
山岡荘八といえば、全26巻の大長編小説「徳川家康」 を書いた人として有名です。
その山岡荘八が、昭和四十九(1974)年に結成した会が「日本を守る会」で、これが後の「日本会議」となります。
また「自衛隊友の会」という会がありますが、山岡荘八は、一時はその会長も務めています。
山岡荘八は、明治四十(1907)年の生まれです。
その山岡は三十八歳のとき、海軍報道班員として鹿児島県の鹿屋基地の取材に行っています。
そこで、石丸進一と会っています。
石丸進一は、名古屋(いまの中日ドラゴンス)のピッチャーとして、ノーヒットノーランを達成していた名投手です。
石丸進一は、大正十一(1922)年七月、佐賀県佐賀市で五男坊として生まれています。
父親は自営の理髪屋さんです。
自分が学歴がなくて苦労したことから、「子供にはまともな教育を受けてほしい」と、教育資金調達のために方々で借金をし、その借金を返そうとして株をやって失敗、膨大な借金を作ってしまいます。
のちに進一は兄の藤吉とともにプロ野球の道を歩むけれど、その裏にはこうした経緯があったのだそうです。
しかしその借金は、進一が学徒出陣する直前に完済しています。
進一は、八歳年上の兄の藤吉の影響で野球を始めます。
小さい子供の頃から、少年野球の投手として抜群の天性の才能を発揮していたそうです。
そして兄、藤吉が通っていた佐賀商業に入学します。
佐賀商業では、二年生から野球部のエースとして「石丸のワンマンチーム」といわれるほどの活躍を見せます。
ところが、昭和十四(1939)年の甲子園予選では、佐賀の決勝戦で、試合が始まる前に疲労予防のために飲んだ(当時は普通だった)で酔っ払ってしまって力を発揮できず、対戦相手の唐津中学に2-1で敗退してしまう。
翌昭和十五(1940)年も、佐賀大会の決勝まで進出したけれど、前年と同じ唐津中学に4-0で敗れ、在学中は甲子園に出場できなかった。
この頃、兄の藤吉は名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)に入団していて、母校の佐賀商野球部に訪れては、後輩の指導にあたっていたそうです。
藤吉に刺激を受けた石丸は、次第にプロ野球に強い憧れを抱きます。
その兄、藤吉も、日中戦争招集され、Chinaの戦線に向かいます。
佐賀商業を卒業した進一は、召集先のChinaにいる兄に、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)入団志願の血判を押した手紙を送ります。
これを読んだ兄が、当時の名古屋軍の球団代表であった赤嶺昌志に進一を推薦。
進一は、昭和十六(1941)年、晴れて名古屋軍に入団します。
入団一年目は、兵役で離れている兄の代役という事で、二塁手として73試合に出場します。
結果は打率.197、本塁打0、打点8といいますから、あまりたいした成績ではない。
ちなみにこの年の最高打率は川上哲治の.310、翌年は呉波(呉昌征)の.286です。
しかし、ピッチャーへの夢を捨てきれない進一は、煙草の銀紙を集め、これを丸めて作ったボールで、手首を鍛えて、投手としていつでも出発できるように日ごろから訓練をしていたそうです。
翌、昭和十七(1942)年、兄、藤吉が無事復員して、球団に復帰したことを受けて、進一はようやく念願のピッチャーになります。
そして進一は、この年の4月1日、対朝日戦で、いきなり完封勝利をします。
とにかく、投げる球が速い。
加えて、コントロールが、針の穴を通すほどの正確さです。
進一は、初登板初先発でも、なんと2安打の完封勝利を飾り、さらに7月12日の対巨人戦では、巨人先発が当時プロ野球最強投手といわれた須田博と投げ合って1-0で勝利を飾る。
この年の石丸進一の成績は、17勝19敗、防御率1.71と大奮闘です。
ちなみにこの年の名古屋軍の成績は、105試合で39勝。
つまり、石丸進一は、勝利数の4割強を稼ぐという獅子奮迅の活躍をしている。
翌、昭和十八(1943)年には、十八年の成績は、20勝12敗。
二シーズン通算防御卒1.44です。
そして、この年の10月12日、石丸進一は、対大和戦で、戦前最後のノーヒット・ノーランを達成します。
おかげで当時弱小球団だった名古屋軍(中日)は、この年の順位を二位まで躍進させる。
その九日後、進一は秋雨の降る神宮外苑競技場で、学徒出陣壮行会に参列します。
学生服にゲートルを巻き、銃を肩にして雨の中を行進した。
下の動画は、当時の模様ですが、この中のひとりに石丸進一投手もいる。
式典には出たけれど、実際に進一が軍に入隊したのは昭和十九(1944)年です。
進一は、海軍飛行科を希望し、この年の二月、第十四期飛行予備学生として筑波海軍航空隊に入隊します。
この頃、航空隊では、進一も上官からよく鉄拳制裁を受けていたそうです。
そんなある日、上官チーム対予備学生チームの野球試合があった。
進一は、予備学生チームのエースとして登板し、上官チームにファウルはおろか、バットにかすりもすらさせず、なんと20対0や30対0といった大差で予備学生チームを勝利させています。
上官チームの一人が、「オイッ、もっと遅い球を投げろ!!」と罵声を飛ばすと、進一は遅い球どころか、もっと速い球を繰り出していたそうです。
試合中、予備学生チームの外野手は、あまりに球が来ないからと、全員で、煙草をふかして一服までしたとか。
ここでも進一は、予備士官生たちの、まさにエースであった。
翌、昭和二十(1945)年二月、石丸は少尉に任官。特攻隊員を志願します。
そして海軍特攻基地の最前線である鹿屋基地に転進する。
転進の前日、進一はいったん、佐賀の実家に戻っています。
そして従弟の牛島秀彦の家を訪れ、当時小学生であった牛島を呼び出すと、いきなり牛島の顔を思いっきりゲンコツで殴った。
驚いた牛島少年が半べそをかきながら、「何でそんなことするんじゃ」というと、進一は、「すまん」と謝った。真剣な目だったそうです。
後年、牛島は、当時の模様を振り返って、
「きっとあれは、『俺が戦争で死んでも、石丸進一という男がいた事を、牛島、おまえだけはいつまでも覚えておいてくれ』という言葉だったのだと思います」と述懐しています。
昭和二十(1945)年四月二十五日、鹿屋への移動の当日、友人の浅野文章少尉が、最後の言葉を書き残すためにと、小さなアルバムを進一に手渡します。
進一は、ペンをとると、そこに、
~~~~~~~~~~~~
葉隠武士 敢闘精神 日本野球は
~~~~~~~~~~~~
と書いた。
あとの言葉が続かない進一に、浅野少尉が
「この期に及んでまだ野球か?」というと、進一は浅野のほうを振り返り、
「おう!! 俺は野球じゃ、俺には野球しかないんじゃ!! 野球だけなんじゃ!」と怒鳴るように言ったそうです。
その途中で終わったアルバムの文章は、未だ、そのままで時が止まっています。
石丸進一少尉らの出撃は、最初5月1日に予定されていました。
その前夜に書いた赤嶺球団代表への手紙が残っています。
彼は次のように記しています。
~~~~~~~~~~~~~
野球という職業を選んだことを幸福に思っています。
苦しいこともありましたが、それ以上に野球に楽しみを得ました。
24歳のいまの私には、何の悔いるところもありません。
明5月1日、必ず敵艦命中します。
「忠孝」私の人生は、この二字にて終わります。
~~~~~~~~~~~~~
しかし、情報が錯綜するなか、出撃はいったん見合わせになります。
5月10日、日本側の索敵機が、沖縄東方120カイリに敵空母2、戦艦4の南下を発見します。
そして、菊水六号作戦発動に伴い、石丸は神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として500キロの爆弾を装着した零戦に搭乗する。
司令の訓示が終ったあと、石丸少尉は、
「さっ、名残に一丁、元気でいこうぜ!」
と本田耕一少尉に声をかけます。
そしてふたりで、鹿屋基地に近い宿舎の野里国民学校の校庭で、最後の名残のキャッチボールを始めた。
このときの一部始終を、従軍記者として取材に来ていた山岡荘八氏が見ています。
~~~~~~~~~~~~~
石丸進一少尉が一球投ける。
そのたびに本田耕一少尉がボールをキャッチして、「ストライク」と答える。
その声が青空を突き抜けるようにあたりにひびく。
私(山岡氏)はわれを忘れて球審の位置に立ってみたが、これほど野球が好きだったのかと思うと、残念ながら眼がかすんで、球はまるで見えなかった。
たしか十本通して、「ボール」という声は一度も本田少尉の口から漏れず、
「よーし、これで思い残すことはない」
躍り上がるようにミットとグローブを校舎の中に投げ込んで、私に笑顔を向け、手を振りながら飛行場へ駆け去った。
(山岡荘八著『庶民の中の士魂-野球と特攻』)
~~~~~~~~~~~~~
最後のキャッチボールを終えた石丸少尉は、午前六時五十五分、鹿屋基地を離陸します。
一番機西田中尉、二番機石丸少尉。
石丸少尉は、離陸寸前に、愛機の零戦の風防を開けて、飛行帽の上から絞めていた鉢巻きと、真新しいボールを地上へ投げつけます。
そして、五〇〇キロ爆弾を抱いた零戦に搭乗し、沖縄の南の空へ飛び立っていった。
彼に前後して、桜花隊、第6神剣隊、第6、第7昭和隊、第10建武隊、第7七生隊の特攻機が鹿屋基地を飛びたちます。
10時8分、西田中尉から無電がはいります。
「敵艦認めず、我慶良間に行く」
その5分後、中尉から「敵艦見ゆ」との無電がはいる。
この日、沖縄侵攻を支援中の米空母バンカー・ヒルは飛行甲板に突入した特攻機によって、燃料を満載していた艦上機を破壊されて大火災を引き起こしたうえ、続いて突入した二機目の零戦が艦橋に激突。
さらに二機目の零銭が落下した爆弾が艦内部に達して大爆発を引き起こし、さらにその炎がガソリンに引火して誘爆を引き起こします。
戦死者346人、行方不明43人、負傷者264人。
撃沈こそ免れたものの、大被害を受け、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰投しています。
米空母バンカー・ヒル

出発のとき、石丸少尉が投げた鉢巻には「我、人生二十四歳にして尽きる。忠孝の二字」と墨書されていたそうです。
最後のキャッチボールをした本田耕一少尉は、法政大学出身の一塁手だった方です。
その本田少尉も、。神風特別攻撃隊「第六筑波隊」隊員として、石丸少尉から遅れること三日目の、五月十四日、出撃し、沖縄の海に散っています。
石丸進一少尉は、現役のプロ野球選手時代、もらった給料の八割を、父の借金の返済に充てていたそうです。そして、招集直前に、親の借金を全額させています。
その石丸進一少尉が東西対抗戦に出場したとき、試合前に他のチームの選手達と食べ物の話になったそうです。
このとき、少尉は「自分はコーヒーも飲んだことがない」とおっしゃられた。
彼は、それほど、ギリギリの生活を送っていたのです。
少尉は、出征の直前、球団代表の赤嶺のもとを訪ねて、守り神にと新しいボールをねだったそうです。
少尉が、飛び立つ寸前に投げたボールは、その赤嶺オーナーからもらったボールです。
現在、東京ドームの21番ゲート近くのラクーアとの間にある道路に面した階段の一角に、戦争で命を失った職業野球選手六十九名の名が刻まれた「鎮魂の碑」が建てられています。
脇に立つ副碑には、遺族代表として石丸進一少尉の兄の石丸藤吉氏の追悼文が刻まれている。
藤吉氏によれば、野球のボールとともに届けられた進一少尉の遺書には、次のように書かれていたそうです。
~~~~~~~~~~~~~
野球がやれたことは幸福であった。
二十四歳で死んでも悔いはない。
~~~~~~~~~~~~~
石丸進一少尉が、まだ現役のプロ野球選手だった昭和十八(1943)年、のことです。
ある日の試合開始前、先発だった進一を探していた監督の三宅大輔が、球場の近くにある広場で子供達と野球をしている進一を見つけ、呼び出して叱ろうとしたそうです。
ところが、その子供と野球をする進一の姿が、あまりにも無邪気で楽しそうだった。
なぜか三宅は、とうとう一度も進一に叱責をすることがなかったそうです。
コーヒーひとつ飲んだこともなく、ギリギリの生活の中で親を支え、プロ野球選手としてノーヒットノーランの成績まで残し、日本を護るために散華された石丸進一少尉。
こういう人が、私たち日本人の先輩にいる。
そのことを、私たちは決して忘れてはならないと思います。
↓クリックを↓

