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花王の創業者、長瀬富郎
長瀬富郎

花王といえば、家庭用や業務用の洗剤、トイレタリー用品、化粧品、食品など、を製造し洗剤など、数多くの日用品部門でトップシェアを誇る大企業です。
社名の由来は、石鹸からきたもので、明治の中ごろ石鹸が「顔洗い」と呼ばれていたことから、発音が「顔」に通じる「花王」と命名したのだとか。
花王の創業者は、長瀬富郎(ながせとみろう)といって、文久3(1863)年、美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市)生まれの方です。
12歳で学校を終えた富郎は、親戚の塩問屋兼荒物雑貨商「若松屋」に奉公に入り、なんと若干17歳で、下呂支店を任されるまでに信頼されます。
しかし独立心を抑えがたい富郎は、明治18(1885)年、23歳で店を辞めて上京します。
当時のお金で150円の資金といいますから、いまなら200万円くらいの資金でしょうか。これを元手にひと山当てようと、米相場をやります。
これが、大失敗。
富郎は、無一文になってしまう。
富郎の偉いのは、この挫折を教訓として、とにかく「堅実に生きる」事を終生の誓いとしたことです。
なけなしの金を失った日本橋馬喰町の和洋小間物商「伊能商店」に就職します。
この頃の馬喰町は、舶来品の専門問屋街です。
マッチ、靴、洋傘、帽子、コーヒーなどが、ひかり輝くような高級輸入品として扱われていました。
なかでも「石鹸」は、大人気。
石鹸は、織豊時代に「しゃぼん」の名で日本に入ってきたものですが、庶民が手にできるようになったのは明治になってからのことです。
ちなみに信長の時代にやってきたスペイン人たちが、なによりも驚いたのが、日本人の清潔さだったそうです。
それまで訪れたアジアの国々ともまったく違う。
人も町も清潔であることに驚いた。
この時代、イザベラ女王といえば、コロンブスの新大陸発見のスポンサーとなった女王として有名ですが、この女王の自慢が、生涯に二度、風呂に入ったということだったそうです。
生涯で二度です。
一回目が生まれたとき。
二度目は、結婚するとき。
イギリス女王、のエリザベス一世は、無敵艦隊でスペインを凌いぎ、世界一の文化の高さを誇った人ですが、この女王の自慢が、三か月に一度、風呂に入るとこと。
この頃の世界は、「お風呂に入る」ということは、とてつもなく洗練された行いであり、贅沢だったのです。
ところが、日本に来てみたら、一般庶民に毎日の入浴は、あたりまえ。
このことが、スペイン、ポルトガル人をして、この国には敵わないと思わせた一因だったとか。
ついでにいうと、韓国には近代になって日本が統治するまで風呂も入浴の習慣もありません。
話が脱線しましたが、とにかく日本人はお風呂が大好き。
もっとも、江戸時代までは石鹸は使われず、もっぱらヘチマなどでの垢すりが中心だったようです。
ところが、明治時代にはいって鎖国が解かれると、またたく間に石鹸が庶民の間に浸透します。
ただし、輸入モノです。爆発的な人気を得るけれど、値段が高い。
そこで、明治三年には大阪と京都に官営の石鹸工場が建設され、民間でも明治六年に横浜で和製石鹸の製造が始まったけれど、この石鹸の出来が悪い。
化学技術がまだ未熟だったころに加え、原料となるやし油や苛性ソーダ、香料が入手難だったのです。
このため、国産品は洗濯石鹸くらいにしか使えなかった。
長瀬富郎は、ここに眼をつけます。
奉公先の荒物屋「若松屋」を一年あまりで退職すると、郷里に戻って資金を工面し、明治20(1887)年に、馬喰町の裏通りに間口二間(3m60cm)で「長瀬商店」を開き、石鹸と文房具の卸売を始めます。
このとき富郎、24歳。
商売は順調で、馬喰町の升屋旅館の三女なかとも結婚もし、商いは帽子、ゴム製品などにも広がって行き、一年後には表通りに店を構えるまでに発展します。
富郎のおもしろいのは、この時すでに複式簿記による詳細な損益計算書も発行していること。とかく信用はこうした金銭に対するまじめさが必要です。
長瀬商店は、おもにアメリカ製の石鹸を扱っていたのだけれど、これがなかなか入手できない。
圧倒的な需要過多だったのです。
仕入れることさえできれば右から左に売れるけれど、肝心の品物がない。
一方で国産石鹸は粗悪で、納品しても苦情がきて返品されてしまう。
当時は返品は問屋が、かぶったのです。
富郎は考えます。
良質な石鹸を作ることができれば、それこそ右から左に売れるのではないか。
同じタイミングで、仕入先のメーカーから、石鹸職人の村田亀太郎が退職したのを機に、富郎は、亀太郎に、長瀬商店専属でやってみないかと話をもちかけます。
そして、知人の薬剤師、瀬戸末吉に分析の基礎を学び、原料や香料を調合に没頭した。
一年半の後、遂に製品が完成します。
絶対の自信作です。
知人の高峰壌吉博士(ジアスターゼを発見した世界的化学者)に分析結果も書いてもらった。
製品はろう紙で包み、分析結果の紙を添え、さらに自分で描いた「花王」月のマークの図案を印刷した上質紙で、ひとつひとつの石鹸を丁寧に巻き、これを桐箱に三個を納めた。
値段は、一箱35銭です。
アメリカ製の高級石鹸ですら、1ダース28銭だった。
国産で、しかも三個で35銭というのは、飛びぬけて高価です。
富郎は、自信作の石鹸を、高級舶来品のようなブランド商品として売り出そうとしたのです。
狙いは当たります。
桐箱入り花王石鹸が、贈答用に重宝されたのです。
石鹸は今でもお中元やお歳暮の主役だけれど、どうやらその週間の原点は、明治20年の富郎の35銭石鹸からきているらしい。
富郎はさらに、高級ブランド品販売に際しての景品にも着目します。
石鹸を売るために、風呂敷、うちわなどを配布した。
さらに宣伝には、全国の新聞に積極的に広告を掲載します。
鉄道沿線にある野立看板による広告も、花王が最初です。
鉄道網が全国に広がり、野立看板は、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に広がります。
また、劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布などもした。
石鹸の大当たりから、薬剤師の瀬戸の指導のもとで、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始する。
ちなみに富郎は、明治の末期(明治41年)には、広告に、稀代の美人芸妓とされた萬龍を起用しています。
萬龍を起用した花王石鹸のポスター(明治41年)
萬龍01

この萬龍という女性は、赤坂の芸子で、日露戦争の際に、出征兵士のために慰問用絵葉書で大人気を博し、明治41(1908)年には、文芸倶楽部誌の「日本百美人」投票で一位になった女性です。
ついでというか、全然話は違うのだけれど、よく「美人の尺度は時代とともに変わる」などと言われます。
しかし、ボクはこれは違うと思う。
化粧の仕方や、写真を撮るときの表情などは、それぞれ時代とともに変わるけれど、美の感覚というのはそうそう変わるものではないです。
萬龍
萬龍02

話を戻します。
富郎は、花王石鹸の成功を受けて、明治33年には、化粧水「二八水」も発売します。
この頃、花王石鹸の成功を真似て、偽物の「香王石鹸」なるものが出回るけれど、実は最初に取得した「香王石鹸」の商標登録のおかげで富郎が勝訴。偽物を撃退したりしています。
明治28(1895)年には、花王石鹸は4.4万ダース、金額にして3万円を売り上げる驚異的な成功をおさめます。
明治29年には、東京・向島に新工場を建設。
明治40年には、売上は10万円を突破します。
しかし、富郎は、それまでの過労が重なり、明治43年には床につくようになり、明治44(1911)年に、48歳の若さで、この世を去ってしまいます。
亡くなる直前、長瀬富郎は、長瀬商店を合資会社長瀬商会に改組しています。
合資会社長瀬商会が、花王石鹸株式会社に改組したのは、富郎没後の大正14年、現在の社名「花王株式会社」に社名が変わったのは、昭和60年のことです。
長瀬富郎が、亡くなる前に残した花王の理念です。
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人ハ幸運ナラザレバ、非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ
運ハ即チ天祐ナリ
天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ
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成功というのは、たまたまの偶然にすぎない。
それはまさに、天の助けによる思いがけない幸運である。
その幸運を得ようとするなら、常に道を正して待ちなさい。
けだし名言だと思います。
花王の創業者、長瀬富郎ほどの幸運に見舞われた人生の大成功者ですら、自らの成功を「天祐」と言っている。
「天祐」とは、天の助けによる思いがけない幸運です。
そして天の助けは、正しい道を歩む者にしか、結果として微笑まない。
世界がスペイン、ポルトガルによって植民地化され征服された時代に、なぜか日本は世界で唯一、植民地化をまぬがれました。
それはもしかしたら、普通の庶民がお風呂にはいれる生活が、日本にあったこと、それを護ろうとする信長という強大な軍事力があったことによるのかもしれません。
花王の成功も、多くの人々がお風呂で垢を落としてさっぱりできること。
主婦の洗濯が、すこしでも楽になることが、まさに「天祐」を招いたのかもしれません。
もしかすると「正しい道」というのは、多くの庶民を護り、幸せにする道をいうのかもしれません。
「天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ」
大切にしたい言葉なのではないかと思います。
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