
戦前、よく歌われた文部省唱歌に「児島高徳」という歌があります。
尋常小学唱歌第六学年用に掲載されています。
♪ 船坂山や杉坂と、
御あと慕ひて院の庄、
微衷をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩。
「天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず」
この歌は、楠木正成などが活躍した赤坂城の戦いのあと、隠岐島に流罪となった後醍醐天皇を奪還せんと、わずか二百の手勢で、鎌倉幕府の天皇護送団(五百騎)を追った児島高徳を歌った歌です。
残念ながら護送団の移動ルートを誤まり、奪還は失敗に終わります。
このとき児島高徳が、陛下の宿舎の傍にあった桜の木に書いたのが、
「天莫空勾践 時非無范蠡」
天が古代中国の越王・勾践を見捨てなかったように、このたびのことでも范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう、という意味の漢詩です。
この歌の舞台となった杉坂峠には、もうひとつ、あまり知られていませんが「涙の杉坂峠」という物語があります。
今日は、そちらの物語をご紹介しようと思います。
この物語は、江戸時代、大洪水で流出した地元の復興のため、幕府の命令より住民の意思を重んじて、自らの命を犠牲にしてまで力を尽くした石黒小右衛門(いしぐろこえもん)というお代官様のお話です。
地元では、この物語が地域住民の間で脈々と語り継がれ、鹿田踊りの一節にも歌い継がれています。
石黒小右衛門は、元禄二年(1689)年、美濃国(現・岐阜県)に生まれた人で、長じて京都町奉行所で与力を勤めます。
ちなみに町奉行所というのは、お奉行、与力、同心の職があります。
与力は、禄高二百石、拝領屋敷が200~300坪。
同心は与力の配下で、30俵二人扶持で、拝領屋敷は100坪です。
必殺仕掛人シリーズに登場する中村主水(藤田まこと)は、同心です。
ですから、与力の石黒小右衛門のほうが、ちょっと身分が上になります。
さて石黒小右衛門は、非常にまじめで有能であるとして京都所司代・土岐丹後守頼稔(ときたんごのかみよりとし)に見出され、延享元(1744)年には、勘定吟味方に出世します。与力中の最重要職です。
そして寛政2(1749)年には、60歳で、美作国・鹿田(現・岡山県真庭市落合町鹿田)の四代目代官に赴任します。
代官に赴任して七年目の宝暦5(1755)年9月のことです。
大雨で、中国山地を源に瀬戸内海に流れる旭川が増水し、堤防が決壊して各地に被害が出ました。
とくに向津矢村(むかつやむら)は、三七戸のうち二戸を残しただけ。
収穫間近の田畑も全滅。
村人や家畜も多くが命を奪われてしまいます。
石黒代官は各所の被災地を見回り、村を指揮して復旧に努めますが、壊滅的な打撃を被った向津矢村だけは、幕府の救いを求める以外に方法がない。
彼は、救済のための使いを江戸に送り、指示を請います。
しかし、一日千秋の思いで待った幕府からの指示は、向津矢村の復興あきらめて、村民全員が遠く離れた日本原へ移住せよ、というものでした。
村民たちは、先祖が眠り、長い間耕し守り続けてきたこの土地を捨てるのはあんまりだと、口々に向津矢村の復興を石黒代官に訴えます。
しかし、近隣の村々からの救援物資は底をつきかけていて、わずかな余裕すらない。
「それでも」と迫る村民の並々ならぬ決意に、石黒代官は向津矢村の復興決断します。
彼は、向津矢村の結神社(むすびじんじゃ)に、村民を集めると、代官所が全責任を負って向津矢村の復興を何としても成しとげること、復興へのめどが付くまで租税を半分免除するといい渡します。
そして「働くことは一村一家を、もう一度立て直すための原動力である。真に家業に精を出せば神は必ず守ってくださる」と訓示し、
心だに誠の道に叶ひなば
祈らずとても神や守らん
という歌を村民に渡します。
石黒代官の取ったこの行動に村民は感激します。
村人は一致団結。
昼夜を問わず復旧作業に取り組みます。
みんなの努力が実り、およそ一年後には荒れ果てていた農地もほぼ被災前の姿を取り戻します。
しかし、石黒代官の行動は幕府の許可なしに行ったものです。
彼は、事情を幕府に報告して改めて許可を受けようと江戸に向かいます。
ところが幕府の下した裁定は、
「命令違背、越権行為」でした。
失意の石黒代官を乗せた駕籠(かご)が、杉坂峠に差し掛かったときです。
一台のかごが追い抜こうとしてきました。
当時の習慣では、武家の乗った駕籠は、みだりに追い越すものではりません。
みだりに追い越せば、斬り捨て御免もやむなしです。
石黒は、追いついてきた駕籠を停め、行き先と用件をたずます。
それは、代官罷免の幕府の命を伝える早駕籠でした。
たとえそれが善行であったとしても、おかみの命に背いたとあれば、それは処罪にあたります。
もしかすると事情を賢察し、更迭で済むかもしれない。
しかし、たとえ更迭であったとしても、自分をとりたててくれた京都所司代土岐丹後守さまにご迷惑をおかけすることになる。
あるいは、後任の代官によって、おかみの命が年遅れでそのまま実行せられるかもしれぬ。
そうなれば、せっかく自分を信じて村の復興のために必死に働いてくれた村人たちの努力を水泡に帰させてしまう。
かくなるうえは、自分の一死をもって全責任を負う他はない。
石黒小右衛門は、駕籠の中で腹を斬って自害します。
人間、腹を斬っても、そう易々とは死にません。
だから普通は、介錯人がいて、途中で首を刎ねる。
長く苦しませないようにする。
しかし彼は、せまい駕籠の中で、ひとり割腹自殺を遂げます。
石黒代官の亡きがらは、遺言どおり鹿田村の太平寺に手厚く葬られます。
知らせを聞いた向津矢村の村民たちは、石黒代官の厚い恩に報いるべく結神社の境内に末社(神社に付属する小さい神社)を建て、そこを石黒神社とします。
それから三百年。
村人たちが参拝を欠かさなかった結神社は、明治42(1909)年に垂水神社統合されたけれど、いまでも鹿田踊りの一節にも歌われ、人々は石黒代官の遺徳を讃えています。
(参考)真庭市落合地域デジタルミュージアム
本文のとおり、武士道というのは、かくも厳しい道です。
我が国二千七百年の歴史と文化に基づく武士道精神とは、愚行すなわち死です。
だからこそ帝国陸軍において風紀を乱すものなど一切いなかったといえるのです。

