
まったく暑い日が続いています。
気温35度、日中、ちょっと放置したボクの事務所部屋の中は、温度計が48度までなのですが、なんと室内温度が、いっぱいまで上がっていたりします。
こう暑いと、頭もボーっとしてくる(笑)
あんまり暑いので、今日は、ちょっと肩の力を抜いて、たわごとを書いてみようかと思います。
「僧兵」という言葉は、みなさんご存知のことと思います。
日本の古代から近世初頭にかけて、暴れまわった僧形の武者です。
お寺に所属する武装集団で、有名なところでは武蔵坊弁慶などがいます。
僧兵は、もともとは、「法師武者」とか「僧衆」です。
「悪僧」ともいいます。
この場合の「悪」というのは、「強い人」という意味です。
「僧兵」と呼ばれるようになったのは、江戸時代からのことなのだそうです。
この「僧兵」というのは、いまでいったら、反日左翼の武装集団みたいなものです。しかも彼らは当時の仏教界という豊富な資金源と広大な寺社領に守られていた。
彼らは、都に出ては「強訴」を繰り返し、好き放題に暴れまくります。
「平家物語」の巻一には、白河法皇が天下三大不如意として、賀茂河の水(洪水)、双六の賽(サイコロ)、山法師(僧兵)をあげて嘆いたという逸話が残されている。
いまでこそ仏教界といえば、平和的かつ温厚な世界ですが、飛鳥、奈良、平安の頃には、たくさんの僧兵を抱えた、ものすごく武闘的な政治的軍事的圧力集団だった。
おかげで、飛鳥朝の時代には、天皇が変わるたびに都を移転しています。
地元に巣食う武闘宗教勢力から、ある意味、朝廷が逃げ回っていた。
奈良の都を捨てて、京の都に遷都が行われたのも、僧兵たちが度々神輿を繰り出して強訴に及んだからということも、いろいろな記録に書かれています。
そもそも仏教は、本来は静かな祈りの集団であったはずなのだけれど、大陸から日本に渡来した仏教は、当初はやや異なる様相を見せています。
というのは、日本にもともとある神道は、昔は現世利益を解いていません。
交通安全のお守りとか、安産のお守り、病気快癒のお守りなどが登場するのは、神社とお寺の境界線が曖昧になった江戸時代にはいってからのことで、もともとは浄化と感謝だけです。
これに対して、後発で渡来した仏教は、現世利益を説いた。
信じれば病気が治る、怪我をしない、暮らしが豊かになるし、恋も叶う。
「あの人と結ばれたい」と思っても、神道なら、「それならお祓いしてあげましょう」というだけで、結ばれるかどうかは、あなたの精進努力次第です、となるけれど、渡来仏教は、「わかりました。あなたが仏を信じれば望みは叶います」とやる。その大がかりなものが、加持祈祷です。
考えてみると美味い話なのですが、直接的に願いが叶うというのですから、そりゃあ仏教には人気がでます。
こうして日本にやってきた渡来仏教は、全国から寄進を集め、大繁盛する。
経済的にも莫大な力を持つようになり、豪華絢爛な仏閣を建てます。
資金力があるから、政治的にも大きな力を持ち始めます。
パチンコ業界が、隠然たる政治的影響力を持つのと同じです。
日本に仏教が伝来したのは、日本書紀によると552年のことです。
この年、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上した。
それからわずか42年後の西暦594年には、推古天皇によって仏教興隆の詔が発せられています。すさまじい政治力です。つまり仏教勢力が、政治勢力になった。
経済力だけでなく、政治的保護まで得た渡来仏教勢力は、専業の兵士(僧兵)を雇い入れることで、軍事的にも強大な勢力となります。
とにかく彼らは神輿を担いで、暴れまわるのだから始末に悪い。
なにせ神輿は天皇によって興隆の詔が発せられている。
神輿==正義なのです。
おかげで彼らはやりたい放題になった。
特アの政治的影響力を受けた総理が、Chinaや韓国に「多大な迷惑をかけた」と発言すれば「迷惑をかけたのだから、その賠償をしろ」とカネをせびられ「迷惑をかけたのだから英霊への参拝をするな」といわれれば、ハイハイということを聞いて、閣僚全員が靖国参拝できなくなる。
それと同じことです。
結局、平安時代では、後期に源平といった武士団が登場するまで、朝廷は武力すら持たない政治府となります。
武力を持ち、これを行使するのは、もっぱら渡来仏教団体のいわば専管事項だったわけです。
武士団というのは、こうした中央の渡来勢力に対して武器を持って立ち上がった集団でもあるわけですが、それでも信仰が絡む武装宗教団体に対しては、抵抗できないでいた。
こうした武装宗教団体に対して、真っ向から対決をはかった者としては、信長の比叡山延暦寺への焼き討ちが有名ですが、実は、それよりもずっと以前、足利幕府の三代将軍足利義教が、比叡山延暦寺への大討伐を行った。これが最初です。
それでも足利時代を通じて、渡来仏教の武装解除には至っていません。
実際に、宗教団体から武装を奪うのは、なんと秀吉の時代になってからの出来事です。
秀吉は、圧倒的な富と武力を背景に全国の刀狩りを行い、全国の民と宗教団体から武器を全部回収した。
以降、日本における宗教団体は非武装の集団となります。
ちなみに、いろいろ書いていますが、ボクは別にこの稿で仏教を非難するとか否定するつもりはまったくありません。
ただ単に、武器を持つから暴れる。武器を持つから悪さをする。
完全に武器をとりあげ、武力を政治権力の専管事項にしてしまうしか、人々の争いに終止符を打つことができない、というのが歴史の真実である、と言いたいだけです。
世界で戦争が絶えません。
武器がなければ、せいぜい殴り合いのケンカに留まりますが、たとえばマシンガンもようなものを持っていれば、自分はなんら痛い思いをせずに、気に入らない奴を眼の前から消したり、欲しいものをなんでも手に入れることができる。
だから武器を捨てましょう!といったところで、そんなものはお題目にすらならない、というのが歴史の真実です。
武力を持たなければ、持つ者にいいように利用され収奪されるのがオチです。
きれいごとでは悲惨な目に遭うのが現実です。
戦後の日本で、成田闘争や東大安田講堂事件などの左翼による暴動が起こっていますが、彼らの持ち物が、せいぜい角材や鉄パイプだったからまだよかった。
もし、日本が世界と同様に銃の所持が認められる社会だったら、あの成田事件や安田講堂事件は、すさまじい血の嵐の吹きすさぶ事件となったであろうことは想像に難くありません。
周辺国に武器を持つ者たちがいる。そういう政治的状況のもとで、自国の平和と繁栄を本気で願うなら、自ら武装し、どこも、誰も戦いを挑んでこないだけの圧倒的軍事力を持つしかない。
だから武力は、敵を倒すこと以上に、身を守り、自国の平和を維持するためのものなのです。
戦後65年、世界でこの65年間の間に戦争をしていない国は、日本とスイスだけです。
日本が戦争に巻き込まれずに済んだのは、日本人が武器を持たない、武器が政府の専管事項だったということと、米国の書くの傘に守られたからです。
スイスが戦争をしていないのは、スイスが強烈な愛国心に育まれた国民皆兵の国であり、スイスと戦うなら、スイス人全員を相手取って闘い続けなければならないからです。それは猛烈な消耗戦になるに違いなく、そうなると誰もスイスを攻めようなどと思わない。
平和と安全、言いかえれば国民の生命と財産の安全は、口先で平和を唱えれば維持できるというような生易しいものではない。
もし、世界から本気で戦争を終わらせたいと願うなら、信長や秀吉、あるいは家康がやったように、最低でも世界の3分の1を完全に勢力下におさめ、世界中の誰にも勝てないだけの圧倒的な軍事力を保持し、そのうえで、世界の国と人々からあらゆる武器を取り上げるしかない。
それが現実だ、ということです。
そしてそれを群雄割拠する日本で現実にやってのけたのが、信長、秀吉、家康の三代だった。
そのかわり、信長は、我が身を犠牲にしています。
信長は天下の3分の1と、中央政府を手に入れました。
これは圧倒的な軍事力です。
その力をもって、武装宗教勢力である比叡山延暦寺、一向宗の本部である本願寺を攻め、僧兵たちを完全に武装解除させています。
おかげで、信長は「第六天の魔王」と称されるようになった。
「第六天の魔王」というのは、魔王の中の最大かつ最強の魔王のことです。
信長は天下をほぼ統一し、武装宗教勢力まで退治したけれど、おかげで宗教的信仰真に裏付けられたゲリラに常に命と織田政権の転覆を狙われるようになったのではないかと、ボクは思っています。
これは、非常に重要なことで、せっかく全国の大名たちを従え、武力を織田政権下の管理下に完全においたはずなのに、織田政権の内部にいる宗教勢力が、常に織田政権の転覆と、信長の命を狙うことになったわけです。
おそらく信長自身、このことをよくわかっていたのではないかとボクは思っています。
「第六天の魔王」という信長の別称は、これは信長=最悪の魔王である、ということを意味します。
普通、権力者は、自分をこういう言い方で呼ぶことを好まない。
むしろこの呼称は、信長自身が好んで流布させたものなのかもしれません。
どういうことかというと、天下人となった信長が、延暦寺や本願寺を滅ぼした張本人であり、第六天の魔王ということになれば、宗教ゲリラの狙いの矛先は、信長ひとりに絞られる。
そうしておいて、信長が誰かに殺されたら、武装宗教ゲリラたちは、その攻めの矛先を失い、とりあえずは沈黙をせざるを得ない。
そうしておいて、全国で刀狩りをして、国民から武器を全部取り上げたら、これ以上戦争は起こらない。
もし、そうであるとすれば、もしかすると信長は、もっとも日本の歴史と文化と伝統に詳しい光秀にあえて命じて、自分を殺させる大芝居を打ったのかもしれません。
大名たちは、いわば軍閥です。
より強大な軍事力をコチラが持てば、黙って調伏できます。
しかし武装宗教勢力は、たとえコチラ側がどんなに強大な武力をもってしても、彼らは信仰によって戦いを挑んでくる。
これはやっかいです。
といって、宗教人を皆殺しにすることはできない。
家臣団の中にも、信仰に厚い人はたくさんいるのです。
明智光秀が起こした本能寺の変は、信長の命を奪った事件ですが、このとき、本能寺で信長の遺体はあがっていません。
本能寺は、事変のときの火災で焼け落ちていますが、普通、木造家屋の火災程度では、焼死体が残るものです。
一説によれば、信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、本能寺の地下には織田軍団の火薬が大量に保管されていて、これが火災とともに大爆発を起こしたせいで信長の遺体があがらなかったという説があります。
そうなのかもしれません。
ただ、これはあくまでボクの空想なのだけれど、本能寺の変における光秀の謀反というのは、実は、信長が光秀に命じた大芝居だったのではないか、などとも思えます。
なぜなら、国内に隠然とした実力を持つ武装宗教勢力の影響力を廃し、国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先を自分に向けた上で、できるだけ派手に死亡するのが望ましい。
病死ではダメなのです。
側近に裏切られて歯がみして死んだとでもしておかないと、武装宗教勢力は溜飲を下げない。
だとすれば、自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなきゃならない。
そしてその適任者は、織田軍団のなかで、どうみても光秀しかいません。
由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく、朝廷や仏教界からも信任が厚い人物といえば、それは光秀だけです。
しかし光秀は、主君を討てば逆賊の汚名を着せられることになります。
光秀も誰かに殺されなければならない。
そしてその者が天下人になる。
その者は、宗教以上に人々に夢と希望を与えることができる人物。それはすなわち百姓から身を起こした木下藤吉郎(秀吉)しかいない。
どんな宗教の現世利益のご利益よりも、現実の利益を象徴する人物です。
しかし、秀吉の成長志向も、天下が治まり、戦乱がなくなれば、もはや人々に成長や出世の機会はなくなります。
これもどこかで終わらせなければならない。
そしてそのときには、本当の意味で、国内の治安が回復した新政権が誕生しなければならない。
そして百年の長きにわたり戦乱の渦に呑まれた日本で、本当の意味で治安と平和を回復し、これまでにない、まったく新しい新政権を発足させて絶対平和の世の中を築くためには、それができるだけの才覚を持った人物が必要です。
大将はいいのです。
それなりの貫禄があればよい。
しかし、具体的に新政権を発足させて、未来を築くというのは、その大将の絶対の信任を得た相当のキレ者が必要です。
新しい国家のカタチを、まるっきり新規に築くのです。
並みの才覚では勤まらない。
このことは、いまの国会議員でも同じです。
仮に日本国憲法を無効化して、まったく新しく、日本の古くからの歴史と伝統と文化に基づく新生日本を築こうとするとき、そこには細かな行政の仕組みづくりや新たな国家体制構築のための組織、体制の青写真を描く人物が必要です。
残念ながら、いまの国会議員の中で、これができるだけの才覚を持った人物を探すとなると、?です。
これだけのことができる才覚者というのは、そうそういるものではないのです。
織田家臣団の中で、その才覚をもった人物というのも、光秀しかいない。
光秀は、秀吉に負けて百姓の竹やりで殺されたということになっているけれど、本当にそうなのでしょうか。
光秀ほどの剛の者が、そうそうたやすく素人の百姓に殺されたりするとは、あまり考えられません。
むしろ、常識的に考えれば、光秀は「暗がりで百姓に殺害された」ということにして、身分と名前を捨て、どこかで生かして、光秀の才覚を活かすことを考えた方が、どうかんがえても合理的です。
実際、不思議なことに、天下の大逆人であるはずの光秀の子供たちは、細川家であったり、織田家であったりして、みんな生き残っている。
ふつう逆臣の係累というのは、全員殺されるのが普通です。
家康が江戸幕府を開いたとき、新たな国の枠組みを決めるのに大いなる貢献をしたのが、天海僧正です。
天海僧正は、新しい天下の枠組みだけでなく、行政機構の整備や徳川幕府の人事、寺社仏閣等のハード面のすべてにおいて、家康の名代としてこれを統括しています。
ところが、これだけ重要な職務を遂行した天海僧正というのは、不思議なことに出自がまるでわからりません。
しかも僧正というくらいですから、仏教徒としても相当な高位にのぼったひとのはずなのに、若い頃どこの寺で修行し、小さい頃にどんな逸話があったのかといった話が、まるで残っていない。
歴史上、突然「僧正」として登場し、家康の側近となり、江戸幕府の慣例、しきたり、江戸幕藩体制の仕組み作りから、日光東照宮のような文化施設まで、ことごとく作っているのです。
これはちょっと変です。
実は、三代将軍徳川家光の「光」の字は、光秀の「光」、二代将軍徳川秀忠の「秀」は、光秀の「秀」から名前をもらったという説があります。
家光を育てた春日の局は、光秀の重臣の娘ですが、彼女がはじめて天海僧正に会ったとき、春日局が「お久しゅうございます」と言ったという話が遺されています。
天海僧正が作った日光東照宮の紋所は、なぜか光秀の家紋である桔梗です。
さらに日光には、なぜか「明智平」というところがあり、東照宮の陽明門には、なぜか桔梗紋を身に着けた武士の像が置いてある。それが誰の像なのかは誰もわからない。
もっというと、大阪の岸和田にある本徳寺には、光秀の位牌があるのだけれど、そこには、光秀が慶長4(1599)年に寺を開いたとされている。
これは、あれれ?です。
なぜなら、本能寺の変、山崎の戦いで光秀が死んだのは、天正10(1582)年だからです。
つまり、1582年に死んだはずの光秀が、その3年後に寺を建てたというのです。
その本徳寺には、光秀の肖像画も残されています。
その画には、「放下般舟三昧去」という文字がある。これは、光秀が出家して僧になったという意味です。
もっというと、家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡(新潟)と、光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、籠(かご)の網目のような六角形ができあがります。
童謡の「かごめかごめ」は、
かごめかごめ
カゴの中の鳥は
いついつでやる
夜明けの晩に
鶴と亀が統べった(すべった)
うしろの正面だーれ
という歌詞ですが、「かごめ」は、地理上の大きな籠目を指します。
「カゴの中の鳥は」は、明智一族発祥の「土岐(とき氏)は」とも聞こえます。
家康と光秀を線でつないだ籠の目の中の土岐氏は、「いついつでやる」です。
そして「夜明けの晩に」は、日の出のときです。つまり「日の光」が射すとき。日光です。
その日光東照宮の屋根には、「鶴と亀」の像がある。
その「鶴と亀」が「統べた」統治する。
ここまでの意味をつなげると、「土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのか」となり、
「うしろの正面、だあれ」と続く。
後ろの正面というのは、土岐から日光のほうを向いたときの地理上の後ろ側、つまり、大阪の岸和田で、そこには光秀の位牌と肖像画のある本徳寺がある。
つまり、「かごめかごめ」の童謡は、暗に天海僧正が光秀であることを謳った童謡であるという説もあります。
以前、テレビで、そんなふうな扱いをしている番組があったように記憶しているけれど、この話には無理があります。
なぜなら、天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて、到底無理だからです。
実際には、光秀の息子が天海であったというのが、ほんとうのところなのでしょう。
そして明智の血を引く優秀な天海が家康の側近として、その辣腕をふるった、というのが正解であろうと思います。
そもそも光秀が信長を討つ必然性が「信長に頭を扇子で叩かれた」というのでは、あまりに説得力がない。
そんなところから想像力を膨らませると、さらに本能寺の変も、むしろ信長の命によって行われたもの、という気もしてきます。
だからどうだってことはありません。
実際のところはわからない。 闇の中です。
ただ、あたりまえのことですが、戦国の世に生きた多くの人たちの最大の願いは、おそらくは太平の世の中、戦のない世の中ではなかったかと思うのです。
しかしその理想の実現のためには、自ら第六天の魔王と名乗り破壊王となった信長、現世利益を説く既存の仏教団体以上に明確な現世利益を体現した秀吉、戦のない世の中を築くために、強大な武力と緻密な行政機構を作りあげた家康という三代が必要だったというのは、歴史の事実です。
伊勢神宮は、20年ごとに式年遷宮を行っていますが、国費で遷宮の費用が賄われなかった時代が、日本の歴史上、2つだけあります。
ひとつが国が荒れた戦国時代、もうひとつが日本国憲法下のいまの日本です。
日本が、建国以来の伝統と文化を復活させ、新たな政治の枠組みのもとに本当の意味で正しい歴史認識のできる新生日本に生まれ変わるためには、まさに信長、秀吉、家康三代の努力の積み重ねが必要なのかもしれません。
↓クリックを↓

