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山下太郎
山下太郎

神戸市の湊川神社といえば、南北朝時代に宮方の楠木正成(くすのきまさしげ)の遺徳を讃える神社として有名です。
地元の人々が大切に保存してきた楠木正成の塚(お墓)のある場所に、江戸時代、尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)公によって松と梅が植えられ、五輪の石塔も建てられました。
そして元禄5(1692)年に、水戸光圀(水戸黄門)が大楠公のご墓所を建立されました。
境内東南隅にある「嗚呼忠臣楠子之墓」がそれです。
この墓所に、実はもうひとつの石碑が立っています。
そこには、
 昭和十年楠公六百年祭奉賛
 楠公後裔楠正具正脈
 秋田県大森町 山下太郎
と刻まれています。
大楠公の正当な末裔の秋田県の山下太郎という人物が奉納された石碑ということです。
実は、この山下太郎氏、私たちが薬を飲むときに使うオブラートを発明した人であり、日本人としてはじめて中東での石油採掘権を獲得し、日本の石油を守った人でもあります。
この人の人生が、すさまじい。まさに七転八起です。
山下太郎は、明治22(1889)年、秋田県平鹿郡大森町(現横手市)の近藤家の長男として生まれまれ、その後、祖父山下太惣吉の養子となっています。
出身大学は、札幌農学校(現北海道大学)農芸学科ですが、山下は卒業後も就職せず、北海道産の飴(あめ)や、バターの改良に熱中します。
やがて従兄の山下九助と共同で、オブラートを発明しました。
大正3(1914)年、25歳でオブラートの特許を取得し、山元オブラート株式会社を設立します。
オブラートは、ときの好景気の中で、すぐに森永キャラメルに採用され、事業は、あっという間に発展してゆきます。
おそらくこれだけで普通なら一生安泰となるところを、山下は、海外貿易がしたくなったからと、その資金のために会社を五千円で売却してしまいます。
そして27歳で結婚した山下は、東京・深川に「山下商店」を設立し、いよいよ国際貿易に打って出ようとします。
創業の翌年、山下は、ロシア革命の勃発で、ウラジオストックの水産会社が大量の鮭の缶詰を船積みできなくなっているという情報を入手します。
山下は、さっそくときの外務大臣後藤新平と、秘書官だった松岡洋右(ようすけ)を動かしてこれを買付け、日本に輸入し、巨利を得ます。
つぎに山下は、第一次世界大戦勃発によって、ドイツから輸入できなくなった硫酸アンモニウムを、アメリカから輸入することに成功。硫酸アンモニウムは農薬の柱です。
この取引も、大成功をおさめ、山下は巨万の富を築きます。
ところが・・・・。
大正7(1918)年、29歳になった山下は、日本国内で米価が暴騰したため、上海で安い江蘇米を買い、日本に輸入しようとします。
成功すれば大儲けできる。
ところが、この輸入を上海の総領事が許可しない。
密輸の疑いが出たのです。
結果、買い付けた米は、日本に持ち込めず、大損してしまいます。
大正9年には、満鉄の消費組合から五万石の購入契約を結んだのだけれど、満鉄側から一方的に契約を破棄されてしまう。
さらに、トン当たり1,075円で買い付けた鉄材が暴落して75円になった。
連帯保証をしていた山下は、結局、破算してしまいます。
普通なら、これで人生オシマイか、ホームレスにでもなるところなのだけれど、山下はあきらめません。
満鉄に、新しい人事体制が敷かれ、古くから知遇を得ていた松岡洋右、長野護(まもる)らが着任すると、山下はさかんに彼らに接触します。
松岡や長野にしても、なるほど山下は破算した男ではあるけれど、こいつは見どころのある男だ。かならず、なにごとかをなす男だ、と思っている。
要するに、経済ではなるほど山下は破綻したけれど、男として、あるいは人として、コイツは信頼に足る男だ、と思わせるものが、山下にはあった。
大正13(1924)年、山下は、満鉄から2万戸の満鉄の社宅建設と管理の包括受注を得ます。
これによって、山下の事業網は日本国内はもとより満州、中国、朝鮮まで拡大する。
そしてついに山下は、「満洲太郎」と異名をとる東亜の大実業家に返り咲きます。
ところが・・・昭和20(1945)年、終戦。
日本は、満洲、China、朝鮮を手放し、山下の資産もすべて没収となってしまう。
山下は、ふたたび無一文になります。
GHQによって占領統治下に置かれた日本は、昭和26(1951)年のサンフランシスコ講和会議を締結します。
戦後、「占領統治下日本」となった日本は、GHQ解散後も、国家の資源エネルギーの基礎となる石油については、100%アメリカからの輸入に頼っていました。
石油の価格は、1バレル、3ドルに固定です。競争もない。
完全なアメリカの下僕です。
なるほどそれは、当面は安定して石油が手に入るかもしれないけれど、産業の要を、完全にアメリカに依存することを意味します。
なんとかして日本独自の石油を手当てしなければならない。
山下は、要路の人達をまわり、日本経済発展の元になる石油を、日本が自前で確保するよう説いて回ります。
ところが山下本人には、石油に関する知識もノウハウもありません。
あるのは、ただ、産業の根幹をなす石油を100%他国に依存しているという状況は、危険すぎる。
彼にあるのは、「この国のために、なんとしても自前の油田での採掘をしていかなければならない」という危機意識と情熱だけです。
しかし対米追従だけに汲々とする財界や官界は、まるで動きません。一文無しの山下の話などに耳を貸さない。
あげく「山下は、山師(やまし)た」とまで揶揄された。
そんな折、エジプトと英国が、スエズ運河の国有化問題をめぐって対立を深めます。
さらにイスラエル問題によって、中東諸国と欧米の関係が険悪なものになる。
山下は、これを好機到来、と読みます。
それまで油田の権益を欧米系のメジャーにしか与えてなかった中東諸国が、欧米以外に油田の権益を与える方向に傾いたのです。
日本にとって、戦後最大のチャンスが訪れている。
日本が独自に中東からの石油を採掘するのは、いましかない。
山下は「財界総理」といわれた経団連の石坂泰三会長を訪れます。
そして石油開発の重要性を切々と訴えた。
「で、そのために、資金はいくら必要なのかね?」と聞く石坂に、山下は、
「はい、百億円の保証です」と答えます。
当時のお金で百億といったら、いまの経済感覚にしたら、おおむね十兆円くらいと思っていただいたらよいかもしれない。
石坂は表情を変えて
「百億円?そんな金額は俺にはないよ。まぁ夢物語には協力するが・・・」
この答えに、山下はすかさず、
「百億円の保証、ありがとうございます!」と頭を下げた。
気合です。
石坂は笑うしかなかったそうです。
山下は、石坂泰三の返事をもって、当時の内閣総理大臣石橋湛山、 外務大臣の岸信介らを訪ねます。
そして、サイジアラビア政府宛ての紹介状を書いてくれと頼み込みます。
うまくいくかどうかなんて、わかりません。
しかし、国がサウジまでの旅費を出すわけでもないし、紹介状一枚で、もしうまくいけば、日本は独自の油田採掘の権利を確保できるのです。
石橋湛山も、岸信介も、山下を「この男なら」と見込んで、紹介状を書いてくれます。
総理と外務大臣の紹介状を手にした山下は、昭和32(1957)年2月、サウジアラビア政府を訪問します。
そして両者は、「正式な利権交渉を6カ月以内に開始する」との合意書にサインした。大成功です。
サウード国王に謁見する山下太郎
サウード国王に謁見する山下太郎

帰国した山下は、政財界を説いて回り、全面的な資金援助を取りつけます。
そして昭和32(1957)年7月、アラビア石油株式会社の発起人総会を開催し、その足で、再びサウジアラビアに飛びます。
サウジでの交渉相手(パートナー)は、地質学者でもあるアブドラ・タリキ財政経済省石油鉱物資源局長(後の石油大臣)です。
交渉は難航します。
この当時、サウジの石油利権を求めていたのは日本だけではないのです。欧米の、実績ある大手石油会社が、こぞって利権獲得に乗り出していたのです。
普通の交渉では、実績のない日本に目はない。
さりとて、露骨な利益誘導やワイロを送ったところで、実績豊富な西欧の資金力に、勝てるわけもない。
どうするか。。。。
山下は、細かな交渉の内容や、巨額の利益誘導やワイロではなく、相手との個人的信頼関係こそが、すべての鍵であると考えます。
ひとつひとつはつまらないことです。
約束を守る。時間に遅れない。悪口を言わない。
そして彼は、パートナーの誕生日に、デトロイト(米国ミシンガン州)から十数台の特別仕様のキャデラックを購入してプレゼントします。
十数台というのは、実は、パートナーの王族の彼女の数だったのです。
山下は、彼女の数を正確に把握していたのです。
これに、パートナーが大笑いします。
「ミスター、ヤマシタは、実におもしろい奴だ」
金額からしたら、キャデラック十数台など、他国のワイロに比べたらタカがしれてます。
しかし、堂々と、かつ、あっけらかんとそういうことをする山下という男に、パートナーは、ぞっこん惚れ込みます。
二カ月におよぶ長い交渉の結果、 サウジ政府は山下太郎氏との契約の大綱を10月に承認し、12月10日、双方は石油利権協定に正式に調印しました。
翌年2月、アラビア石油株式会社設立。
会長に経団連会頭の石坂泰三氏、山下は社長に就任します。
そしてさらに山下は、クウェート政府との利権交渉に着手し、紆余曲折の末、同年7月にクウェイト政府と利権協定を締結します。
日本初の、海外における石油開発事業の始まりです。
このあとアラビア石油は昭和35(1960)年1月31日に採油に漕ぎ付け、この後、「日の丸油田」と呼ばれる日本の油田をサウジや、クエートで掘削します。
「日の丸油田」の埋蔵量は莫大で、世界でも有数の一級油田です。
山下太郎は、昭和42(1967)年、心筋梗塞のため78歳で亡くなりました。
「日の丸油田」は、山下の死後も、安定した石油を日本に送り続けます。
しかし、契約から40年経った2000年2月にサウジ、2003年1月にクエートで、アラビア石油、つまり日本は、日の丸油田の採掘権を、契約期間満了で失います。
石油はまだまだ大量の埋蔵量が残っているのに、です。
実は、山下亡きあと、アラビア石油には、次々と、官僚や銀行出身の役員が乗り込み、代表に就任しました。
彼らは、なるほどパートナーの王族の誕生日に、300万円程度の壺を持参するなどはしています。
しかし、そういう形式では、相手には何の感動も与えないのです。
まして、お金や財産ならあふれるほど持っているアラブの王族です。
値段が高ければ、それで満足するというものではない。
話は飛びますが、日本では、スチュワーデスといえば、女性の花形職業です。収入も高い。
欧米でも、もちろん空の勤務のスチュワーデスは、高級です。
ところが、貴族の娘さんの職業として、尊敬されるのは、看護婦や介護の女性です。
収入からいったら、看護婦や介護の女性よりスチュワーデスの方が、ぜんぜんいいです。
そのことは日本も西洋も変わりません。
しかし、たとえば英国人の貴族(サー)の娘さんなら、家に領地はふんだんにあり、財産もたっぷりあるから、給料をもらおうがもらうまいが、生活にはなんの支障もない。
だから、目先の給料がいいとかわるいということよりも、「人として尊敬できる仕事である」ことのほうに、給料以上の価値を見出しているのです。
同様に、数千円の荒巻鮭一本と、100g100円のシラスと、どっちが価値があるか。
一匹で数千円のモノ方が、価値があると考えるのが、いまどきの日本人です。
しかし、もともとの日本人の感覚は、まったく違っていた。
一匹数千円の方は、一匹の命です。
100g100円のシラスのほうは、何百匹の命です。
自分の栄養のために、それだけの命をいただく。
だから、それはとてもありがたいことなのだと、教わった。
要するに「日の丸油田」が消滅したのは、山下亡きあと、アラブの王族と、日本側代表者に人間としての、心の信頼関係を作ることができなかった、ということです。
300万円の壺が、3000万円の壺であろうが、3億円の壺であろうが、30億円の壺であろうが、それは同じことなのです。
そういうことではなく、人と人との信頼関係。裸一貫の男としての魅力、そういうものの付き合いというものが、実は、世界を動かしている大きなファクターである、ということです。
もちろん世界は、条約や契約が、重要な役割を果たしています。
しかし、それだけではない。
人と人との信頼、カタチでなく、心の結びつきが、やはり大事な要素となっている、そういうことを忘れてはならないのだと思います。
昨今の日本では、契約にこう書いてあるとか、マニュアルにこのように書かれているとか、ことさらそうしたルールやカタチばかりが重要視される傾向があるようです。
規則や決まりも、もちろん大事だけれど、それ以上に、人と人との心のつながりというか、信頼関係、そしてそういうもののために、命をかけて血のにじむような努力をしてきた先輩たちの努力があって、いまの日本がある。
そういうことを、わたしたちは、決して忘れてはならないだと思います。
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【参考】
サウジアラビア大使館のHP

http://www.saudiembassy.or.jp/50years/4.htm

中国_日本の油田掘り放題!

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