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高倉健0821

日心会の会員の方から、おもしろいお話を伺いました。
なるほどと感心したのでご紹介します。
それは、警察犬の訓練士さんのお話です。


訓練士さんいわく、犬は多くの場合、2か月くらいで親犬のもとを離れて、新しい飼い主に引き取られるのだけど、オス犬の場合は、5か月くらまでその犬の両親と一緒に生活させた方がいいのだそうです。
その方が、モノ覚えが良く集中力もあって訓練結果が良い。
どうしてかというと、理由は、父犬の存在なのだそうです。
生まれたばかりの子犬は、2か月くらいまでは母親のモノです。
母犬は、子犬に母乳をあげることができる。
子犬たちは、母犬の柔らかな胸と、大好きな母乳を得て育ちます。
この「柔らかな胸と、大好きな母乳」というのは、母犬だけが持つ子犬への特典です。父犬にはその真似はできない。
子犬も、小さいうちはそれほど暴れないし、母乳を飲まなければ、お腹が空くから、いきおい母犬になつきます。
ところが3か月目くらいになると、子犬は乳離れする。
食事は通常食に移り、なかでもオスはメスと違って活動的で、暴れます。
平気で片足をあげてオシッコで、あちこちにマーキングもしはじめます。
こうなると母犬ではもう手がつけられません。
なにせ母乳という特典は、もう使えないし、暴れまわるオスの子供の行動力は、最早母犬と同等かそれ以上です。
ところが、この時期に至ると、がぜん、父犬の存在が値打ちが出るのだそうです。
オスの子犬が、勝手に父のテリトリーを荒らしたり(マーキング)、危険な遊び方、たとえば強く噛みすぎる等のことをすると、父犬は、ガウッとばかり、子犬を噛み、これを制止する。
なんたってオス犬同士です。
それもオトナと子供では、そりゃあいくらオスの子犬が元気でも、父親の腕力には敵わない。
ところが、父犬にとっては、たとえ暴れても可愛い我が子です。
叱りもするけれど、当然、子犬が怪我をしないように、たっぷりと手加減もする。
それでも、息子たちにとっては、怖い父犬から叱られたら、やっぱり怖い。
この繰り返しの中で、オスの子犬は、主として父犬から、やっていいこと、いけないことの堺目を体得するのだそうです。
そして自分よりはるかに大きな「父」と戦う(笑)ことで、子犬たちには、集中力もつき、目上の犬の存在というものも覚える。
こういう経験をしたオスの子犬は、2か月でいきなり母犬のもとを離されたオスの子犬より、はるかに集中力があって、聞きわけもよく、犬の訓練士の命令もいちはやく覚えるのだそうです。
一方、メスはどうかというと、メスは何カ月で親元を離されたかということよりも、よく訓練の行きとどいた同性(メス)の犬の集団に放り込むのが一番、訓練成果が出やすいのだそうです。
訓練士以上に、先輩のメス犬たちが、その子をしっかりと教え込んでくれる。
考えてみると、なるほどそうかもしれなくて、メスの子犬は、オスと違って大人しいので、ハナから父犬に叱られるようなことをしません。
だから、オヤジに叱られることもなく、母犬に上手に甘えて育ちます。
つまり、あまり父犬の影響を受けない。
ところが、犬も人間と同じなのでしょうね。
メスは仲間とのコミュニケーションを大切にするから、ちゃんとした同性の先輩がいると、その先輩の影響を受けて、尻癖も訓練もちゃんとできるようになる。
これは、すごいお話だと思いました。
犬と人間をいっしょくたにするなと叱られそうですが、人も犬も同じ哺乳類です。
動物行動学は、そんな動物の行動から、ヒトの行動を探ろうとする、立派な学問分野です。
子は、父と母、両方の影響を受けて育つというのは、よく知られた話です。
しかし考えてみると、生まれたての赤ちゃんは、やはり母親のモノです。
父親だって我が子はかわいいけれど、母には敵いません。
赤ちゃんにしてみても、父や爺の固い胸や腕に抱かれるより、そりゃあふかふかな母の胸のほうが気持ちいいだろうし、母乳ももらえるとなれば、なお一層、母が良い。
こういうところは、オトナも同じです。
学校の鉄棒の上より、自宅のふかふかソファーの方が、断然気持いいし、飯を食わせてくれる人、つまり給料をくれる人には、自然となびきます(笑)
ついでにいうと、ヒトの女性の経産婦は、二の腕に振袖のように肉がつきますが、これは、抱っこしたときに、赤ちゃんの頭部をやわらかく保護するために、そのように進化した結果なのだそうです。
まあ二の腕の話はともかくとして、丸太のような固い父さんの腕に抱かれるよりは、そりゃあ母ちゃんの柔らかな胸に抱かれる方がいい。
要するに授乳期の赤ちゃんは、やはり母のものです。
ところが、だんだん子供が大きくなり、言葉を解するくらいの年齢になってくると、特に男の子においては、父の存在がとても重要です。
とにかく男の子は、幼児のうちから、女の子と比べて、とにかく行動的です。
暴れまわるし、モノも壊す。落書きもするし、ちょっと目を離すと、どこか遠くに行ってしまう。
母が、食事や抱っこの特典を与えようとしても、遊びに夢中になった男の子は、まず言うことなど聞きません。
こうなると、父親の出番です。
まず第一に、父は、こわい!(笑)
幼い男の子よりも、はるかに行動力もある。足も速ければ力も強い。
怒れば、怒鳴るし、ポカリとゲンコツも飛んでくる。
せんじつめてみれば、母は子に、やわらかさや、やさしさ、笑顔、食事などの特典を供与できる。
これに対して、父は、強さとゲンコツです。
そうはいっても、まだまだ子供のすることです。
暴れまくるといっても、タカが知れている。
そして父や爺にしてみれば、我が子、我が孫はかわいくて仕方がないから、やはり一定の手加減がそこにある。
暴れることと、叱られること。その繰り返しの中で、子供は、ここまではやっていいけれど、これ以上やったら、叱られる、特にオヤジには、ポカリとゲンコツを食らわせられるという、怒られることと、怒られない境界線、すなわち社会的制約を自然と身につける。
社会的制約というのは、ある意味、道徳観や、社会的規範の原型でもあります。
そもそも道徳観や社会的規範というのは、子の行動に制約を加えるものですから、子にとっては、決して楽しいものじゃない。
なんでも好き放題できるわけじゃなくて、これ以上はやってはならないというタブーを強制するものなのですから、楽しくないのは当然です。
こうした楽しくないことの矯正は、メリット供与型の母ではなく、デメリット供与型の父の仕事です。
そして、こうした道徳や社会的制約を身につけることで、人は社会性を身につける。
とくに男の子の場合、ほっておけば好き放題に暴れまくるものなのですから、いっそう、父や爺による矯正や強制が大切なものとなります。
子供が悪さをしていて、それを制止しなければならないときに、「あらま、行けない子ねえ。ささ、こっちへおいで。抱っこしてあげるわ」
これでは、子供は、悪さをすれば抱っこという報酬をもらえると勘違いしてしまいます。
これに対して、基本、父親に抱っこしてもらっても、丸太に抱かれるようなものですから、決して気持ちいいものじゃない。爺に至っては、枯れ木に抱かれるようなものです。
父は、抱っこの変わりに「コラッ!」と叱るし、それでも言うことを聞かなければ、しまいにゲンコツが飛んでくる。
母は子にメリットを与え、父は子にデメリットを与えると言いかえることができるかもしれません。
しかし、そのデメリット、すなわち体罰を含めて、力の強いオトナが叱るということが、実は、男の子の成長にとっては、欠かせないファクターになる。
現代の学校教育においても同じです。
昔の学校と違い、昨今の学校では、とにかく体罰禁止、子を叱りつけることも禁止というけれど、その結果、授業中に私語が絶えない子供に、先生が「廊下に立ってなさい!」というと、モンスター親が登場して、「ウチの子になんてことするんですか!」とやられるようになった。
廊下に立っていたはずの子供が、どこかに消えちゃいでもしたら、こんどは学校の責任問題です。
もはや先生としては、授業中に後ろの席の子供とぺちゃくちゃやっている子供に、「ねえ、先生のお話、聞いてくださいね」と、「やさしく、お願い」するしかないという本末転倒の状況となる。
お願いされたって、子供は、特に男の子は言うことなど聞くものではありません。
先生のお願いより、そりゃあ授業をほったらかして友達としゃべっている方が楽しい。
こういうときは、「バカモン!」と子供を一喝するしかないのです。
あるいは、それで言うことを聞かなければ、ビンタをくらわせるしかない。
先生のビンタなんてのは、最初から手加減してくれているのですから、実社会にある暴力に比べたら、そんな軽いものは他にありません。
要するに、現代教育にもっとも欠けているのが、こうした「父性」なのではないかと思うのです。
「父性」は、「ゲンコツ」であり「体罰」です。
授業中に後ろを向いてぺちゃくちゃやっている子供がいれば、コラッ!とばかり、ポカリとやる。
それでも言うことを聞かなければ、後ろに立たせて、往復ビンタです。
言い聞かせてわからない子供には、体でわからせる。
特に男の子には、何が正しくて、何がいけないのかは、体でわからせるしかない。
「叱るよりほめろ」では、悪いことをしたら褒められる。かまってもらえる、と、まるで間逆を子供たちに教えることになってしまう。
本来なら叱られるべき時に褒められる、すなわち自分が認められる。
そういう環境で育った子は、自己正当化のカタマリになってしまう。
ずる賢く自分を正当化する癖がつくのです。
そりゃそうです。
悪いことをしたのに、褒められ、メリットを与えらるのです。
そんなことが習慣化したら、それが自分の中で「正しいこと」と誤認されるようになる。
本当は、人に迷惑をかけたのに、それを咎められると、自分の中では正当化しているのに、社会と乖離が生まれ、もうそこから逃げるしかなくなる。
遊んでいても褒められるのですから、当然、怠け者になるし、それを咎められれば、すぐにキレる。
やらなければならないことでも、それが面倒くさいことなら、しないし、無理にやらせても、すぐに疲れたと文句をいい、あげくの果てに自分ができないのは、人のせいだと言い始める。
なんでもかんでも「他人のせい」というところに、他人への思いやりなんて生まれません。
要するに、「叱るときは叱る」という父性があって、はじめて子供(男の子)は、忍耐を覚え、苦痛を忍んで努力することを覚え、めんどくさいこと、人が嫌がることをしなくなり、人のせいにせず、自分で問題を解決できるしっかとした男子に成長する。
この成長に欠かせないのが、「父性」というものなのではないか、と思うのです。
要するに「父性」が持つ
とりわけ、こいうことは、小学生くらいのうちにしっかりと教え込んでおかないと、男の子が高校生や大学生くらいになって、図体もでかくなってくると、取り返しがつきません。
一方、女の子はどうかというと、男の子ほどには、暴れたり悪さをしたりしないので、それなりに「母性」からの叱りや励ましで、社会規範や道徳観をちゃんと身につける。
やはり男の子と女の子では違うのです。
戦後左翼は、ジェンダーフリーなどと称して、男も女も一緒だ、なんてやってますが、そんなのは空理空論です。
誰がどうみても、男と女は違う。
体つきも違えば、精神の作りも違う。
男は男らしく。女は女らしく、という言葉は、現代日本では、すでに死語になっている様相ですらあるけれど、いまいちど、男女の教育の在り方について、考えてみる必要があるのではないかと思います。
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