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福島安正
福島安正

だいぶ以前のことになりますが、2008年12月9日の記事で、学者の著書の「引用」について書かせていただいたことがあります。
田母神俊雄元航空幕僚長の論文問題による辞任があった頃のことです。
上久保誠人なる学者が、「田母神論文には<引用先>があきらかでないから、論そのものに値打ちがない」などと書いていたのです。
すこし引用します。
<引用↓>~~~~~~~~~
自衛隊元空幕長・田母神氏の書いた文章が世の中を騒がせていたが、今回この文章について初めて書いてみたい。
しかし、その主張の内容の是非、及び文民統制の問題は取り上げない。
それらは、既に様々な識者が論じ尽くしているからではあるが、それ以上に、そもそも論じる価値がないからだ。
田母神氏の文章には、彼の主張の根拠・理由となる参考資料・文献が一切明示されていない。
つまり、田母神氏の主張は単なる思い付きだということだ。
少なくとも、学問の世界ではそう看做される。
たとえ、田母神氏が長年に渡って歴史を深く学んでいたとしても、それが文章上に示されていなければ意味がない。
田母神氏が私のゼミの学生で、この文章をレポートとして提出してきたら、私の採点は「不可」である。
この文章は、大学の「レポート」にすらならない、ただの「作文」なのだ。
私はこの連載など、参考資料・文献を明示しない評論として書いた文章を「論文」とは呼ばない。
それは研究者としての最低限の矜持である。田母神氏の文章を「論文」と呼ぶのは、我々研究者に対して失礼である。
http://diamond.jp/articles/-/738
<↑引用終わり>~~~~~~~~~
非常に不愉快な文章で、このときも反論を書かせていただいたのだけれど、「文章に主張の根拠・理由となる参考資料・文献が明示されていない」ならば、それは「論文」ではない、と一蹴しています。
机上の空論ばかり言う学者の言いそうなことです。
いっけんもっともそうな論説ですが、これには非常に大きなトリックがある。
実は先日、GHQによって焚書にあった書籍を収集している方のところに行ったのです。
そこには六千冊近い、焚書がきちんと分類されて置いてあります。
一度ご覧になったらわかるのですが、高い次元の道義心と、志、国家を護るという強い信念をもって、現場に直接行き、自分の目で見、体で体感し、そこで生活してはじめてわかる真実の記述がそこにあふれています。
要するに「まともな本」なのです。
そういう本がGHQによって焼かれ、本の著者は公職追放に遭い、あとに残ったのは娯楽本と、GHQに媚を売る売国学者です。
彼らは、GHQの7年間の統治の時代に、自分たちに敵対する勢力を放逐し、社会的地位を得、その一部は政界に進出しています。
その彼ら売国学者たちは、論文に「参考資料や文献」を引用先として明示することを課します。
しかし考えてみてください。
まともな本が焼かれ、ろくでもない売国屋たちの本しか日本国内に残っていない状況で、引用を義務付けたら何が起こるか。
彼らはそういう、いわば壮大な罠を仕掛け、その罠が現代にまで残っている。
一方に朝日新聞の記者の話があります。
朝日の記者は、高給をとっているけれど、めったに現場に出ることはありません。
現場の取材は、もっぱら外注先か、入社したての新人だけの仕事です。
では、どうやって記事を書いているかというと、学者のやり方と同じです。
下請けや新人記者によって持ちこまれた記事から、自分たちの都合のよい部分だけを取り出し、「頭の中で」事実を再構成し、報道する。
そこに「現場」はありません。
焚書にあった本は、そのどれもが、実体験に基づく現場を書いた本です。
古代から伝わる伝統的で高次な道義心のもとで、現場に行き、生の状況を眼で見、体で味わい、正確にその事実を記しています。
そこに下手な小細工や誤魔化しはありません。
なぜなら、その現場には、日本の将兵が実際にいる。
あるいはそのときにはいなくても、後日、日本の将兵たちがそこに行く。
嘘など書いたら、あとでばれてたいへんなことになる。
そして著者たちは、「どこそこにこう書いてあった」などという卑怯な「逃げ」は打ちません。
自分と先祖、子孫の名誉をかけて、正鵠を射た著作を残している。
福島安正という人物がいます。
明治時代の日本の陸軍軍人です。
彼は、日露戦争の前に、ロシアがシベリア鉄道の工事に着手するという情報を得て、単独で冬のシベリアの横断を行い、これを成功させます。明治25~26年(1892~1893)にかけてのことです。
それは、世界初の快挙でした。
全世界が驚嘆した。
厳寒のシベリア横断は、世界初だったからです。
もっとも福島安正自身は、秘密調査のつもりだったので、全世界からの喝采がかえって迷惑だったようですが、彼は、このとき取材した内容を、細かく記録し、後にその内容が出版に至っています。
単騎遠征録/福島安正閲、西村天囚編金川書店(明27.6)

この本は、ベルリンからウラジオストクまで1年4ヶ月をかけて単騎で横断し、シベリア鉄道の建設状況を視察した模様を記した本です。
シベリア鉄道が完成すれば、ロシアは必ず太平洋側で南下政策をとる。
そんなことは、すこし考えれば誰でもわかることです。
では、実際に鉄道を通そうとする地域は、どういうところなのか。
鉄道を通して、途中で食料の供給はできるのか。
兵の補給はできるのか。
資源はあるのか。
人々のロシアに対する思いはどのようなものなのか。
治安の情況はどうなのか。
シベリア鉄道は、完成までに10年を要する大事業です。
完成すれば、ロシアは兵を極東に送り込むことは間違いない。
そうなれば、満洲から樺太、朝鮮半島を経由して、日本は必ず国家存亡の重大な危機に直面する。
その前に、我が国の安全を守るためには、詳細な調査が必要である。
福島安正は、その問題意識から、実地検分調査を行おうと思い立ちます。
しかし、複数で行けば、スパイ行為とされてしまう。
ロシアに逮捕されてしまいます。
だから福島は、陸軍に暇をもらい、一頭の馬にまたがって、ひとりでヨーロッパから冬のシベリアを横断したのです。
福島安正については、国際派日本人養成講座で伊勢雅臣さんが詳しく紹介していますので、その文を紹介します。
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福島安正は嘉永(1852)年、長野・松本藩士の家に生まれ、大学南校(後の東大)を経て、明治7(1874)年、英語力を買われて陸軍省に採用された。
西南戦争では長崎に集結した列強の艦隊の動向を探り、異国の乗組員と酒を酌み交わしながら、特にどこかの国が西郷軍を支援する事はないだろう、という貴重な情報を官軍の征討参軍・山県有朋にもたらした。ここから安正は情報将校としての道を歩み出した。
明治12(1879)年、安正は約5ヶ月の北支、内蒙古の探索に出発した。
天津では苦力(クーリー、出稼ぎ労働者)に化けて、中国語をマスターし、北京では漢方薬売りに扮して紫禁城内に出入りし、清国の政情や軍備状況を調べた。
帰国後、64巻にわたる『隣邦兵備略』をまとめて、山県を感動させた。
その後、朝鮮をめぐって日本と清国の間の緊張が高まると、明治15(1882)年からは、北京の日本公使館付武官として、情報収集を続けた。
その結果、得られた結論をこうだった。
清国の宮廷は宦官の巣窟となり、役人は腐敗して民衆を搾取し、軍備もさして強力ではない。
欧州では清国を「眠れる獅子」などと警戒しているが、いまや獅子ではなく豚であり、眠りは醒めることはあるまい、と。
こうして完成したのが65巻におよぶ『清国兵制類集』で、これが10年後に、総理・伊藤博文が対清開戦を決意した時に大いに役立った。
2年余りの滞在で、清国の調査を終えた安正は東京に戻り、今度は東洋を侵略しつつある西洋列強の調査に取りかかった。
手始めはビルマとインドであった。
英国軍が激戦の果てに占領したばかりのビルマの首都ラングーンは砲撃で破壊されており、
「イギリスの奴、ここでもひどいことをしていやがる」と安正は悲憤を感じた。
いずれ白人の帝国主義は日本にも及ぶだろう。
その時こそ、日本人が東洋の盟主として、有色人種のために戦わなければならないのだ、その為の偵察旅行だぞ、と安正は決意を新たにした。
約半年の偵察旅行の結果、安正は次のような結論を得た。
英国を初めとする欧州列強の東洋蚕食(さんしょく)は、すでに相当エスカレートしており、このままでは中国もインド(のように植民地)化される恐れがある。
そうなれば次にくるのは我が国に対する圧力である。
そしてロシアは中央アジア侵略の手を、アフガニスタンに伸ばして、英国と衝突しかかっているが、この方面で英国が譲歩するとは思えない(大事なインドを護るため)ので、次にくるのは満洲、朝鮮を経て太平洋に出て、不凍港を入手しようとい
う算段しかありますまい。
安正はその後のロシアの動きを正確に予測していたのである。
この報告も含めて、参謀本部では国防の重要性を訴える献言書を明治天皇に提出した所、天皇も同感で、明治20年3月には「海防に関する詔書」が下され、特に建艦費として宮廷費の1割以上を下賜された。
これをきっかけに海軍の増強が進んだ。
安正の情報がなければ、日本海海戦での大勝利もあり得なかったかもしれない。
明治20(1887)年3月、安正はドイツ公使館付武官としてベルリン駐在を命ぜられた。この頃には安正の情報将校としての実績は揺るぎないものになっていた。
ベルリン駐在の目的の一つにユーラシア大陸横断計画の下準備があった。
翌1888年、安正はロシアが東洋進出のためにシベリア鉄道建設を企画しつつある、という情報を得た。
この鉄道の軍事的な意味は明らかだった。
今までのロシアは欧州の兵力を極東に運ぶ効率的な手段を持っていなかった。
海路では非常な時間と費用がかかり、また列強の領海を通過せねばならないので、英国
などから干渉される恐れがあった。
しかし、自国の大陸内を鉄道で運ぶなら、誰も口出しできない。
極東侵略のための兵力も物資も、効率的に送り込むことができるのである。
1891(明治24)年1月、安正はユーラシア大陸横断の計画を立て、参謀本部に旅行申請を提出した。ちょうどこの月に、ロシア政府はシベリア鉄道の建設を正式に宣言した。
それから間もなく、ロシア政府から日本政府に、ウラジオストクにおけるシベリア鉄道起工式に皇太子ニコライを派遣するので、その序でに日本を訪問させたい、という通報があった。
このニコライは大津で警護の巡査に斬りつけられて負傷し、一時は日露開戦かと、日本中をおののかせる事件が起きた。
大津事件である。
≪参考≫
大津事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-754.html
参謀本部からの計画認可がおりたのは、この後であった。
このニコライは3年後にロシア皇帝となって日清戦争後の三国干渉を主導し、日露戦争敗北後のポーツマス会議では「一握りの土地も一ルーブルの金も日本に与えてはならない」
と指示して、日本を窮地に追い込んだ。
そして明石大佐が莫大な資金で援助した革命派によって殺害され、最後のロシア皇帝となってしまう。
日本との因縁浅からぬ人物であった。
こうして1893(明治26)年の紀元節にベルリンを出発した安正は、3日目に旧ポーランド領に入る。かつての強国ポーランドは18世紀にドイツ(プロイセン)、ロシア、オーストリアに分割されていた。
淋しき里に出たれば、
ここは何処と尋ねしに、
聞くも哀れや、その昔、
亡ぼされたるポーランド
明治時代の歌人・落合直文の作であるが、「福島少佐のシベリア横断の歌」として愛唱された。
国を失ったポーランドへの同情が、後にシベリアに流刑となったポーランド人革命家たち
の孤児765名を救出する大きな動機となったのかもしれない。
≪参考≫
大和心とポーランド孤児
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-523.html
ワルシャワを経て、2月の後半はリトワニア、ラトビア、エストニアのバルト3国を通過する。
かつては独立国として繁栄していたが、今はロシア領となっていた。
今も弾圧に耐えながら、地下で独立運動が続けられている。
安正は、日露間に戦端が開かれたら、これらの独立革命家を支援、扇動して、帝政ロシアを西から攪乱する手もあるな、と考えた。
後に明石元二郎大佐が、この戦略を実行して大きな成果を上げる。
3月24日、安正はロシアの首都ペテルブルクに入った。
42日間で1850キロ、日本で言えば鹿児島-仙台間を走破したのである。
ロシア側は安正の動きをつかんでいたと見えて、市の南門の10キロ手前で騎兵将校が出迎え、騎兵学校の貴賓室に案内され、賓客として扱われた。
広大な大陸に育ったロシア人ですら、ユーラシア大陸の単騎横断などという大行軍を成し遂げた騎兵はいない。
その勇壮なる企てに、彼らは感激したのである。
安正はここで半月ほど過ごして、情報収集にあたった。
ロシア陸軍の総兵力、編成が明らかになった。それは日本の14倍という規模であった。
さすがにロシア陸軍の華とされる騎兵隊は、軍紀粛正で訓練に熱心な精鋭ぞろいであった。
日露戦争では、この騎兵に苦しめられることになる。
しかし、歩兵や砲兵の練度はムラがあり、ロシア王朝の頽廃に影響されてか、軍紀も弛緩し、皇帝への忠誠心にも疑問があった。
3月30日、安正は皇帝アレクサンドル3世への拝謁を仰せつかった。
皇帝は安正のユーラシア横断に非常な興味を抱いていた。
「少佐は何語を話すのか?」とまず聞かれたが、「ドイツ語でもフランス語でも、英語、ロシア語でも、陛下のお宜しい方で結構でございます」と答えた。
そこでフランス語の会話となったが、安正が中国語も出来ると知ると、皇帝は驚いて、
語学談義に花が咲いた。
4月9日、ペテルブルクを出発し、720キロを16日間で走破して、4月23日にモスクワ着。モスクワではシベリア鉄道に関する情報を集めた。
東西両端から建設工事を始め、現在の未完成の線路は約7千キロ。
今まで工事スピードは年間700キロなので、あと10年、1904年には完成するだろうと安正は予測した。
実際の開通は、安正の予測通り、1904年、日露戦争開戦の年であった。
5月6日、モスクワを出発し、7月9日、ウラル山脈の頂上に到達、かねて聞いていた「頂上の碑」を発見した。
高さ3メートルほどの石碑に、「西はヨーロッパ、東はアジア」とロシア語で記されていた。
安正は空に向かって大声で叫んだ。
思えば欧州に勤務すること5年有半。この間、夢にも見た懐かしい故郷の空、これからがアジアの空だぞ。
ここからがいよいよシベリアである。
帝政ロシアはシベリア開発のために多くの労働力を必要とし、犯罪者や政治犯を多い
ときには年間2百万人も送り込んでいた。
貧しいシベリアではコレラが流行しており、安正が通過する町々では広場に死体の山が築かれ、「死の町」のような静かさに覆われていた。
安正は夏の間に一気にシベリアを横断し、9月24日、日本人として初めてアルタイ山脈を越えて、外蒙に入った。
かつて草原を支配した蒙古民族も、今は清国の支配下にあるが、眠れるが如き清国政府はかかる辺境には無関心で、国防の配慮も乏しい。
帝政ロシアの経済的、軍事的影響が強まっていた。
東進するロシアは、必ずこの外蒙を手中に収めるであろう、と安正は考えた。(実際に20年後の辛亥革命で清朝が崩壊すると、ロシアは外蒙を勢力下に収めている。) その次は満洲、朝鮮、そして我が日本である。
寒さの厳しい高原を、馬の背にゆられながら、安正は祖国の行方を案じていた。
約2ヶ月かかって外蒙を横断すると、安正は再び北上してロシア領に入り、バイカル湖畔にたどり着いた。
シベリア鉄道の工事が、まだここまでは達していなかった事が確認できた。
1893(明治26)年の元旦を、安正はバイカル湖畔から東へ110キロの町で迎えた。
零下30度の寒さで風邪を引き、ホテルで3日間の寝正月を決め込んだ。
2月11日の紀元節。
ベルリンを出発してちょうど1年が経過した。
安正は今までの旅が無事であった事を神に感謝した。
しかし、この日、安正は馬から氷上に転落し、頭部に深い傷を負った。
5日間、農家で療養した後、また東に向かい、3月20日、氷結しているアムール河を渡って、満洲に入った。
4月18日、吉林の手前で、この地方の風土病にかかり、18日間も田舎の宿で昏睡状態が続いた。祖国まであと千キロあまりのところまで来たのに、こんな満洲の田舎で果てるのか、と無念に思った。
しかし、なんとか元気を回復し、5月7日にようやく出発。
6月1日、満洲と朝鮮を隔てる険しい山を越えると、安正は思わず、声を上げた。
「おう、海が見えるぞ!」 前方遠くに見える青い海、日本海である。安正の両眼から涙が滴り落ちた。
祖国、、、あの青い海の向こうに祖国があり、皇居のある東京もあるのだ、、、陛下、臣安正は今、祖国を望む地点まで帰ってきましたぞ。
そこからは再びロシア領に入り、6月12日、安正はついにウラジオストクに到着した。
ちょうど1年4ヶ月で1万4千キロを踏破し、見事に任務を遂行したのである。
大勢の日本人が万歳で出迎えた。到着の知らせは国内外に伝わり、世界中の新聞が世紀の壮挙と大きく報道した。
安正はウラジオストクから3頭の愛馬とともに、東京丸で日本に向かった。
6月29日午後、横浜港に着くと、児玉源太郎陸軍次官や家族が出迎えていた。
さらに安正を驚かせたのは、明治天皇から差し遣わされた侍従が「天皇陛下より賜る」といって、暖かいねぎらいの言葉とともに勲三等旭日重光章を授与した事だった。
7月7日には皇居で明治天皇に御陪食を賜った。
乗馬を好まれる陛下は、安正が3頭の馬を東京まで連れ帰った事を聞かれると、「それはよいことをした。安正はまことの騎兵将校じゃ」と喜ばれた。
明治天皇のご沙汰で、3頭の馬は上野動物園で余生を送ることとなった。
この11年後に日露戦争が始まった。
安正は児玉源太郎・総参謀長のもとで、情報収集・背後工作を続けた。
日露戦争は薄氷を踏むような勝利だっただけに、安正のもたらした情報がなければ、戦局はどう転んだか分からない。
~~~~~~~~~~~~
ボクは、引用がいいとか悪いとか言っているのではありません。
引用だけでなく、生の実体験と、それを形にする祖国を思う信念と高い道義心、それらが揃ったときに、学問は光彩を放つものなのではないかと思うのです。
国を思う志士が書いた論文に対し、いっかいいの小僧が机上の空論を振りかざして、「論文の体をなしていない」などというのは、それは傲慢であり、傲慢は、学問の世界でもっとも忌むべきことではないのか、と疑問に思うのです。
売国左翼というのは、いわゆる「階級闘争主義者」です。
自分以外のすべてを敵とみなし、闘争を図ろうとする。
人を責め、批判することが正義と勘違いしている。
しかし、どんなときも、自らの手を汚してでも、国家(ここでいう国家とは、わたしたちひとりひとりです)を護るというつよい信念をもった人が、書いたものの方が、文章の形式の如何を問わず、「中味のある文」であると、いいきることができるのだと思います。
現場第一と思う方
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