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会津若松・鶴ガ城
会津若松城09

井深大(いぶかまさる)といえば、ソニーの創業者として、本田技研の本田宗一郎とともに、世界的に有名な起業家として有名です。
無一文から身を起こして、電気技術で日本を再興するのだと励み、ソニーを世界のソニーに育てあげた。まさに立志伝中の人物です。
井深大は、明治41(1908)年の生まれです。
三歳の時に、父親の井深甫が死去したので、祖父の井深基(もとい)に引き取られて育てられました。
実はこの祖父(井深基)、なんと会津の白虎隊として飯盛山で自刃した石山虎之助の実兄です。
実の兄弟でありながら、石山と、井深と、なぜ苗字が違うのかというと、実は、虎之助は、井深家から石山家に養子に出たからです。
そして井深家からは、井深茂太郎が、同じく白虎隊の一員として、飯盛山で自刃している。
会津の白虎隊(びゃっこたい)というのは、明治維新の際の戊辰戦争で、会津の城の攻防戦を前に組織された、15歳から17歳の男子で構成された部隊です。
慶応4(1868)年のことです。
鳥羽・伏見の戦いによって勃発した戊辰戦争において、会津藩は新政府軍の朝敵となります。
いよいよ敵が会津の国をめがけて進軍してくる、となったとき、会津藩では、玄武隊、朱雀隊、青龍隊などの大人たちの軍団に交じって、予備役として少年たちからなる白虎隊を組織します。
白虎隊は、士中隊、寄合隊、足軽隊で構成され、全部で340名程の少年たちで構成されます。
このうち、士中一番隊は、藩主・松平容保の護衛の任にあたり、士中二番隊が戸ノ口原の前線で敵と白刃を交えます。
そして、潰走し、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びる。
その飯盛山の頂から眺めると、主君のいる会津若松城に、黒煙があがっている。
それを若松城落城と誤認した士中二番隊の20名は、山中で、互いに刺し合い自刃した。
偶然、付近を通りがかった印出(いんで)はつによって、かろうじて息があった飯沼貞吉だけが助けられ、彼は、電信技士として維新後を生き抜き、昭和6(1931)年に79歳で没します。
生涯、白虎隊の最後について口を閉ざして語らなかった飯沼貞吉が、その重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の最期の様子が現在に伝わっています。
飯沼貞吉は、日清戦争のときに、電信技師としてソウルに渡ったそうですが、このとき、危険だからピストルを携帯するようにと言われたのに対し、
「自分は白虎隊として死んだ身だから・・・」と断ったという逸話が残されています。
さて、白虎隊員として自害して果てた、井深基の実兄、石山虎之助ですが、この子についての記録が残っています。
少年ながら性格は温和。
しかし、眉間には凛とした勇壮の精気があり、五・六歳の頃には、百人一首を暗誦するほど、記憶力が良かったそうです。
そして、人の談話を聞くことを好み、幼い頃は祖父母から昔し話を聞きはじめると、ほとんど寝食を忘れるほどでだったそうです。とくに英雄・豪傑の武勇談を好んだといいます。
12歳で藩校である日新館に入るけれど、ここでは文武の技芸俊秀で、たびたび恩賞を受けていたといいます。
つまりいまでいったら、小さい頃は両親や祖父母の膝の上で昔話を聞くのが大好きな少年で、中学では県の統一試験で、常にトップの成績を修め、スポーツ万能の子供だったわけです。
そりゃあ、親にしてみれば、かわいくてしかたがない。
虎之助が13歳のとき、郭内本一之丁に「用屋敷」と称する館があり、夜中にここを通ると、お化けが出るという評判が立った。
ある夜、数名の少年で、ここで肝だめしをやろうということになり、クジびきをしたら、虎之助が当たってしまったのだそうです。
その夜は、空は真っ黒に曇り、天地は墨を流したように真っ暗で、しかも雨がショボショボ降っていた。
ようするに、いかにも化けて出そうな夜だった。
ところが、虎之助は少しも躊躇せず、ひょうひょうと用屋敷に行き、その前を数度往復して、ケロリとして還ってきた。
しかし、そんな恐ろしいところへ、ひとりで飄々と行ってきたといっても、誰も信用しない。
ところが、虎之助は、「まさにそう言われるのではないかと、ちゃんと目印をして来たので、疑うのであれば行って調べてみよ」と言った。
一同、用屋敷まで、おっかなびっくり行ってみると、その門柱に石山家の家紋を刻した小柄が、しっかりと刺してあった。
それでみんなが、虎之助の剛胆さにびっくりしたそうです。
井深家から白虎隊に編入された井深茂太郎は、温厚な性格の子だったそうです。
しかも、なんと10歳で藩校・日新館に入学した。
日新館は、特別優秀な生徒は試験を受けて止善堂に入学することになっていて、十六歳以下でこれに合格した者は、特別優秀とされたのだそうです(当時は飛び級はあたりまえだった)。
ところが、茂太郎は、なんと13歳で止善堂の入学試験に合格し、会津藩内における青年
文士の名を挙げれば、茂太郎は必ずその筆頭に数えられる若者だったのだそうです。
さらにこの頃、会津若松城の南の天神橋袖の地蔵堂に深夜に行くと、お化けが出るという噂を聞いた茂太郎、子供心にどうしてそのようなことが起きるのか不審に思い、ある闇の夜、ひとりでその地蔵堂に行って、じっと物音に耳を澄ませ、様子見にブラブラとそのあたりを徘徊し、あるいは地蔵を罵倒して夜明けに至ったのだけれど、ついに何事も起きなかった。
茂太郎は帰って人々に向かい「世の中に化物などいるものではない。化物は憶病者が自分の心の中で拵(こしら)えるものだ」と堂々と述べたのだといいます。
そうした豪胆さの半面、幼子を連れた老いた爺が、疲れ切った姿で路傍に倒れている姿をみて、茂太郎は自分の懐中にある有銭全部を与えて慰めてあげてもいる。
このとき茂太郎、まだ十五歳でです。
要するにいまで言ったら、小学6年生で、県下第一の超難関校の入試にパスし、心優しく、文武両道に秀で、豪胆でかつやさしさをもった子供だったのです。
そして白虎隊隊士として、自刃したとき、虎之助、茂太郎とも、若干16歳だった。
白虎隊の物語というと、20名の若い少年隊士が自刃して果てた悲しい物語としてしられているけれど、実は、そこで亡くなった子供たちのひとりひとりに、みんな生きた歴史がある。
そして彼らひとりひとりが、どの子も、みんなとびきり優秀で出来の良い武家の息子たちだった。
井深家とは関わりはないけれど、もうひとり、白虎隊の隊士を紹介します。
梁瀬武治(やなせたけじ)です。
梁瀬武治も16歳で飯盛山で自刃しています。
一見、女子かとみまごうばかりの美少年だったそうです。
しかしやはり学力優秀で、飛び級で日新館に入り、なかでも弓術が得意で、11歳で飛ぶ鳥を射落とす力量をみせていたといいます。
また13歳のときには、父と本郷村に向かう途中、小松の渡しというところで、たまたま狭い橋の上で、武治の一行を避けようとした農婦が、誤って川に転落してしまった。
前日までの雨で、河水は増水し、濁流が渦巻いている。
ほっておいたら、婦人は溺死してしまう。
武治は、その様子を見ると、着物を着たまま直ちに濁流に飛び込み、婦人を救い上げ救助したそうです。
この様子を見た者、みな感嘆するばかりだったという。
また、5~6人の友達と下校する途中、偶然、火事に遭遇した。
武治は、これを見るやすぐに友達を指揮して力を合わせて消火にあたり、その甲斐あって大火に至らずに済んだ。
家に帰ると、父母らは武治の毛髪が 焦げ、身体に火傷まで負っているのを見てどうしたのかと尋ねた。武治は決して誇るそぶりもなく、堂々と要点を的確にその一部始終を報告したといいます。
消化行動もさりながら、きちんとした報告ができるその様子に、一同、先、たのもしいばかりと武治を称賛したとか。武治15歳のときの出来事です。
武治が白虎隊隊士として、戦に出るとき、父は伝家の刀一振りを武治と勝三郎兄弟に授けて、こう言ったそうです。
「このたびの戦(いくさ)は、敵は数が多く、我は少数でしかない。
もとより、勝ちを得ることは難しい戦いです。
ただ、死ぬことをもって、藩に殉じると思いなさい。
会津の藩主が、誠忠で、すこしも私曲のない人のは、天地神明も照覧しています。
ですから、おまえたちも、すこしも未練のを残して、後世に笑われるような振舞があってはなりません」
兄弟は感激し、嗚咽拝謝して父のもとを訣(わか)れたそうです。
そして、各々、父の訓諭に違わず、天晴れ忠孝の大義を全うした。
父にしてみれば、とびきり出来が良くて誇らしい息子たちです。
その息子たちに、刀ひと振りを授けて「死んでこい」と諭すつらさ。
想像だにあまりあります。
こういう感情は、子を持つ親、孫を持つ祖父になってみればよくわかる。
ボクなどは、どこからみても出来が悪くて人相のよくない息子(孫)だったから、それこそ、いっぺん死んでこ~~い!くらいのことを言われてよくしかられたものだけれど、
いま、自分の子や、孫(こいつらが、とびきり出来がよい)に対して、果たして涙を見せずに、堂々と、刀ひと振りを渡して、笑われるな。立派に死んでこい、と言えるだろうか。
ちなみに、ウチの家紋は、この梁瀬家と同じ家紋です。
歴史の中に登場する様々な事件。
とくに戦記などでは、死者何万人などと、数で書かれることが多いです。
けれど、大切なことは、そこでお亡くなりになった、おひとりおひとり全員に、笑顔があり、人生があり、たいせつな人がいた。
みんな、誰もが、全員が、ひとりひとりが、生きた人間であったということです。
だからボクは、歴史に対する評価や評論をしようとは思わない。
そうではなくて、その歴史から、歴史に生きたおひとりお一人から、後世に生きる者として、これからの未来のために何かを学ばせていただく。
そういう姿勢がいちばん大切なのではないかと思っています。
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