
埼玉県熊谷市を流れる荒川に、若い母親と晴れ着を着た二人の女の子の遺体が上がりました。ご遺体は、藤井ふく子さん(24歳)と長女一子さん(3歳)、次女千恵子さん(1歳)。
なにがあったのか、事件のあらましを追ってみたいと思います。
夫、藤井一(ふじいはじめ)さんは、茨城県のご出身です。
農家の7人兄弟の長男です。
親は家業を継いでほしかったようですが、本人は陸軍に入隊を希望します。
歩兵として特別に優秀だった藤井一さんは、推薦を受けて転科し、陸軍航空士官学校に入校します。そして卒業後、熊谷陸軍飛行学校の中隊長(教官)に任官します。
学校は航空学校ですが、藤井中隊長はパイロットではありません。
歩兵科機関銃隊だった頃、Chinaの戦線で迫撃砲の破片を左手に受け、操縦桿が握れない手になっていたのです。
ですから彼が担当した授業は「精神訓話」でした。
当時、精神訓話の学習といえば、軍人精神を叩き込む大切な教科です。
軍人勅諭にそった厳しい鍛錬の時間です。
忠誠心が強く熱血漢の藤井中隊長は、厳しい教官であるとともに、心根が優しく、生徒たちから慕われます。
彼の口癖は、「事あらば敵陣に、敵艦に自爆せよ。俺もかならず行く」というものです。もちろん、まだ特攻作戦や玉砕戦が行われる前の頃です。
しかし戦局は厳しさを増し、まもなく「特攻作戦」が開始された。
特攻兵となった生徒たちにより、藤井の口癖は、その通りに実践されます。
あの純粋な教え子たちが、次々と特攻出撃して行きます。
「このままでは自分は教え子との約束を果たすことはできない」
他の教官たちは、なんの疑問も矛盾も抱かずにやっていることです。
しかし責任感が強く、熱血漢だった藤井は、自分が安全な内地で教官をしていることが堪えられない。そういう自分が許せない。
将来あるはずの純粋な教え子たちが、自分の教えを守って、つぎつぎと毎日、敵艦に突っ込んで行くのです。
あいつも、あいつも、あいつも、あいつも・・・
俺はここで、いつまでもこんなことをしていていいのか。
生徒に言った言葉は、教師である俺と、生徒たちとの誓いだ。
命をかけた誓いだ。男の誓いだ。
藤井はどうしても、その誓いを破るわけにはいかないと思います。
彼は、「特攻」を志願します。
しかし、それは受け入れられない。
藤井はパイロットではない。
左手の怪我で操縦かんも握れない。
しかも妻と幼子二人をかかえている。
学校でも重要な職務を担当している。
軍としても、藤井中尉の志願は受け入れられるはずもありません。
しかし彼は、生徒達との約束を守るため、断られても、断られても特攻に志願します。
ある日、妻のふく子さん(当時24歳)が、夫がそんな交渉をしていることを知ります。
仰天した。
「どうして・・・」
夫を愛する妻として、二人の幼子を持つ母親して、そんなこと絶対に認められません。どこの世界に、愛する夫の死を臨む妻がいるのでしょうか。幼い子供たちだっているんです。
天命ならいざ知らず、本来与えられた責務を放棄してまで逝くなんて、許せない。
ふく子さんは、毎日、夫を説得します。
当時、藤井夫妻は、荒物問屋を営む中島家の離れを借りて暮らしていました。
陸軍飛行学校までは自転車で通ってた。
夫・一(はじめ)、妻・ふく子、長女一子(三歳)、千恵子(生後四ヵ月)の四人家族です。
ふく子は、毎晩、勤務から帰って来る夫に、特攻志願を思い止まるよう説得します。
説得だけじゃない。哀願もします。泣いて言い争いもした。
ふく子の実家は、高崎市の商家です。
三女として生まれた彼女は、ピアノや歌もたしなむお嬢さんだった。
けれど戦争がはじまると、彼女は率先して野戦看護婦として勤務します。
気丈な娘さんでもあったのです。
藤井と知り合ったのは、藤井がChinaで負傷したときのことです。
戦地での出会いです。
ふく子は、「軍人」としての藤井中尉と交際し、恋愛結婚します。
だから藤井が「軍に忠、親に孝」をモットーとする愛国心に満ちた熱血漢であることは充分に承知しています。誇りにもしていた。
しかし、結婚して、二人の娘をもうけて、飛行学校の中隊長にまでなって、順当に暮らしているのに、どうしてわざわざ本来の任務を離れて、特攻を志願しなければならないのか。
ふく子にも夫の考えが解らないわけではありません。
教え子との約束を守りたい気持ちもわかる。
教え子たちが可哀相という気持ちもわかる。
申し訳ないという気持ちもわかる。
気持ちだけでは気がすまないという思いもわかる。
しかし、それは、戦時下の指導者なら、全員が背負っている宿命的感情です。
司令官だって、参謀だって、みんな背負っている。
なのにどうしてあなただけが、逝かなければならないの?
子供のことはどうするの?
それでも夫の視線は、妻子ではなく、頑固に遠くを見ています。
生徒たちと交わした約束のために、です。
軍人なのだから、戦場に行けば戦死することは覚悟ができています。
しかし、特攻の許可さえ出ない人が、 わざわざ何度も特攻志願するというのは、どう考えても死ぬために行こうとしている。
特攻兵として死ぬ覚悟をしている夫と過ごしながら、ふく子は誠心誠意、夫の心を取り返そうとします。
妻として、女として、母として、あらん限りの愛と知恵で戦った。二人の子供も盾にして戦った。命をかけて戦った。
でも、夫の決意は変わりません。
ふく子は、敗北を悟ります。そして彼女は決断した。
夫が週番司令として一週間宿泊勤務し、家を留守にした日のことです。
夕暮れを待って、ふく子は机の上に夫宛の遺書を置きます。
そして、二人の子供に晴れ着を着せ、自分も身仕度をする。
12月です。
荒川の冷たい川辺に着いたふく子は、次女千恵子ちゃんを背中におんぶし、長女一子ちゃんの手と自分の手をひもで結びます。
昭和19年12月15日の早朝、母子三人の痛ましい溺死体が、近所の住民によって発見されました。
すぐに遺体が藤井中尉の妻と子供であることが判明し、熊谷飛行学校に連絡された。
知らせを受けた藤井中尉は、同僚の嶋田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけます。

車の中で、藤井は、
「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけはかんべんしてくれ、解ってくれ」 と、呻(うめ)くような声で言う。
嶋田には、慰めの言葉もありません。
師走の荒川べりです。凍てついた風が容赦なく吹きつける。
歯が噛み合わないほどに寒い。
流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、ふく子の最後の願いを物語るように、三人いっしょに 紐で結ばれたまま蝋人形のように並んでいます。
藤井中尉が三人の前にうずくまります。
やさしく、擦るように白い肌についていた砂を手で払う。
藤井は背が高く、がっしりした体格で、柔道も剣道も射撃も堪能な男です。
いつも豪快な藤井の背中が、呻くようにふるえていた。
嶋田は茫然と立ちつくすだけで、声も出なかったそうです。
藤井の深い悲しみだけ が、じかに伝わってきて息苦しいほどだった。
嶋田の妻が、事件のことを知って、藤井の家に駆けつけます。
藤井の家はいつもと違って、人を寄せつけないものものしい空気が漂っていた。
すでに日が落ちて暗くなっていたけれど、窓という窓には 軍隊用の毛布が張りめぐらされ、軍の幹部の人たちが何人も詰めかけていて、緊張したただならぬ 気配がたちこめていたそうです。
その中で、ふく子と一子と千恵子の三人は、ただ眠っているように枕を並べてふとんの中にいます。
遺書は二枚の便箋に書かれていました。
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、
存分の活躍ができないことでしょう。
お先に行って待ってます」
という内容です。
はたから見れば 軍人の妻らしい気丈な立派な遺書かもしれない。
しかし愛する夫が死ぬとわかって、自らの愛で、夫をひきとめることができなかったふく子の悲しみは、藤井にも、同僚の嶋田にも、島田の妻にも痛いほどわかった。
葬式は、軍の幹部と、家族と隣り組だけで済まされます。
教え子たちの姿はありません。
生徒たちの参列は禁じられた。
涙を誘うこの悲惨な事件に、各社の新聞記者も飛びつきます。
しかし、記事はいっさい新聞にもラジオにも出なかった。
軍と政府の通告によって報道が差し止められたのです。
藤井は、葬式が終わった夜、母に連れられて死んでいった一子に宛てて、一通の手紙を書いています。けっして読まれることのない、死んだ娘への手紙です。
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【藤井一中尉が長女一子にしたためた手紙】
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日
荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、
一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。

藤井が、あてもないのに 天国の娘に手紙を書いたのは、そうしないではいられないほど、心のよりどころを失っていであろうと想像できます。
それは、もしかしたら自分自身への手紙であったかもしれません。
藤井は、事件の直後、あらためて特攻志願を行います。
今度は自らの小指を切って、血書嘆願しています。
今度ばかりは、軍も諸般の事情から志願を受理します。
パイロットではない者を特攻兵として受理したのは、前代未聞の「異例」のことです。
事件から一週間もたっていない12月20日、藤井は特攻隊長としての訓練を受けるため、熊谷飛行学校から、茨城県の鉾田(ほこた)飛行場へ転属となります。
藤井は熊谷飛行学校教官として、生徒達に大変な人気がありました。
厳しいけれど、熱血漢で情に厚く、愛情がある。
だから生徒達は藤井を信頼し、尊敬し、あこがれてもいた。
その藤井が、転勤が決まった日に、中隊長室に教え子を一人一人呼んで、生徒ひとりひとりから、家族のことや思い出話などを聞いています。
そして、ひとりひとりに「これからの日本を頼むぞ」と励ました。
いよいよ出発するときには、教え子たちが自習室に集まってお別れ会をやってくれます。
生徒や幹部たちは、みんなで記念に軍刀を買って贈ってくれた。
藤井はニコニコして、その軍刀を抜くと、
「これで奴らを一人残らず叩き切ってやるっ!」と刀を高くかざします。
この間、藤井は、妻子の不幸な事件のことは、生徒たちに一言も話していません。
生徒たちも、誰もそこことを語りません。
事実は、全員が知っています。
知っていて誰も口にしない。
口にしないで、藤井の笑顔に、みんなも笑顔で答えた。
笑いながら、みんな泣いた。
別れを惜しみ、藤井を惜しみ、藤井の心をわかって、泣いた。
ひとしお深く辛い涙です。
昭和20年2月8日、藤井は、二式双発襲撃機十機で編成された第六航空軍第三飛行集団付の特別攻撃隊隊長ととなります。
そして5月27日、第四五振武隊 (快心隊)と名づけられて、藤井は、知覧飛行場に進出します。
特攻出撃も終わりに近い5月28日早朝、午前三時起床という慌ただしいスケジュールで藤井は第九次総攻撃に加わり、部下を率いて沖縄へ出撃します。
藤井は小川彰少尉が操縦する機に通信員として搭乗します。
そして、250キロ爆弾を二発懸吊し、隊員10名と共に沖縄に向けて飛び立った。
そして、
「われ突入する」の電信を最後に、妻子の待つ黄泉の国に旅立ちます。
終戦の僅か2ヵ月半前のことでした。
藤井は、ようやくやっと学生たちと交わした約束と、娘一子に 書いた手紙の約束を果たすことができました。
それは、妻子三人が荒川で命を絶った師走の15日から、五ヵ月経ったときでした。
知覧の富屋食堂を訪れたであろう藤井中尉について、トメさんは年長の物静かな人がいたという以外にとくに印象がなかったそうです。
戦後、藤井中尉にまつわる話を聞いたトメさんは、涙が止まらなかったそうです。
昭和20年5月28日 沖縄県にて戦死 享年29歳

(引用、参考:「特攻の町知覧」
昭和史の証言
靖国神社遊就館)
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