでくれるまで帰らないというのです。
やむなく米軍は定員を1000人増やし、2500名とするのだけれど、それでも収拾がつきません。
結局442部隊は、応募者全員の中から、屈強な若者3800名の連隊として発足します。
彼らは、最激戦地に派遣されます。
そのため戦死が相次ぎ、追加募集の結果、当初応募した全員が、結果、戦地に派遣されています。
つまり、1500名の枠に応募した1万人が、最終的にほぼ全員、戦地に赴いた。
442部隊の発足に関しては、そもそものところからお話をすすめる必要があります。
それは以前、「アロハ・オエ」で書かせていただいたことです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-406.html
要約すると、ハワイ王国が滅亡の危機に瀕したとき、ハワイ国王の要請で、明治18(1885)年に、日本人2万5000人がハワイに入植したのです。
当時のハワイの人口は、わずか5万7000人です。
もともと30万人いた人口が、白人の襲来によって、わずかの間に約6万人にまで減ってしまったのです。
ハワイの滅亡を案じた国王は、明治天皇に、日本人のハワイ入植を依頼します。
天皇はお断りなされたのだけれど、民間で入植団が組まれ、その結果約3万人がハワイに向かった。
そして日系人たちが、二世・三世となり、ハワイにすっかりなじんだ昭和16(1941)年12月、日本と米国が戦争に突入したわけです。
この時点で、ハワイは米国の領土ではありません。
ひらたくいえば、米国に一方的に統治された「地域」でした。
このあたりよく誤解する人がいるのですが「武力を持たなければ戦争は起こらない」という言葉は、きわめて不適切です。
圧倒的な国力・軍事力の差があったとき、武力を持たない小国に住む人々は、勝手に土地を奪われ、強国に蹂躙され支配され、食料や物資、労働力を徴発される。
徴発される武力のない国の人々には、「独立自尊」はありません。
意思も人格もプライドも私有財産も認められない。
それが「支配される」ということです。
「甘え」はありません。
ハワイはこうして白人たちに土地の3分の2を奪われ、国家としての独立も個人の財産もなにもかもが奪われてしまいます。
そして人口の8割を失い、わずか57000人の住む島となった。
このままいけば、ハワイの人々は、南米の国々と同じように、全員が白人種との混血になってしまう。
そこでハワイ国王が選んだのが、日本人の入植だったわけです。
同じ東洋系の人種であり、しかも日本は東亜最後の独立国として、立派に戦い、世界の強国の仲間入りを果たしている。
その日本人が多数入植することで、結果として生き残ったハワイ人が守られる。
世界の強国のひとつである日本人がいることで、米国人は他の領有地でのような横暴な振る舞いはできなかったのです。
こういうことを書くと、そんなバカな、と思われるかもしれません。
しかしそれが世界史の真実なのです。
すこし脱線してみます。
イベリア半島からやってきた食い詰め者の冒険者たちは、エルドラド(黄金郷)の夢に取りつかれて、南米に単身でやってきました。
そしてあり余った精力を、先住民族に対する殺戮と強姦に向けた。
結果、南米人に純粋種は絶滅し、白人種との混血種だけがいま、生き残っています。
ちなみに南米諸国は、おおきく3つに大別されます。
ひとつは、エクアドルやペルー、ボリビアなどのように、先住民族との混血エリア。
ふたつめは、アルゼンチン、ウルグアイのような、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されたエリア。このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮の対象にあいました。
みっつめは、黒人奴隷の輸入が人種構成を複雑なものにしたブラジルです。
ブラジルの場合、コーヒーの農園主たちは、最初先住民族を奴隷化しようとしたのです。
ところが先住民たちは、すぐにジャングルの密林の中に逃亡してしまう。
そこでブラジルの自然環境になじみがなく、肌の色ですぐに奴隷と識別できる黒人をアフリカから大量に運び込んだのです。
そうして国土を蹂躙された南米人たちは、いまだに極度の貧困と流民に悩まされ続けています。
比較的文化的に発展しているといわれるブラジルにしても、遊休地があると、そこにある日突然流民たちがやってきて巨大なスラムを形成します。
もちろん所有権や建築に絡む一切の法は、すべて無視されます。
夜が明けると、突然、無数のバラックが出現するのです。
これを「ファーベラ」といいます。
政府も、これを取り締まることができません。
なぜなら、ファーベラを下手に取り締まると、貧困民たちが暴徒化し、収拾がつかなくなるからです。
貧困に悩むファーベラでは、女たちは16歳になったら娼婦にならないと食べていけない。
そしてそんな彼ら、彼女らにとっての年に一度のお楽しみが、リオのカーニバルです。
カーニバルは、ファーベラごとに山車が出ます。
山車の上では、半裸の若い女性たちがサンバを踊ります。
山車に乗るのは、ファーベラに来て1年未満の男女です。
彼らは、山車の上で裸を晒し、踊り明かすことで、はじめてファーベラの一員、仲間として認められる。
リオのカーニバルの派手な衣装の裏には、そういう事情もある。
日本人は、ある程度純血種を保ちながら、いまだに日本文化を濃厚に残し、日本語を話し、歌舞伎や文楽、能、日舞などの伝統芸能などを濃厚に残しています。
個人が私有財産を持ち、平和に暮らしています。
これは、明治、大正、昭和と、私たちの祖父、曾祖父たちが、この国を守るために必死に戦ってくれたおかげです。
そのことを、私たちはもっと理解する必要があるのではないかと思います。
ハワイに話を戻します。
近くにある南米の実情を知るハワイの王様にしてみれば、こうした当時の世界の状況の中で、ハワイの独立をいかに保つか、ハワイの人々の暮らしをいかにして守るかは、たいへん大きな悩みであり、課題だったわけです。
そして、日本人の入植を大歓迎して招き入れた。
米国がハワイの女王に圧力をかけて無理やり退位を迫ったとき、東郷平八郎が戦艦を率いてハワイの警護に赴いています。
このとき女王が作詞作曲したのが、アロハ・オエの歌です。
しかし、強国日本を背景にした日系人がいるハワイに、大東亜戦争の開戦によって、米国は牙を剥きだします。
昭和17(1942)年2月には、アメリカ西海岸に居住していた日系人約12万人の全財産を没収し、全米10か所の強制収容所に入れたのです。
世界中、誰がどうみても、財産没収、強制収容は、米国の横暴です。
ですが米国にしてみれば、長年、目の上のタンコブだったハワイの日系人を葬るには、これがチャンスだった。
日本政府は、世界に向けて、米国の日系人財産没収と強制収用を糾弾します。
「理」は、あきらかに日本にあるのです。
米国は世界の非難を横道にそらすため、日系人による戦闘部隊の編成を決定します。
要するに日系人を米国民として処遇しているというポーズをとったわけです。
昭和18(1943)年2月、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表されます。
強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始まった。
日系人たちは、米国と日本と、2つの祖国の狭間に悩みます。
そこにもたらされたのが、東條英機首相の手紙です。
そこには、
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日系人は、祖国アメリカに忠誠を尽くせ
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としたためてあった。
しかし、祖国アメリカのために忠誠を尽くすとなれば、もしかすると日系人と日本人が干戈(かんか)を交えることになるかもしれない。
それでも、いま住んでいる国に忠誠を尽くせというのです。
東條英機の手紙は、まさに武士道の極みです。
これによって、日系人たちの意思は固まります。
そして、いざ、部隊の募集が始まったときの状況が、冒頭のものだった。
厳しい訓練ののち、部隊編制が発表されます。
部隊名は第442連隊です。
歩兵連隊を中核に、砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団です。
昭和18(1943)年9月、訓練を終えた442部隊はイタリアのサレルノに上陸します。
29日には、はやくもドイツ軍と遭遇し、そこで初の戦死者を出した。
昭和19(1944)年1月から2月にかけては、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防を行います。
そして同年5月の、ローマ南方の防衛線では、「カエサル・ライン」を突破。
ローマへの進撃の途上で、激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘でも大奮戦をします。
442部隊は、多大な犠牲を払いながらローマを目指したのです。
ところが連戦に次ぐ連戦で、多大な犠牲を払いながらいよいよローマに入場となったとき、442部隊に停止命令が出されます。
そして、後からやってきた白人部隊がローマに入城。
ローマ解放の栄誉を手にします。
昭和19(1944)年9月、442部隊はフランスへ移動します。
10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘。
ブリュイエールの街を攻ブリュイエールの町の通りには、「第442連隊通り」という名の道があります。
それだけすさまじい激戦があったのです。
しかし、多大な犠牲を払いながらも、名誉は与えられない。
そんな442部隊に、転機が訪れたのは、この年の10月のことです。
米国第34師団テキサス州兵によって編成されていたテキサス大隊が、ドイツ軍に包囲されるという事件が起きたのです。
すでに2万人の米軍がテキサス部隊救出に赴き、死んでいます。
それでもドイツ軍の重包囲はビクともしなかった。
テキサス大隊は“救出困難”とされ、テキサス大隊は「失われた大隊」 (Lost battalion) とまで呼ばれてしまいます。
ようするに、もはや救出困難と見切りをつけざるを得ない状況になっていたのです。
そのテキサス大隊の救出命令が、442部隊に下された。
なにもかもを行ったあげく全てが失敗に帰し、最後に捨て駒だった日系人部隊を放り込んだのです。
死ぬとわかっている戦いです。
それを強制するため、文句を言わせないように命令はフランクリン・ルーズベルト大統領による直命であるとした。
2万人を投じてもダメだったのです。
それを、わずか3000名の部隊に委ねるには、それなりの権威が必要だったのです。
442部隊は、その時点では、フランス東部の山岳地帯で戦いをしていました。
戦いの途中で休養もなく移動した彼らは、その日のうちにボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。
激闘は1週間続きます。
そして442部隊は、ついにテキサス大隊を救出した。
逸話があります。
救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだそうです。
このとき、テキサス大隊のバーンズ少佐が、
「ジャップ部隊なのか」と言ったのです。
これに442部隊の一少尉が怒った。
「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せっ!」
その迫力に、バーンズ少佐は謝罪して敬礼したといいます。
この作戦の2週間後、11月11日の第一次世界大戦休戦記念日に、ダールキスト米陸軍少将が442部隊を閲兵しました。
集合した戦闘団を見て、ダールキスト少将が不機嫌になります。
「部隊全員を整列させろといったはずだ!」
442部隊の連隊長代理が答えます。
「目の前に並ぶ兵が全員です」
442部隊は、211名のテキサス大隊奪還作戦で、約2800名いた兵員が1400名に減少していたのです。
この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。
歴史に残る激戦だったのです。
米本土の日系人強制収容所から、補充兵が送られ、再編成を行った442部隊は、ドイツへと移動します。
そして戦闘の末、ミュンヘン近郊にあるドイツ軍のダッハウの強制収容所の解放を行います。
しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は、なんと平成4(1992)年まで、公にされていません。
それでも、そういう重要な事実を隠されてでも、442部隊は、米国史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊となりました。
442部隊には、別名があります。
「名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)」というものです。
それだけ多くの死傷者を出した。
結局、442部隊は、わずか2年弱の活動期間の中で、総計1万8千もの勲章や賞を受けています。
こうした輝かしい武功をあげながら、戦争終了後も、アメリカ白人の日系人に対する人種差別は変わりません。
戦争が終わり、442部隊が解散して米国本土に復員すると、そこで兵士たちを待っていたのは
「ジャップを許すな」
「ジャップおことわり」
といったアメリカ人たちの冷たい言葉です。
激しい偏見によって、復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれました。
このような反日系人的な世論が変化するのは、昭和30年代も後半になってからのことです。
この頃、米国内での人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになったのです。
日系人は3つのイメージで語られます。
1 きれい好き
2 礼儀ただしく約束を守る
3 442部隊の勇猛さ
ジャパンタウンは、とても清潔です。
このことは、米国社会において、他のタウンと比較してもきわめて特徴的といわれています。
米国に行くと、よく「黒人お断り」というレストラン等を目にしますが、実際、彼らは、シャワーを浴びないせいか、かなりにおうことが多々あります。
上品なレストランでは、ホームレスのようなすさまじいニオイの客がはいってきたら、やはり、困る。
黒人差別というけれど、やはり、彼らの側にも何らかの反省点はあるような気がします。
また中華街は、中華街は独自性が濃厚すぎて白人社会に受け入れられない。
コリアタウンは、凶暴で危ない。
さて、第二次大戦後にいったん解体した442部隊は、昭和43(1968)年に、再編成されます。
そうです。
ベトナム戦争が始まったのです。
また、平成17(2005)年3月には、ハワイ州兵大隊の一つとして、イラク戦争に従軍しています。
442部隊の伝統を受け続ぐ米国日系人たちは、いまだに、勇敢に闘い続けているのです。
古代、都市国家形成からスタートしたヨーロッパ、アメリカの文化には、古くからのひとつの大原則があります。
それは、
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市民を守るために戦うものにのみ市民権はあたえられる
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というものです。
ここでいう市民とは、都市国家市民であり、現代社会では転じて、国家を指します。
つまり、自国を守る者にのみ、国民としての権利が与えられるのです。
言い換えれば、日本に住み、日本の歴史、文化、伝統を踏まえ、日本を守るために戦う者こそが日本国民、なのです。
他国の憲法を遵守し日本の法と秩序に従わず、その他国の徴兵にすら応じないような者は、少なくとも日本の国民ではないし、また彼らの祖国の国籍を持ちながら徴兵にさえ応じないなら、彼の国の国民ともえいない。
いかに経済力を持とうが、そういう人々は、世界中どこに行っても、単に卑怯で小ずるい寄生虫でしかない。
≪参照:「警戒」を「差別」とすり替える在日朝鮮人≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-526.html
そしてそういう連中に安易に国籍を与えるなどという意見を持つ者は、悪いけれど国賊以外のなにものでもない。
もし、在日外国人が日本での市民権(国民権)を得たいなら、彼らは、日本人以上に日本のために戦わなければならない。
すくなくとも日本人は、米国社会でそうやって生きてきたのです。
それもできずに、日本にいてさんざん、良い目をみておきながら、「差別」がどうのとか言うなら、それは「図々しい」という以外にない。
日本にいて日本がキライなら、とっとと自分たちの敬愛する祖国に帰れば良いのです。
これは日本人でも同じです。
人種が日本人だから日本人なのではない。
日本を愛し、日本の歴史、文化、伝統を愛し、日本を守るために戦うものだけが日本人です。
先祖が日本人で、日本がイヤなら、日本から出て行けばよい。
それから、もうひとつ。
激戦を戦い抜いた日系人たちは、もちろん米国軍人として戦いました。
同時に、彼らひとりひとりの心の内には、「人種差別撤廃のために戦う」という、日本人としての熱い誇りと自覚」があったということを忘れてはならないと思うのです。
アフガニスタンは、国土のほとんどが標高5千メートルを超える禿山で、わずかに南部の一部だけが平野部となっている国です。
そのアフガンの民は、ソ連が来襲したとき、アフガンの民としての誇りをかけて戦った。
そして200万の命を犠牲にして、ソ連を追い返しています。
そしてそのことが、世界の2大強国とされたソ連を内部崩壊に導き、ソ連に支配された東欧諸国の民の心に火をつけ、結果としてソ連を崩壊させ、東欧諸国の独立を果たす原動力となった。
たとえ小国といえども、誇りを賭けて戦う民は強いのです。
負けるな日本人!
負けるな日本の魂!
私たちは、誇りある日本人の末裔なのですから。
最後に、この442部隊についての映画を撮られた監督からのメッセージを転載します。
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【監督からのメッセージ】
442連隊はアメリカでの日系史を語る時、外す事の出来ない重要なテーマである。
それは、彼ら兵士が自らの血を戦場で流す事で、アメリカ人としての国家への忠誠と愛国心を示し、今まで尊敬されることの少なかった日系人の地位を、飛躍的に向上させたからである。
現在の日系人の地位がある程度アメリカ国内で認識されているのは、彼らの活躍なしには考えられなかったであろう。
そうした彼らのヒロイックで素晴らしい活躍と人種差別との闘いを描いた映画は数々作られて来た。
アメリカに住んで8年になる自分が、自らのアメリカでの日本人としてのアイデンティティを考える時、日系史は大いに示唆を与えてくれるものだった。
そう言う中で、442連隊の映画を作りたいという思いが沸き上がって来たのである。
しかし、敢えて日本人である私が今まで何本も作られて来た442連隊について何かを付け足すことが可能だろうかと色々悩んだのも事実である。
当然、彼らの抱えた痛みや辛さは日系人ではない自分には遠いものである。
それだけでなく、本当に日系人の気持ちを理解しているのかという疑問や日系人の歴史的な知識がどこまで十分なのかという自分自身への不安もあった。
しかし、これらの不安や疑問を押しのけてこの映画を作ろうと思わせたのは、前作「東洋宮武が覗いた時代」を見た多くの二世や三世の方からの励ましであった。
今まで戦時中の強制収容所を描いた映画は数多いが、多面的な視点から日系史を俯瞰した映画は少なかった。その中で、この映画は、敢えてそうした視点をとり、偏った見方ではなく日系史を描いたとして、多くの支持を頂いたのは望外のことであった。
恐らく442連隊の映画でも、同様に多面的な視点から、自分が日系人でないだけにより客観的に描けるものも多いのではないかということを、前作の映画は教えてくれたのである。
自分自身がアメリカの日系社会に何らかのお世話になりながら生活していることなどを思い、少しでも日系コミュニティに貢献出来る映画を作れるなら、映画監督としての自分も意義を見いだせるだろうと考えて、敢えてこの映画を作ろうと決意した次第である。
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是非、観に行こうと思います。
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