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山古志村の牛の角突き
山古志村の牛の角突き

5月13日に、このブログで口蹄疫に関する、江藤拓(自由民主党・無所属の会)、長島忠美(自由民主党・無所属の会)の質疑の模様をご紹介させていただきました。
長島議員は、口蹄疫で疲弊している宮崎のために政治家が何をすべきか、赤松農林大臣に切々と訴えられました。
以下は、日心会MLで紹介されたお話の転載です。


長島忠美議員は、元、新潟県山古志村の村長さんを勤められた方です。
村長だった当時、新潟で、あの中越地震が起こりました。
そのときのことが、
「天皇陛下が我が町に」(明成社)という本に書かれています。
トップとは如何にあるべきか・・・、困難に直面したときにこそ、その人間性が現れると言うことがよくわかる、良いお話です。
以下にご紹介するお話は、被災地の山古志村を、ご視察される天皇皇后両陛下のお話も含め、この日本という国柄を再認識できるお話です。
天皇陛下が居られる日本の国民でよかったと、両陛下というかけがえのない存在がいてくださる幸せを感じます。
~~~~~~~~~~~~~
「へりで救出された千2百頭の牛」
   新潟県・山古志村
 
平成十六(2004)年十月十三日、新潟県で中越地震が発生した。
この地震で壊滅的な被害を受けた新潟県の中間に位置する山古志村は「日本の原風景が残る村」としてPRされていたが、その一方で、急速な過疎化と高齢化は深刻な問題だった。
(中略)
実際、地滑りによって東京ドームの六十三個分の斜面が崩れ、国道と県道合わせて百カ所近くの土砂が崩れ、上水道は全壊し、百九十四カ所の棚池、四百六十カ所の水路、千二十九カ所の農業道路が被害を受け、住宅の四十パーセントが全壊していた。
このような絶望的状況の中、当時の村長であった長島忠美さんは、日本初となる全村避難勧告を決断する。
村民二千二百名余りの避難を見届け、最後に長島さんは村を離れた。
当時の長島さんの姿はテレビでも良く放送されていたため、長島さんの名は一躍世に知られるようにもなった。
私たちは、現在は衆議院議員となった長島さんのご厚意により、お忙しい時間をいただいて、お話を伺うことが出来た。全村避難の決意をした時のことを、次のように話された。
「あの時は、自分が情けないのと、何をしたらいいのかわからない絶望感で一杯で、涙が止まりませんでした。
村民を避難させた後、自衛隊の方と村の中を最終点検をすることになりました。
その時、口が裂けても村民には言わないでおこうと思ったことがありました。
二度とこの場所には住むわけにはいかないかもわからない、実はそんな気持ちを抱いてしまったんです。
絶望という言葉は知っていましたが、なにをしたらいいかわからない、何ができるかわからない、というそれが絶望だと思いました。」
その後、避難所に到着した長島さんを待っていたのは、山古志村の村民だった。
長島さんを頼る声や、感謝の声と、被災後の対応への怒りの声など様々あったが、村民と再会した時、長島さんは一つの決意をしたという。
「国破れて山河ありというけれど、その山河がなくなった。
けれど山古志はどこに消えたわけでもない。
今みんながいるここが山古志村だと思いました。
この人たちのためにやらなきゃならないことは何でもやる、できないこともやる、それが山古志を再生する唯一の道だと思いました。」
山古志村へ必ず戻る、長島さんのその決意が前代未聞の牛の避難という決意も生んだのだ。
そのときのことを次のように振りかえられた。
「私たちの戦いは、復旧と同時に中山間地域の過疎との戦いでもあります。
もちろん生活を取り戻さないことには、何にもできませんからそれを最優先で行い、文化的なものは後でいいという議論もありました。
しかし、最終的に私たちは1200頭の牛をヘリに乗せて救出すると言う決断をしました。
これは、お金のことだけを考えてはとてもできることではありませんでしたよ。
ですから、それぞれにとっても大変な決断だったと思います。
でも、牛の命を救うことと文化を守ることは私たちにとっては一つでした。
仮設の闘牛場でもいいから闘牛という文化を再生しようと考えていました。
牛が元気になれば私たちも元気を出せるという思いがそこにあったからです。」
こうして村を取り戻そうとする長島さんに大きな勇気を与えたのが天皇陛下だった。
天皇陛下は皇后陛下と共に、震災より僅か2週間後の平成十六年十一月六日に山古志の被災状況をヘリでご視察になり、長岡市、小千谷市、川口町の各避難所をお見舞いになった。
長島さんは、陛下が視察に来られた時の感動を次のように述べている。
「両陛下がお越しになることは、その二日前に聞きました。
お会いできると思っていませんでしたから、どうしていいかわかりませんでしたよ。
飛行機にお迎えにあがりましたが、頭を下げるだけで何を申し上げていいかわかりませんでした。
新潟空港からすぐヘリに乗って山古志に向かうことになりました。
そして山古志に入り、私が説明する番になりました。
ヘリって騒音が大きくて、通路を挟んでお話ししたらあまりきこえないんですよね。
すると隣に座るように言われまして、陛下のお耳元でご説明することになったんです。
そのとき私は、両陛下のいらっしゃる日本国民でよかったと思いました。
陛下は
『牛はどうしていますか』
『錦鯉はどうしたんですか』ってご質問になるんです。
もちろん我々の事も心配してくれました。
そのあとで言われた
『きれいな村だったんでしょうね』
というお言葉がずしんと胸に刺さりました。
両陛下がきれいな村だったと言ってくださっている村を取り戻さないわけにはいかないと思って、私の勇気を奮い起こしてくれました。」
また避難所のお見舞いでご案内をした山古志村議会元副議長の青木幸七さんは、大事そうに箱にしまわれていた長靴を恭しく見せながらこう話された。
「本当に信じられない光景でした。
いろんな人がお見舞いにこられましたが、陛下の時は、全く雰囲気が違いました。
ホコリまみれの避難所ですが、陛下が入られる瞬間は本当に清らかな雰囲気になりました。
本当に皆感動していました。
両陛下が膝を曲げ、目線を下げて一人一人に話しかけられる姿ははっきりと覚えています。
特に皇后陛下、私たちが用意していた順路を殆ど気にせずに、どんどん中に分け入っていかれる姿が印象的でした。
避難所を出たとき、皇后陛下の膝が汚れておられたので、私が
『皇后陛下失礼します』といって土を払ったんです。
光栄でしたよ。これが、私が陛下を案内した時にはいていた長靴です。
陛下を案内する為に買って、そのときだけしかはいていません。
一生の宝です。」
その姿は実にうれしそうだった。
また、避難所で皇后陛下にお声をかけられた坂牧さんご夫婦にお会いした。
坂牧さんご夫婦は、農作業中だったが、私たちの為に手を休め、話しをしてくださった。
「避難所に来ていただいたことは本当に有り難たかったです。
涙が止まりませんでした。
皇后陛下のお顔が本当に穏やかで、私はそれ以来、両陛下のお写真を家に飾り毎朝両陛下に『今日も穏やかであられますように、私も穏やかな一日をすごせるように努めます』と手を合わせているのです。」
と当時を思い出し、目に涙を浮かべながら話しをしてくださった。
それから、四年後の、平成二十年九月八日、再び両陛下は、山古志をご覧になった。
今度はヘリコプターではなく、直接お歩きいただくことができた。
両陛下は、特産の錦鯉の生産業者や牛の角突きをご視察になられた。
長島さんの話によれば、皇族が山古志にお越しになるのは、有史以来のことだったという。
それだけに、村民の気持ちも高まり、誰が言ったわけでもないのに、全ての家に国旗が掲揚されていた。
このことを長島さんはとても誇らしく話された。
両陛下は山古志でのご感慨を、次のようにお詠みになられた。
天皇陛下 中越地震被災地を訪れて (平成二十年)
 なゐにより
 避難せし牛 もどり来て
 角突きの技 見るはうれしき 
  (なゐ=地震のこと)
皇后陛下 旧山古志村を訪ねて (平成二十年)
 かの禍ゆ
 四年を経たる山古志に
 牛らは直く角合はせる
(かのまがゆ 
 よもせをへたる やまこしに
 うしらはなおく つのあはせる)
(中略)
現在、我が国の中山間地は日本の約七割を占める。
それらの地域では、過疎化や高齢化の問題を抱えつつ、村の維持に苦労を強いられている。
その代表とも言える山古志村では、過疎化や高齢化の問題の上に、大震災、全村避難という苦難を強いられた。
しかし、山古志は僅か四年で見事に復興を果たした。
平成二十年の両陛下のお歌は、その復興の中核を担ったのが牛の角突きであることを鮮やかに謳いあげられたものであると感じる。
復旧作業の苦難の中で、牛の角突きを復活させようと考えた村民の決断を、お歌をお詠みになることで、ご評価なさったように思うのである。
中越地震から五年を経た平成二十一年十月十一日、闘牛場が改修され、その場内に両陛下のお歌を刻んだ御製・御歌碑が建立された。
両陛下に見守っていただいたことへの、村民の感謝の思いがこもっている。
(平成二十年五月二十七日、二十八日取材/竹下博喜)
 ~引用終わり~
  
◆私がこの本を読んで、感動したもう一つのこと・・。
この本を作った全日本学生文化会議の学生さん達について。
自己の生まれた国とその文化への関心に目覚めた学生達が、日本全国につながりを築きできた「全日本学生文化会議」というグループがあるそうです。
その参加者達は、天皇が我が国至尊の御存在であると覚知し、その所以を知ることが、日本とその文化の根源を知ることだと感じ、その思いにより探求を始めました。
学生達の覚知は、全国をくまなく御巡幸されている両陛下のお姿を実際に拝したことがきっかけとなり起こったそうです。
そういう体験を持った学生達は、尊貴なるものを仰ぐ心が自己の内面に有ることを知ります。
この本は、そうした学生達が、自ら日本全国に足を運こび、全国を御巡幸、被災地をお見舞いされる両陛下のお姿と、陛下をお迎えした人々の反応を取材し、そのままに記述したものだそうです。
国内の御巡幸を通して、両陛下の暖かい眼差しと励ましによって、困難を克服しつつある人々を描き出しています。
また、この本は、その学生達が、即位二十周年という佳節を言祝ぐ志からできたもので、平成二十年三月に調査を開始し、平成二十一年十二月二十三日、天皇誕生日が初版第一刷となっています。
その学生が書いた、あとがきの一節をご紹介します。
~~~~~~~~~~~~
日本という国は、天皇陛下の国民に対する深い御心と、それに感謝しお応えようとする国民のまごころによって発展している国ではないかということに気がつきました。
自虐的史観に基づく謝罪外交、自然災害、社会全般を揺るがす様々な事件に直面する度に、それらを乗り越え、日本を支える原動力となっているのが、皇室と国民の心の交流だったのです。
そのことを一人でも多くのかたに知っていただきたく、ここに取材の成果を一冊の本にまとめさせていただきました。
~~~~~~~~~~~~~
私は、両陛下の御巡幸に触れた学生さんの素直な感想に、この国のあるべき姿が見事に書かれてあるのに驚くと共に、この国をいつまでもこの様な国柄のまま守るためにも、両陛下の御心に添う人間でありつづけたいと思いました。
この学生さんが言うように、自虐史観が蔓延する戦後の日本に住む我々が、正しい日本人の誇りを取り戻すためにも、両陛下の御心に触れるように「勅語」の復活が望まれます。
私には陛下の御心に触れ勇気を貰った長島さんの活躍と、今は宮崎の東国原知事の奮闘振りがダブって見えます。
ヘリで大切な牛を運び守った長島さんのように、知事が宮崎の宝の種雄牛を守れますように、宮崎の口蹄疫被害が一日も早く治まりますようにと祈ります。
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