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山口多聞中将
山口多聞中将

山口多聞(やまぐちたもん)ときけば、旧日本海軍の提督の中の提督として、世界中のファンを魅了している人物です。
生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子として生まれています。
多聞というのは、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名されたものだそうです。
山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領。幕末時の藩主は松平家です。山口家は、この出雲松平家の家中だった。
江戸中期以降、年貢米に頼る全国の藩の財政がひっ迫する中で、出雲松平家はタタラによる製鉄事業を行い、藩の財政改革と相まって、なんと寛政年間には八万両もの蓄財をしています。
幕末には徳川親藩でありながら、はやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の独立を保った。
つまり、非常に合理性を尊ぶ気風が、出雲松平家中の風であったといえます。
そんな家中に生まれた山口多聞は、いまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業後、海軍兵学校第40期生となります。
入学時は150人中21番。卒業時は、144名中2番の成績です。
同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎がいます。
旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
卒業時の成績が生涯ついてまわる。
昨今では、日教組の奮闘(?)で成績の公表すらしない学校が増えているようですが、これは間違いです。
いいものはいい。悪いものはわるい。
それは区別であって差別ではない。
俺は成績は悪いが、ケンカでは負けない!でも良いのです。
そうやって競争して人間は負けない心、くじけない心が養成され、強くなる。
山口多聞は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属します。
もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦です。
そして軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向します。
船舶や陸戦は、水平運動をします。
潜水艦は、水平運動に垂直運動が加わる。つまり、動きが三次元になります。
潜水艦の専門であった山口多聞にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすかったのかもしれません。
山口多聞は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らします。
山口多聞といえば、山本五十六の秘蔵っ子、米内光政のラインとも言われていますが、山口は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしています。
ちなみに、山本五十六はハーバート大学で学んでいます。
そして両者とも、駐米武官を経験した国際派です。また愛妻家、子煩悩としても知られている。
駐米武官として山口が関心を抱いたのは、日米の国力の違いです。
なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。
日本の石油は、消費量の90%が輸入。しかもそのうちの70%が米国からの輸入です。
石油の備蓄量は連合艦隊の2年分しかない。
米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということです。
さらに石炭の産出量は、米国は日本の約9倍、鉄鋼産出量は日本の13倍です。
資源を米国からの輸入に頼る日本が、米国と開戦すれば、当然、資源の輸入を南方に求めざるを得なくなる。
そうするといたずらに戦線が拡大し、戦線の拡大は、我が国の国防力の分散化と弱化を招く。だから、米国の現状をつぶさに見た山口は、米内、山本らと同様に、日米避戦論であったのです。
この時期、多くの軍人が日米開戦に反対だったことは、あらためて注目に値します。
文民統制(シビリアン・コントロール)というけれど、ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止した日清戦争(明治27年)の頃は、文民といってもその多くは武人だった。
からくも勝利した日清戦争の戦果を、まるで無駄にしてあらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、文民政治家です。
軍人が多大な命を犠牲にして日露戦争に勝利すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげくChinaを蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えてChina事変に至らしめたものも、結局は幣原喜重郎内閣の「平和外交」です。
平和を愛する「文民統制」といえばいっけん聞こえはいいけれど、要するに「腰ぬけ平和主義者」に外交をやらせると、かえって被害を大きくする。
そのことは日本の近代史にあらわれる厳然とした事実です。
大東亜戦争開戦時、山口多聞は海軍少尉で、第二航空戰隊司令官です。
山口は航空母艦「飛龍」に乗り、真珠湾攻撃に出撃します。
日米避戦論であっても、やるからには勝たなければならない。それが軍人です。
開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施します。
この頃、山口は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されています。
「丸」は、彼が太っていたから。
「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。
山口は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていた。大飯ぐらいで、体力もあった。
それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に容赦なかったのです。
しかもほんのわずかなミスも許されない、緊迫した戦いを行うのです。
「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、ありゃいったいどんな感じのものなのかね」などと本気で質問し、訓練生たちを鼻白けさせたりもしています。
山口多聞は本気だったのです。
日米開戦となれば、初戦で大金星をあげなければならない。
戦いを長引かせるだけの体力は、日本にはないのです。
その訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込みます。
乗ってみて驚いた。
艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされているのです。
居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれている。
ドラム缶はむろん、一斗缶までが動員されて、ところ狭しと置いてある。
船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げてあったのです。
そのため居住区まで重油の臭気が満ちていた。
船の航行中は、ピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかったそうです。
実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていたけれど、両船とも航続距離が短かったのです。
平時ならなんの問題もない。油送船を一緒に連れていけばよいのです。
然料が切れたら 洋上で補給すればいい。
ところが真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動で、連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定していた。
冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
もっとも、だからこそ、途中他国の船に行き会う機会が少ないだろうということなのだし、もし敵国や第三国の船に連合艦隊が発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。
要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのであり、そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになる。
だから飛行機は他の空母に搭載し、三艦の内地にとどめおくという案が、軍令部(大本営海軍部)から出された。
これを伝え聞いた山口少将は、烈火のごとく怒ります。
即座に南雲中将に面会し、中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくった。
結果、山口の強い抗議と要望で三空母は、作戦に参加することになったのだけれど、そのかわり、然料である重油を各空母に積めるだけ積み込むことになったのです。
山口多聞は、平素は無口でおとなしい人だったそうです。
学業優秀だから、いわゆる秀才でもある。とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次でもあります。
しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒りまくる。
体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない男でもあったそうです。
いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。
しかし、筋の通らないことに怒るというのは、むしろ男子の美徳です。
昭和16(1941)年12月2日、連合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信します。
山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。
当日、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていた早朝、六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が、爆音を轟かせます。
時刻到来とともに、空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげる。
空母が十分な速度になるとともに、飛行甲板のから先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちます。
そして、空が明るさを増して、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。
「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。
待ちに待った電報です。
このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、
「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送ります。
第二波攻撃の必要あり、許可を求む、としたのです。
米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」には、次のような記述があります。
~~~~~~~~~~~
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。
日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。
この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
~~~~~~~~~~~
実は、山口多聞は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃として、真珠湾における燃料タンク、修理施設への攻撃を主張しています。
このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだった。
山口は、実際の真珠湾でも、第三次攻撃を準備し、その体制に入っていた。
しかし、いくら待っても旗艦「赤城」からは応答がありません。
双眼鏡を顔から離した山口多聞は、
「南雲さんはやらんだろうな」とつぶやいたといいます。
どれだけ悔しかったことか。
軍は、命令がなければ動けません。
独断専行は、決して許されない。
このとき、南雲中将は機動部隊を無事に帰還させることを優先し、初めから第二波攻撃を考えていなかったのです。
しかし、真珠湾攻撃の目的は、開戦とともに米機動部隊を撃滅させ、ハワイの港湾施設を破壊して米太平洋艦隊に後退を強いることにあります。
そうであるならば、燃料タンク、修理施設への攻撃は不可欠です。
だからこそ、山口は徹底した第二派攻撃を何度となく具申した。
しかも攻撃後の報告では、真珠湾に米空母がいなかった。
山口は、敵空母をさらに追い詰める旨を具申するけれど、南雲中将はこれも無視し、艦隊に北北西に進路反転を命じます。
このとき山口は、地団太ふんで悔しがった。
歴史というものは皮肉を教えてくれます。
南雲中将は、水雷畑の出身で「水雷の権威」で「航空戦」にはズブの素人です。
それをいきなり航空艦隊の総帥に任じられたのは、年功序列を重んじる海軍の平時の人事の発想であったといえるのかもしれません。
航空に素人の南雲中将が上官で、プロの山口がその指揮下に甘んじていた。
もし、山口多聞少将が真珠湾機動部隊を指揮していたら、ハワイの軍事施設を徹底的に叩いていたであろうし、米空母艦隊を求めて決戦を遂行したであろうと思われます。
すでにこの時点で、米国太平洋艦隊は、戦艦を失っています。
いわば空母はまる裸状態にあったのです。
もし南雲中将が山口の意見を入れ、真珠湾の港湾施設の徹底した破壊後、米空母を追い詰めていたら。
すくなくとも、以後の大東亜戦争の帰趨は、まったく違ったものとなっていたであろうことは、想像に難くないです。
そもそも戦争というものは、平時とは異なるものです。
やるからには下手な情け無用で徹底的にやる。
そうしなければ、結果としてこちらがヒドイ目に遭い、多くの日本人のかけがえのない命が失われてしまうのです。
明治以降の日本の戦史を見ると、そのことをいやというほど思い知らされます。
古来、日本人は平和を愛する民です。
しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪う。
そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。
平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。
残念ながら、これが国際政治において最も求められる姿です。
さて、開戦から半年後の昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きます。
海戦に先立ち、山口は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。
~~~~~~~~~~~
ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。
そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成すげきである。
空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、敵機の襲来に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるべきである。
~~~~~~~~~~~
しかし、山口多聞の提案はうやむやされてしまいます。
しかもアリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となった。
ミッドウエー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しています。
進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。
船は当然、魚雷でなくては沈みません。
しかし、山口は攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。
まず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張します。すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できず、仮に出撃していたとしても、最早帰還できずに、燃料切れとともに海に没するしかなくなる。
しかし、南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。
これが仇になります。初動の対応を遅らせてしまったのです。
敵に先手を許してしまう。
午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、連合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまいます。
七時一〇分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。
「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。
山口は、即座に第一次攻撃隊(艦爆一八機、艦戦六)を発進させる。
このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。
「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。俺も後から行く」
第一次攻撃隊を発進させた山口は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」単独で米空母をめざして走り出します。
そして進撃しながら、艦隊司令部に「各損害空母には駆逐艦一を付け、主力部隊の方向 に向かわしめられたく」と要請した。
この時点で、これは要請とというより命令に等しい。
部下が上官に命令したカタチになっているけれど、この時点では、もはや他に選択肢はなかった。生き残った艦隊は、飛龍のあとを追います。
九時一〇分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を捕捉します。
敵空母からは、猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させた。
一〇時三〇分、山口の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機一〇、 艦戦六を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容する。
生還した機はわずか六機です。
一一時四五分、第二時攻撃隊が敵空母に到達し、魚雷二本命中させます。
山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた。残りは空母一隻と判断したといわれるけれど、実は、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、同じ空母「ヨークタウン」だった。
つまり、米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷だったのです。
一二時二〇分、山口は、司令官、第三次攻撃の実施を薄暮に延期することを決定します。
第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついていたのです。
乗員の疲労も極限に達していた。
午後二時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機一三機が飛来します。
敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきた。
このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦です。
「敵機来襲!」
絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、敵の爆弾を七発まで躱(かわ)した。
しかしそこまでで、力つきます。
見張員が叫び声をあげたのが二時一分、そして二分後には四発の爆弾が、「飛龍」に続けざまに命中した。
最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たり、昇降機をひきちぎって、空高く放り上げます。
舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突する。
艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそいだ。
「飛龍」は、一時的に操艦不能になります。
操舵を失っても、「飛龍」は、走りつづけます。
日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止する。
海面が静かな月光に照らされる。
夕凪の洋上を、「飛龍」が漂い始めます。
浸水がはじまる。
艦が左に傾き始める。
深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、
「残念ながら、飛龍の運命もこれまでと思います。総員退去の許可を求めます」と言った。
山口は、黙って加来とともに、火の手が回っていない飛行甲板の左舷部に降ります。
そこには汗と煤煙に汚れた800名の乗組員がいた。
彼らは二人を取り巻きます。
このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。
~~~~~~~~~
月のせいで、そんなに暗くなかった。
艦は三〇 度くらい傾いていたのではなかったか。
山口司令官の訣別の訓示は、
皆のお陰で、他の三空母(赤城、加賀、蒼 龍)の分もやった。
敵空母二隻と巡洋艦一隻をやつけた・・・と、我々はそのときそう信じていた・・・どうもありがとう。
しかし、飛龍をみて分かるとおり内地に帰還するだけの力ははすでにない。
艦長と自分は、 飛龍とともに沈んで責任をとる。
戦争はこれからだ。
皆生き残って、より強い海軍を作ってもらいたい、と訓示した。
~~~~~~~~~
その場にいあわせた生存者全員は、日本の方向に向き直り、山口長官の音頭で万歳をとなえます。
軍艦旗と将旗 がおろされ、退艦儀式が手順どおりに進みます。
御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶった主計兵曹を先頭にたて、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦する。
駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出す。
山口を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、このとき、「司令官!」と大きな涙声で呼びます。「何か頂く物はございませんか」
山口多聞は、ふり向くと、ニヤリと笑い、
「これでも家族に届けてもらうか」と頭にかぶっていた黒の戦闘帽を脱きます。
伊藤中佐が受け取ると、山口は「それをくれ」と腰に下げていた手ぬぐいを指さします。
空母が沈むとき浮き上がらぬよう 、自分の体をどこかにくくりつけるつもりだったのでしょう。
日付が変わった六日午前二時、白煙を上げながら漂う「飛龍」に、駆逐艦「巻雲」から二本の魚雷が発射されます。
山口多聞、享年49歳。
戦後、ハーマン・ウォークという作家が、「リメンバランス・オブ・ウォー」という本を書いています。
彼はこの本の中で、次のように書いています。
~~~~~~~~~~~
ミッドウェー海戦で米国太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。
そのため、ヨーロッパや、北アフリカでイギリスを助ける力が弱まり、(中略)イギリスは絶体絶命となり、ヒトラーがヨーロッパの勝者になった可能性が高くなったであろう。
~~~~~~~~~~~
ヒットラーの勝利はともかくとして、もし帝国海軍が山口多聞の言を入れ、ミッドウエーにおいて、空爆による敵空母粉砕を実現していたら、おそらく、その後の世界史はまったく別なものになっていたであろうことは、想像に難くない。
山口多聞は、当時もいまもこれからも、世界の海軍史上に名を残す名提督です。
そんな提督がいた帝国海軍を、誇りに思います。
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Battle of Midway 2 ミッドウェー海戦 2

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