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名越二荒之助先生
名越二荒之助先生

名越二荒之助(なごしふたらのすけ)先生といえば、平成19(2007)年4月11日に84歳で永眠された、保守派の大論客です。
岡山県笠岡市出身で、陸軍軍曹として終戦を迎えられ、シベリア抑留で5年間を過ごされ復員されています。
なんと抑留中に反ソ活動を行って、懲役20年の刑を受けたこともある。
復員後は、岡山県で県立高校の教諭・教頭を歴任されたながら、国民文化研究会に所属され、昭和31(1956)年からは青年夏合宿の講師を務められました。


昭和42(1967)年には、若者を引き連れて韓国を訪問し、当時の張基栄副総理らと会見するなどして日韓交流に尽力され、翌昭和43(1968)年には家永教科書裁判で国側証人を勤められています。
先生は、全国を奔走する傍ら、台湾、韓国、パラオ等との友好交流活動を続け、また精力的に執筆活動を行ない、平成16(2004)年からは、チャンネル桜にもレギュラー出演なさいました。
名越先生の文を読んで、いつも思うのは、人間にとって、あるいは国家にとって「誇り」とは何か、ということです。
ただやみくもに他人を非難したり中傷したり、あるいは何十年も昔に自ら志願し、かつ親戚一同から盛大な祝福を受けて売春婦となって大儲けをしておきながら、いまになって強制連行されて売春婦にしたてあげられたなどと史実を捏造してまでカネをたかろうとする。
やたらに被害者ぶって自分たちはこれこれの被害を受けたとわめき散らす。
国家財政の3分の2を日本からの援助金によって賄ない、国家の近代化と教育の促進を図り、教科書どころか文字まで作ってもらい、庶民は名を名乗ることすら許されなかった国において、ひとりひとりの国民全員に名を名乗ることを広めてもらっておきながら、いまになって自分たちは被害者であって、日本に復讐しなければならないなどと言い出す。
自らのコミュニティで、金喜老をはじめとした数多くの犯罪者を出しておきながら、日本人が彼らを警戒すると、それを「差別だ」と言い張る。
「見苦しい」とはこのことをいいます。
これに対し、名越先生の文は、本来人類が共有すべき矜持や誇りを、実に格調高く述べられています。
今日は、そんな名越先生の一文をご紹介します。
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慰霊を通じ恩讐を超えていこう
~敵の戦歿者を慰霊した昭和の日本人~

名越二荒之助
「恩讐を超える」という思想 「昨日の敵は今日の友」とか、「汝の敵を愛せよ」という言葉があります。
中華民国の蒋介石総統は、日中が戦っているさ中にあって、拉孟騰越において全員が玉砕するまで戦った日本軍の勇戦を讃え、
「東洋道徳の範とせよ」
と二回にわたって全軍に布告しました(昭和十九年六月)。
また昭和二十年八月十五日には重慶から全国に向けて、いわゆる「以徳報怨」の演説を行ないました。
その中で彼は、
「旧悪を思わず、人に善をなせ」
「敵をも愛せよ」
と述べ、偉大な中国国民としての誇りを訴えました。
このような美徳は、日本にもありました。
昭和二十年四月十三日、アメリカのルーズベルト大統領が脳溢血で急死した時、鈴木貫太郎首相は、敵国元首の死を悼む弔辞を述べました。
このことは「ニューヨーク・タイムス」「ワシントン・ポスト」も報じ、西欧にも伝えられ、
「礼儀正しい日本武士道精神の発露」として感動を与えました(小堀桂一郎『宰相。鈴木貴夫郎』文春文庫)。
特に世界の識者を驚かせたのは、「万世の為に太平を開く」ために終戦に応じる、とされた昭和天皇の「終戦の詔書」に対する日本人の反応でした。
この詔書が換発されるや、あれほど戦意に燃えていた日本民族が一億慟哭の中に秩序整然と矛を納めたのです。
この威武不屈の態度は、「わが国人の範とするに足る」と、中華民国の王世杰外交部長も感嘆しました。
このような敵味方を超えた心の交流秘話は、韓国人と日本人の間にも沢山生れました。
本書第二部には、「敵国の死者を弔う日本人の伝統」と題して古来からの武士道的礼節を数多く紹介しています。この伝統は、昭和の時代にも受け継がれました。
そこで、ここでは一般に知られていない昭和の日本人の足跡を紹介したいと思います。
日本も韓国・朝鮮も、そして中国、ロシアも、恩讐を超えて相互の立場に深い理解を持ち、合掌の心で接したいと願うからであり、それが本書のテーマでもあるからです。
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全戦歿者を供養する高野山奥の院
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和歌山県の高野山には弘法大師霊廟があります。
そこに通ずる道を進めば、すぐ左側に五つの塔が見えます。
中央に建つのが「日本建国以来各戦役関係戦病死者供養塔」であり、それを囲んで次の四つの供養塔が立っています。
� 明治廿七八年戦役(日清戦争)
  日清両国戦病死者供養塔
� 明治卅七八年戦役(日露戦争)
  日露両国戦病死者供養塔
� 自大正三年至大正六年世界大戦〈第一次世界大戦)
  関係諸国戦病死者供養塔
� 満洲・上海両事変(日中戦争)
  日満支三国戦病死者供養塔
これらの塔は、China事変勃発前に建てられたことは判っていますが、誰が建てたかは不明です。
しかしこの前に立てば、敵味方を超えて戦死者を祀る日本人の心が伝わってきます。
また、その近くには「満洲・五族之墓」も建っています。
昭和五十一年に建立されたもので、「五族協和」の理想を掲げた満洲国の建設に尊い命を捧げた人々の慰霊碑が、日本、朝鮮、漢、満洲、蒙古の順に五基並んでいます。
その中央には慰霊塔が建ち、背後には、五族すべての戦残者(英霊)の芳名を刻んだ壁が建っています。
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北支戦線で建てた「中国無名戦士之墓」
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China事変勃発に伴う日中戦争において、いわゆる「南京大虐殺」に代表されるように、旧日本軍は悪逆非道の限りを尽したことになっています。
戦争ですから、残虐行為もあつたでしょうが、同時に武士道精神に基づいた素晴らしい行動もあったのです。
例えば、昭和十二年(一九三七)七月七日、China事変が勃発して間もない頃の朝日新聞(第一八五四五号)によれば、日本軍は戦闘が終れば、各地に
「China(中国)軍無名戦死者之墓」
を建てたといいます。
従軍記者の小川特派員は、日本軍兵士が中国人兵士の墓標を建てている光景を撮影し、「無名戦士よ眠れ」と題して、次のようにコメントしています。
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≪無名戦士よ眠れ≫
抗日の世迷ひ言にのせられたとは言へ、敵兵もまた華と散ったのである。
戦野に骸を横たヘて風雨に曝された彼等が、勇士達の目には大和魂の涙が浮ぶ。
無名の敵戦士たちよ眠れ!
白木にすべる筆の運びも彼等を思へば暫し渋る優しき心の墓標だ。
--北支戦線にて(小川特派員撮影)

日本軍が中国軍無名戦死者之墓を建てたことを報ずる当時の「朝日新聞」
無名戦士よ眠れ

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興亜観音の祈り――松井大将の悲願
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昭和十二年十二月十二日、日本軍は首都南京を陥落させました(この時、いわゆる南京大虐殺が起きたとされている)。
その後、すぐに「南京戦歿China陣亡者之霊」と書いた墓標を建て、日中両国の僧侶と中国側の自治委員会とが合同で慰霊祭を行ないました。
南京陥落後、日中両国の僧侶と、中国側の自治委員会が合同で慰霊祭を行った。(偕行社刊「南京戦死」別冊より)
合同で慰霊祭

 
この南京攻略戦の日本軍司令官は、松井石根(いわね)大将です。
松井大将は日本敗戦後、連合国が開いた極東国際軍事裁判で「南京暴虐事件」(いわゆる「南京大虐殺」を裁判の罪状ではこう呼んでいた)の責任を追及され、「A級戦犯」として絞首刑に処せられました。
刑死する前、次のような辞世を詠んでいます。
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天地(あめつち)も 人もうらまず一筋に
無畏(むい)を念(おも)ひて安らけくゆく
世の人に 残さばやと思ふ言の葉は
自他平等に誠の心
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松井大将は中China方面軍司令官として昭和十二年八月に出征し、China事変初期の最高責任者でした。
大亜細亜主義(アジア全体の共生)を信条とする将軍にとって、大場鎮と南京攻略における彼我が払った多大な犠牲は、痛恨の極みでした。
大将は復員すると、China事変での日中両国の犠牲者の霊を弔うために昭和十五年(一九四〇)の二月二十四日、熱海の伊豆山・鳴沢山に観世音菩薩像(興亜観音)を建立しました。
この像は最も戦闘の激しかつた現地の血土を運んできて造ったものです。
高さ一丈(三・〇三メートル)、柴山情風・小倉右一郎の作で、南京の方角に向って合掌しています。
開眼式は、朝野の名士、遺族等多数の参列のもと盛大に挙行せられました。
大将自筆の「興亜観音縁起」の一節に次のような文言があります。
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余(自分のこと)大命を拝して江南(楊子江の南)の野に転戦し、亡ふ所の生霊算なし。
洵(まこと)に痛惜に堪へず。
茲(ここ)に此等の霊を弔ふ為に、彼我の戦血に染みたる南地方各戦場の土を獲(と)り、
施無畏慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、
此の功徳(くどく)を以て永く怨親平等に回向(えこう)し、
諸人(もろびと)と倶(とも)に彼の観音力を念じ、
東亜の大光明を仰がん事を祈る。
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南京の方角に向かって合掌する興亜観音像(熱海・伊豆)
南京の方角に向かって合掌する興亜観音像

この観音像の横に本堂があります。
その中には、観音菩薩が一体安置され、
中央に「松井将軍部下戦死者霊位」、
左右に「China事変日本戦歿者霊位」、
「China事変中華戦歿者霊位」
の位牌が祀られ、いまも丁重に供養されています。
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中国大陸に樹を植えた緑の連隊長
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吉松喜三大佐は、China事変当時、戦車連隊長として中国大陸で活躍した人でした。
英霊は緑の樹に宿ると信じて、作戦が終わると
「弔日支両軍戦歿勇士之霊 興亜祈念樹」
という慰霊標をたて、その周囲に樹を植えました。
そんなことを繰り返しているうちにやがて吉松大佐は、中国人からも「緑の連隊長」と呼ばれるようになりました。
昭和十五年から復員する二十一年まで、吉松連隊長が大陸各地で植えた樹は実に四百万本に達し、敵の蒋介石総統も感謝したほどです。
吉松さんは戦後も靖国神社の銀杏を苗木にして頒布することを始めました。
「靖国」とは青を立てて国を安んずることだというのが、吉松さんの信念でした。
戦後、育てた苗木は百六十万本に達し、国内はもとより世界各国に植えられました。
ドイツ海軍が靖国神社に参拝した時、吉松さんが育てた靖国の銀杏の苗木三本を貰い受け、キール軍港慰霊塔(高さ八十五メートル)の横に植えました。
靖國の銀杏は大きく育ち、現在、銀杏の側にはその「いわれ」を日独両語で刻んだ銅版をはめこんだ碑が建っています。
ドイツはこのお返しとして樫の樹三本を日本に贈ってきました。
靖国神社境内に建つ靖国会館入口左にそびえているのがそれです。
後日談となりますが、戦後五十一年目の終戦記念日を前にした平成八年八月十三日、ドイツ大使館付駐日武官のロベルト・ウエルナー陸軍大佐が、イラン大使館のM・シャケリ一等書記官とともに靖国神社に正式参拝しました。
参拝した後、ウエルナー大佐は
「他の国の戦歿者モニュメントは退役軍人たちが音楽などを演奏し、賑やかだ。
しかし、靖國神社は静かで、慎ましやかで、他のところとは比べようがないほど感動的だ」という感想を漏らしました。
その後ウエルナー大佐は、ドイツから贈られたこの樫の樹の前に立ち、深い感慨にひたっていました。
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オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍
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昭和十六年(一九四一)十二月八日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。
それは破竹の進撃であつて、翌年の一月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。
英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。
シンガボールの中学二年用教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)は、その時の模様を次のように書いています。
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オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。
ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。
そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。
この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。
日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。
彼らは敬意を表すために、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。
十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。
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私はこの事実があったかどうかマレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏に質ねました。
杉田氏は、「当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている」とのことでした。
続いて当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(ASEANセンター代表)に聞きました。
氏はこう返答してきました。
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そんなことはいくらでもあった。第一山下奉文司令官が偉かった。
山下将軍は仏の心を持っていたから、英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。
司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。
特に我々は中国戦線で戦ってから、マレーに進撃した。
当時のChina兵は 戦意が乏しく、逃げてばかりいた。
ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。
だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。
それは海軍も同じだった。
日本の海軍航空隊は十二月十日に英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。
すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではないか。
日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。
寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。
しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。
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シンガポールの教科書にまつわる話はまだあります。
私が昭和六十三年五月にオーストラリアを訪ねた時、シンガポールの教科書を持参しました。現地の戦友会が歓待してくれたので、この秘話を紹介しました。
しかし、彼らはオーストラリア軍の勇戦も日本の美談も知りませんでした。
それだけにこの話を聞いて快哉し、「日豪友好の絆がもう一つ増えた」とたいそう喜んでくれました。
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キスカの十字架-五十年目の日米合同慰霊祭
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大東亜戦争の戦域は、遠くアリューシャン列島にまで及びました。
日本は昭和十七年六月には、アッツ・キスカ両島を占領しましたが、翌年の五月十二日には米軍がアッツ島に上陸作戦を強行してきました。
激戦は十七日間続き、同月の二十七日、遂にアッツ島守備隊は玉砕(二千余人)しました。
米軍は更にはキスカ島上陸を狙って空襲を続けました。
七月二十五日のことです。
米軍のP四〇戦闘機一機が、高射砲陣地を上空から攻撃し、突入自爆しました。
それに感動した日本軍は、そこに十字架を建て、板製ながら、英文で次のような墓碑銘を書いたのです。
≪Sleeping here a brave hero who lost youth and happiness for his Motherland!
July 25, 1943
Nippon・Garrision≫
この英文を書いたのは、大浜信用少尉(後に早稲田大学総長となった大浜氏の甥、健在)でした。
翻訳すれば次のようになります。
≪青春と幸福を母国のために進んで捧げた英雄、ここに眠る。
一九四三年七月二十五日
日本守備隊≫
その四日後の七月二十九日、日本守備隊(隊長は樋口季一郎大佐、後中将)五千六百名は、濃霧を利用して全員キスカから撤退しました。
見事なる奇蹟の撤収であり、そのスリリングなドラマは戦後、映画『キスカ』に再現されました。
米軍は撤収に気づかず、日本軍のいない島に向つて猛爆を繰り返しました。
八月十五日、三万四千の兵力をもって上陸作戦を開始しました。
上陸してみれば日本兵は一人もおらず、この十字架と英文の慰霊板が立っているだけでした。
米国シャトル市に住む山男のシャーマン・シャトル氏(軍曹)は、キスカから日章旗を持ち帰りました。
日章旗には「贈・春日部薫(かすがべかおる)君」とあり、中京山岳会から贈られたことが判りました。
春日部氏は名古屋に住んでおり、キスカでは通訳官でした。
日の丸がとり持つ縁で、日米のキスカ会の交流が始まりました。
平成五年(一九九三)八月十五日は、米軍がキスカに上陸して五十年目に当ります。米国側がシャトル氏を中心に十名と、日本側が春日部氏と菅野豊太郎氏〈米兵を丁重に葬った一人、当時分隊長、山形県在住)の二名で計十二名がキスカに集りました。
日本で言えば「終戦記念日」、米側にとっては「キスカ上陸記念日」に、十二人はかって十字架が建っていた場所で、仏式とキリスト教方式で慰霊祭を行ないました。
一行はその後五日間、現地においてテントで共同生活を営みながら、戦跡を訪ね、友好を深めたといいます。
平成5年8月15日、日本軍が戦時中に十字架を建てた場所で行った日米合同慰霊祭。
仏式で合掌しているのが菅野豊田郎氏(左)と、春日部薫氏。
米軍右側がシャーマン・シャトル氏。
日米合同慰霊祭

高野山奥の院の北ボルネオ戦歿者墓所には、「三国旗掲揚慰霊塔」が建てられています。
その掲示板には、次のように書かれています。
≪第二次世界大戦に於て、北ボルネオ(現マレイシア、東マレイシア)に派遣され、豪軍(オーストラリア)と戦い戦没された両軍の将兵、並に殉死された現地住民の総霊を祀ってあります。乞ふ合掌≫
この掲揚塔には毎日、日本、マレーシア、オーストラリアの国旗が交互に掲げられ、敵味方を越えて三国の戦死者を慰霊顕彰しているのです。
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ナイチンゲール精神の拡大を
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ここに紹介したのは、昭和の時代に日本人が残した業績の中で、私が確認できた事柄に限りました。
そのほかにも捜してゆけば、一冊の本ができるくらいに集まるでしよう。
韓国との間にもこうした感動の秘話がたくさん生れました。
秀吉の朝鮮出兵の頃は、日本軍は各地で敵兵の屍を埋めて弔いました。
このことは朝鮮の当時の指導者である柳成龍が書いています。
薩摩藩の島津義弘も帰国後、高野山奥の院に「高麗陣敵味方慰霊塔」を建立しました。
第二次大戦後になると、安重根の絶筆を大きな記念碑として建立しましたし(大林寺)、大邸市には日韓協力で「第二次大戦韓国人犠牲者慰霊碑」と観音像を建てました。
平成八年には毛谷村六助と朱論介の慰霊碑と観音菩薩像を、日韓協力して福岡県添田町に建立しました。
戦場にあって負傷した将兵を(敵味方を超えて)看病するのが、ナイチンゲール精神といわれます。
それでは戦争中といえども敵の勇戦を讃え、敵の戦死者を弔う精神は何と名づけたらよいでしょうか。
これは決して日本だけの独占物ではありません。
第二次世界大戦中、日本海軍はオーストラリアのシドニー軍港を特殊潜行艇という小さな潜水艦で奇襲攻撃しました。
オーストラリア軍はその勇気に敬意を表し、特殊潜航艇を引き揚げ、昭和十七年五月三十一日、戦死した四人の日本軍人(松尾敬宇大尉ら)を海軍葬の礼をもって弔いました。
海軍葬の推進役になつたシドニー地区海軍司令官のモアヘッド・グールド少将は、
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これらの日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰もが認めるべきであり、一様に讃えるべきである。
このような鉄の棺桶に乗つて死地に赴くには、最高度の勇気がいる。
これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、果して何人いるであろうか。
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と弔辞を述べました。
この海軍葬の模様は当時、ラジオを通じてオーストラリア全土に放送されました。
戦争中に、敵国軍人を海軍葬で弔つた、オーストラリアの騎士道精神は最も感動的な物語として長く語り伝えられるべきでしょう。
こうした戦時平時、敵味方を超えた心の交流を通じて日本も韓国も共に恩讐を超えていこうではないか。
両国民への提言の最後に、私はこのことを訴えたいのです。
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引用は以上です。
ゾロアスター教といえば、アフガニスタン北部の古代バルフの地に始まる古典的宗教で、この世は善神と悪神の二神の相克にあると説く宗教なのだそうです。
善神が、愛、信頼、正義、道徳、自制の神とするなら、
悪神は、不信、闘争、不義、不忠、欲望の神ということができる。
日本の心は、その根本にあるのが、共和、共生、相互信頼です。
反対に、中共や反日左翼の根本にあるのは、強制、支配、階級闘争です。
私たちが日本の心を守るということは、とりもなおさず世界に通じる人類普遍の善と正義を守るということではないかと思います。
悪神に騙され、個人主義、利己主義に走り、故意に歪められた歴史を信奉し、浮草のように漂いながら、目先のカネにとらわれ、大切な心を失うことは、陛下の大御心に背くことです。
昭和天皇は、終戦の詔勅を次のように結ばれました。
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朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
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意訳すると、次のようになります。
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朕はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。
もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、
持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。
~~~~~~~~~~~~~~
私たちは、戦後の50年「持てる力のすべてを未来への建設に傾け」戦後の復興をなし、見事に国民経済を再興させました。
しかし経済の根幹にあるのは、互いに約束を守り、信頼を損なわないという教育と道徳観です。
手形の支払期日になったら、武力で威嚇して支払いを拒むどころか、もっとカネを出せなどという無法がまかり通るようでは、一時的には収奪によって経済が発展するようにみえても、結果は不信の連鎖によって経済も国家も崩壊します。
戦後50年が経ち、バブルが崩壊して以降、日本経済が泥沼に陥っているのも、もしかすると私たち日本人のひとりひとりが、経済の根幹にあるべき信義・誠実と「道義を重んじ志操を堅固に保つ国体の精髄と美質」を失っているからなのかもしれません。
ある人が言っていました。
「日本は日本であるだけで美しい」と。
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日の丸いとこ・はとこ物語Part1.【The national flag of Japan】

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