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静御前の舞
静御前の舞

静御前(しずかごぜん)という人は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性です。
母は磯禅師(いそのぜんし)という白拍子(いまでいうダンサー)で、静も白拍子の道を歩みます。
静御前は、前年の飢饉の際に「雨乞い神事」を行い、ただひとり雨を降らせる事ができた「神に届く舞」を舞う白拍子です。
後白河法皇から「都一」のお墨付きもいただいている。
このとき、舞を見た源義経が、静御前を妾にします。
静御前は、以来、ずっと義経と行動を共にするのだけれど、義経は、兄、源頼朝と不仲になり、京を追われてしまいます。
京を出た義経一行は、四国平定のため、尼崎から船に乗って四国を目指しますが、暴風雨に遭い、船は難破し、一行は散り散りになってしまう。
一夜開けて、漂流の末たどり着いたところは、芦屋の里。
つまり、もとに戻ってしまった。
やむなく一行は、大和から吉野を目指します。
このとき、義経と一緒にいたのは、源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶、そして静御前、および並びに少数の雑役夫の男たちです。
義経ら一行は、吉野にある吉水院という僧坊にかくまって貰うけれど、これより先は女人禁制の「大峰山」の山越えとなります。
やむなく義経は、吉野山で静御前に「都へ帰りなさい」と別れを告げる。
それを聞いた静御前は「あなたの子供を身ごもっている」と打ちあけ、「別れるくらいならいっそのこと殺してください」と言います。
このときの静御前の服装は、鎧に身を包み、大薙刀を持った姿です。
御前は、薙刀の名手だったとか。
鎧姿に身を包み、愛する人との別れに涙する絶世の美女、静御前。泣かせる場面です。
義経は、自分が使っていた鏡を渡して「これを自分だと思って使ってくれ」と御前を諭します。
愛する人の前で、静御前は、最後の別れの舞を舞う。
静御前の舞を見ながら涙する義経。
静御前は、
♪見るとても 嬉しくもなし 増鏡
  恋しき人の 影を止めねば♪
と和歌を詠みます。
「鏡を見ても嬉しくありません。なぜなら鏡には愛する人の姿を映してはくれないから」
義経一行は、静御前を置いて、旅立ちます。
文治元(1186)年11月のことです。
11月17日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の修行僧たちが、一行の捜索のために山狩りを行います。
夜10時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を僧兵が見つけ、執行坊に連れてきて詳細を問う。
このとき静御前は、しっかりと顔をあげ、
「私は九郎判官義経の妾です。
私たちは、一緒にこの山に来ました。
しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、義経様御一行はは、山伏の姿をして山を越えて行かれました。
そのとき、数多くの金銀類を私に与え、雑夫たちを付けて京に送ろうとされました。
しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峯雪の中に、私を捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たのです」
と述べます。
11月18日 静の証言によって義経を探す為、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山を捜索するけれど、吉野執行は静御前を気の毒に思い、充分に労ってから彼女を鎌倉に差し出します。
鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行方は、知らないものは知らない。答えようがない。
やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、そこで彼女が妊娠5ヶ月の身重であることを知ります。もちろん、義経との子供です。
とりあえず、出産の日まで、静御前は鎌倉にとどめ置くことになります
静御前といえば、京の舞の名手です。
そういう静御前が、せっかく鎌倉にいる。
是非、舞を見てみたいという声が、鎌倉武士の中から聞かれるようになります。
なにせ出産すれば京に帰ってしまうのです。日本一の舞を見れるチャンスは、今をおいて他にはない。
文治2(1186)年4月8日、満開の桜の鶴岡八幡宮を、頼朝と、妻の北条正子が参拝します。
晴れのめでたい席です。
頼朝は、静御前に舞をするよう命じ、控えの間から静御前を廻廊に召し出します。
回廊に召しだされた静御前は、
「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました。
いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇をあれこれ言う事は出来ないけれど、それでも義経の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です」と渋ります。
しかし北条政子が
「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」としきりに頼朝に勧め、頼朝は、「八幡大菩薩に備えるのだから」と静御前を説得します。
鶴岡八幡宮に奉納する舞となれば、これは神事です。
静御前としても、これは断ることはできない。
静御前は、鎌倉の御家人たち、その他大勢の見物客の前で、扇子をとります。
最初の曲は、「しんむじょう」という、謡曲です。
歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとります。
満開の桜の中を舞う静御前。
鍛え上げられたしなやかな舞は、風とともにそよぎ、玉のような歌声は遠く雲間に立ち上ります。
鶴岡八幡宮舞殿で披露された「静の舞」
鶴岡八幡宮舞殿で披露された「静の舞」

しかし、なにかものたりない。。
一曲を舞い終わり、床に手をついた静御前は、そのまま舞台にとどまります。
そのままじっと動かなくなった。
会場は、水を打ったように、しんと静まりかえる。
しわぶきひとつ聞こえない、張りつめた緊張が会場を覆います。
その中で、彼女はふたたび歌いはじめます。
♪吉野山 嶺の白雪 ふみわけて
 入りにし人の 跡ぞ恋しき
 しづやしづ しづのをだまき 繰り返し
 むかしを今に なすよしもがな♪
虜囚の身でありながら、敵の将軍の前で、「吉野山で雪を踏み分けて行かれた義経様の足跡が愛しくてたまらない。私の名前を「静、静」と繰り返し呼んでくださった義経様に今一度会いたい」と歌ったのです。
舞は、見事です。
さっきの舞とは比べ物にならない。
あまりの美しさ、神々しさ、そして愛する人を思う情熱が、見る人々の心を魅了します。
このとき、日本一の舞を一目見ようと境内に溢れかえった人々は、声一つ出せなかった。
それほどまでに緊張感のある舞だった。
そんな緊張を破ったのが頼朝です。
「鶴岡八幡の神前で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべきなのに、謀反人義経に恋する歌を歌うとは何事か!」と日ごろは冷静な頼朝が、めずらしく怒りを爆発させます。
それを妻の北条政子が制します。
「わたしには、彼女の気持ちがよくわかります。
私もあなたと同じような思いをしたのですから。」
「ならば」と頼朝は言います。「敵将の子を生かしておけば、のちに自分の命取りになる。そのことは、自分がいちばんよく知っている。生まれてくる子が男なら殺せ」と命じます。
7月29日、静御前は、男子を出産します。
義経の子です。
その日、頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやってきます。
お腹を痛めた、愛する人の子です。
静御前は、赤ちゃんを衣にまとい抱き臥し、数刻に及び泣き叫んで赤子を離さなかった。
清常は厳しく催促する。
磯禅師が恐縮し、赤子を取り上げて使いに渡してしまいます。
傷心の静御前に、9月16日、憐れんだ政子と大姫が、たくさんの重宝を渡し、京へと旅出させます。
その後の静御前については諸々の伝承があり、はっきりしたものはありません。
北海道乙部町で投身自殺したというもの。由比ヶ浜で入水したというもの。
義経を追って奥州へ向かうけれど、移動の無理がたたって死んだというもの等々、列挙すればキリがないほど、たくさんの物語が存在します。
しかし、ほんの短い期間とはいえ、出あった人を思い続け、時の権力者頼朝の前でまで、聴衆を釘づけにした静御前の迫力。
なにか、凛とした日本女性の姿を見るような気がします。
それにしても・・・・
義経の物語の、クライマックスのひとつである義経と静御前との雪の吉野路の別れ。
鏡をプレゼントし、舞を舞い、和歌を詠み、涙の別れをする二人。
二度と逢えなくなる二人。
鎌倉に送られて、満開の桜の木の下で、「しずやしず」と舞を舞う。
静御前の物語は、どこをとっても、涙を誘い、人々の心に強く迫ります。
いまでも、全国あちこちに静御前ゆかりの地がある。
それだけ人々に深く愛された女性だったといえるのではないでしょうか。
静御前の舞は、神に届く崇高な舞です。
鶴岡八幡宮を埋め尽くした鎌倉御家人たちを、シンと静まりかえらせ、感動の渦に巻き込んだ、御前の舞は、演劇や芸能の世界に住む者なら、まさに理想の舞台となる。
戦後流行った言葉に、「お客様は神様です」というのがあったけれど、戦前の日本では、舞台を勤める者はまさに神の領域に達する芝居をしようと心がけた。
だから観る側も、正装して舞台を見に行ったのです。
そういう人と人とが、互いに高めあっていこうという日本人の精神性が、この静御前の物語にあると、ボクは思っています。
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