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今日、8月13日は、1937年(昭和12年)に、「第二次上海事変」が勃発した日です。
今回は、この事件について振り返ってみたいと思います。
かなり過激な内容を含むことになります。
【時系列】
7月 7日、盧溝橋事件 現在この日は人民解放軍の抗日戦争記念日に指定
7月13日、大紅門事件 China兵が北平(北京)大紅門で移動中の日本軍トラック2台に、突然手榴弾を投げ込んで日本兵4人を死亡させた事件。
7月14日、China兵が日本の騎馬兵を惨殺
7月16日、事件を収拾させようとする宋哲元に対して、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電。
7月19日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
7月25日 廊坊事件、日本軍が国民党から一方的に攻撃を受ける。
7月26日、広安門事件、日本軍が国民党から一方的に攻撃を受ける
7月29日、通州事件 日本人居留民約260名が人類史上最悪といえる残虐さで虐殺される
8月 9日、大山中尉惨殺事件
8月13日、第二次上海事変勃発
8月14日、China軍が上海市街のキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃。
Chinaはこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝。
8月15日、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成
8月23日、国民党軍が上海のデパートを爆撃。日本軍の仕業と世界中に宣伝
最近「日中戦争」という言葉をよく聞きます。
これは、言葉の使い方自体が間違っています。
正しくは「China事変」です。
「日中戦争」という用語は、通称または俗称だから、別にいいじゃん、などと軽く考えるのは大きな間違いです。
そもそもそういう用語はもとからないし、戦争と事変では、国際法上の立ち位置がぜんぜん異なります。
名称についていえば、
昭和12(1937)年7月11日、ときの近衞内閣が「北支事変」と命名。
同年9月2日、閣議で北支事変を「China事変」と改名しています。
どちらも、「事変」という用語が使われています。
この件について、反日色の濃い教科書などでは「軍部が勝手に暴走して戦争を引き起こし、大義名分がなかったから戦争ではなく事変だとごまかしたのだ」などと、くだならい言いがかりをつけていますが、そうではありません。
軍事行動については、ときの内閣に第四委員会を設置して、戦闘の利害を研究し、政府の決定で大本営まで設置して事実上の全面的な戦闘に踏み切っているのです。
ときの内閣は、これを「戦争」として宣戦布告をするか、それとも「事件」とするか、十二分に検討したうえで、事件解決のために限定的な戦闘に踏み切っています。
これを軍部だけの単独暴走だの、「戦争」だのというのは、あきらかな侮日工作です。
そもそもこのChina事変勃発の前年には、蒋介石はドイツ政府にと交渉し、高射砲、魚雷、機雷、銃器弾薬等、国民党軍の洋式完全武装のための装備を取りそろえています。
そして翌年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が起こり、これが11日に停戦すると、近衛内閣は戦闘の不拡大のための華北派兵を決断している。
派兵は当然です。現地の治安を確保しなきゃならない。
いまだって国内で暴動が起きれば、そこに警官隊や機動隊を派遣する。あたりまえのことです。
ただし、当時の近衛内閣が華北に移動を命じた兵力は、すでにChinaに駐屯していた兵力の移動だけです。内地にいる師団の派兵まではしていない。
そもそも、当時の日本にChinaへの領土的野心はまったくありません。
もし領土的野心があるのなら、現地に汪兆銘政権など認める必要はなく、日本はさっさとChinaを征服し、支配下に置いていればよかったのです。
むしろ日本にそれだけの覇気と野心があったのなら、日本は徹底的に蒋介石軍や八路軍を追い込んでいたろうし、占領地の医療・教育・農業振興・殖産興業を、日本人的几帳面さでしっかりと行ったであろうし、そう考えると、内乱で疲弊した多くのChineseたちにとっては、その方がよっぽど幸せだったとすらいえます。
*
「事にあたって心を動かすな」という誰かの言葉がありましたが、戦闘になったのならなったで、断固とした対応を採らなければ、かえって被害が膨らんでしまいます。
China事変では、なまじ日本が「事変」などと曖昧なで中途半端な対応をしたばかりに、親日派のChinese指導者たちさえも、日本の覚悟と決意に疑念を抱く結果を招いたし、戦争でなく「事件対処」のための「限定的軍事行動」という立場を貫いたばかりに、日本軍の作戦行動に制約が生まれ、徹底的な掃討作戦もできなかった。
実際、こうした日本の曖昧な対応を見て、盧溝橋事件の翌々日には、北京で日本軍のトラックがChina国民党兵に爆破され、なんの罪もない日本兵4人が犠牲になったし、
これで調子づいた蒋介石は、17日には、廬山で演説し「日本の出方次第では、徹底抗戦する!」などといきまいています。
ここでいう「日本の出方次第では」というのは、非常に政治的な言い回しです。
蒋介石は、日本が「戦争による解決はしない」と宣言したことを受けて、「徹底抗戦する」と言っているのです。
これは、対日本向けには、日本が攻めてくるなら徹底的に戦うぞ、というメッセージになりますが、
対国民党兵士向けには、
「日本軍は、たいした兵力を出してこないとわかったから、徹底的にやっつけようぜ!」という意味です。
日本は、この間もなんとかして和平の道を探ろうと、国民党側代表と再三にわたって停戦調停を設けるのだけれど、19日になると、盧溝橋の国民党が、日本軍に対して一斉射撃をしてきます。
ぜんぜん和平するそぶりがない。
要するに、近衛内閣の、いっけんやさしさと慈愛にあふれた戦闘不拡大方針と戦力の不投入宣言が、日本軍甘し!というメッセージとなり、かえって戦乱を泥沼化させた。
戦争というものは、いわば国家の威信をかけた最後の手段といえます。
やるかやられるか、なのです。
そこには人の命がかかっている。
絶対的に有利な武器を持っていたら戦争にも戦闘にもならない。そのことは核を保有した米ソの冷戦が、その後の歴史の真実で証明しています。
要するに、舐められたらヒドイ目に遭うのです。
7月25日には、郎坊駅で国民党軍が、少数の日本兵を襲撃します。
7月26日には、国民党軍の依頼を受けて広安門居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されるという広安門事件が起きています。
この事件などひどいもので、China側の市当局とちゃんと交渉して、居留民保護のために日本兵が26台のトラックに分乗して、現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て、門を開けてもらい、トラックを中に進ませた。
すると、半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされた。
城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。
城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結している。
つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された状態で集結している・・・そういう情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。
この事件で、日本側は、兵士15名が死亡。他に民間人の通訳、新聞記者など4名の、合計19名の命が失われています。
さらに3日後の7月29日には、通州事件が起こっています。
この事件は、China軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を突然襲い、約230名を虐殺。された。これにより通州特務機関は全滅。女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害され、腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供、両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断されている子供など、殺され方が極めて残虐なものです。
なお、このとき世界の報道で使われた事件写真が、アイリス・チャンの南京大虐殺時の日本軍の残虐行為の証拠写真として日本を貶める工作に使われています。空いた口がふさがりません。
*
このあたりまで戦闘は北支(北京近郊)での限定的なものでした。
一方国民党軍は、ドイツから豊富な兵器の提供を受けたのを奇貨として、前年の11月ごろから、張治中を軍長とする第4路軍が、続々と集結を開始します。
上海は、この時点では本来、非武装地帯だったのです。
なぜなら、昭和7(1932)年の多国間上海事変停戦協定があったからです。
その上海に蒋介石は、当時としては世界最高水準の軍装を持つ国民党軍の最精鋭部隊、88師と87師を基幹とする第4路軍を指揮する張治中を派遣し、上海の要塞化と軍隊配置を行います。
繰り返しますが、China事変において、日支両国は宣戦布告をしていません。
つまり国際法上は「平時」であり、戦争関係ではありません。
そういう中で、国際条約によって定められた非武装地帯に兵力を進め、要塞化まで図ると言うことは、これは明らかに国民党の国際法違反です。
もちろん蒋介石にしてみれば、外国との交渉の結果とはいえ、「俺の国に勝手に非武装地帯なんか作りやがって!」という屈辱感があったことは事実でしょう。
しかし、条約は条約のはずです。
蒋介石率いる張治中の上海軍は、この非武装地帯に、なんと二万個以上のトーチカを作ります。
これ自体、明らかな国際法違反です。
ちなみに、中華民国国防部の「抗戦簡史」によると、以下の記述があります。
~~~~~~~~~~~
当局は、張治中にひそかに命じて南京、上海方面の抗戦工事を準備させ、優勢な兵力をもって敵の不意に出て、上海の敵全部を殲滅してこれを占領し、爾後、敵の増援を不可能にしようと企図した。
(そして)民衆の組織訓練を実施した。
~~~~~~~~~~~
要するに、国民党は「停戦協定違反」を認めているのです。
ところが日本はのんきなものです。
政府も参謀本部も、出兵は北支(北京近郊)にとどめ、上海には戦線を拡大しないよう指令を出している。
日本が、主力戦闘団を出さないなら、China側にしてみれば、気楽なものです。
昭和7(1932)年8月9日、上海国民党司令の張治中は、
「徹底的長期抗戦をもって日本軍を殲滅すべく、今や最良の好機である。日本の作戦持久は6ヶ月を越えない」と管区将兵に訓示しています。
そしてこの日、斉藤与蔵一等水兵の運転する車で上海市内を走行していた海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が、理由なく多数のChina兵にいきなり機関銃の乱射を受け、両名とも死亡します。(大山事件)。
さらに一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺されます。日本側が先に発砲したように見せかけるための張治中の工作です。
同じChineseどうしのヤラセはともかく、世界中どこの国でも、一緒に戦う仲間が敵に殺されたら黙って捨て置けないのが軍人です。
「みんなはひとりのために。」たった一人でも仲間の命を奪う奴がいたら、徹底的に戦う。それが軍人精神です。
しかし、上海での戦闘を避けたい日本は、第三艦隊司令長官谷川清中将に命じ、国民党に対して、日本は、二名の兵士の死亡について責任追及をしない。その代わりに、あなたたちは国際法で定められた上海の停戦協定区域内から出てもらえないか、と交渉します。
仲間が殺されたのです。
いくら上層部の命令とはいえ、このときの谷川中将以下、第三艦隊の面々のくやしい思いはいかばかりだったでしょう。
しかし、彼らは軍人です。軍は国家の命令を受けてはじめて動く。
彼らは、仲間を不条理に失った辛い思いを抑え、粛々と戦闘の拡大を招かないよう、交渉を行います。
*
ところが事件の翌日(8月11日)になると、China側は谷川司令長官の要求を拒否するどころか、公然と軍隊を上海に増強させ、租界地周辺にまで堂々と布陣してしまいます。
この時点でChina側の兵力は約5万です。
しかも国民党の最精鋭部隊です。ドイツ製の武器で完全武装し、十分な訓練も積み、軍を率いる参謀部は、ドイツ軍事顧問団です。
対する日本の第三艦隊陸戦隊はわずか4千。
これだけの兵力差があって「徹底長期抗戦」だの「日本の作戦持久は6カ月を超えない」だの、いい加減にしろと言いたくなりますが、絶対的に優勢とみるや、とたんに強気になるのは、卑怯者の常です。
8月13日午前10時半、上海商務館付近の国民党軍は、突然、日本軍陣地に対して機関銃射撃を開始します。
やむなく海軍陸戦隊は応戦します。どう考えてもこれは正当防衛です。
5万対4千の兵力差に加え、機関銃等、圧倒的に有利な火力を持った敵が先に発砲してきたのです。
しかも日本側は、完全防衛戦術に徹しています。
敵が撃たなければ撃たない。
戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定して戦う。
しかも戦いの途中で、China軍の爆撃機が低空を飛行したけれど、陸戦隊は対空砲火をしていません。
近くには列強の公使館が立ち並ぶ租界地があります。
日本は、戦線の拡大を阻止し、なんとかして列強各国の調停の申し出を期待しのです。
*
ところが、日本軍の反撃が限定的なものとして甘くみたChina軍は、午後4時54分には、市内各所の橋を爆破(これにより日本軍には戦車などの援軍が来れなくなる)し、戦闘中の日本海軍陸戦隊を孤立させ、包囲したうえで、猛烈な砲撃を開始します。
このままでは、さすがに日本側が全滅してしまいます。
やむなく午後5時、大川内上海特別陸戦隊司令官は、全軍の戦闘配置を命令します。
*
つまり日本は、China側が非武装地帯に兵力を展開し、トーチカを作り、市中走行中の日本の尉官を理由なく殺害され、あたかも日本が先に攻撃したかのようにChineseが同国人を殺害し、和平韓国を無視して戦闘が開始されても、最小限の応戦だけにとどめ、周囲を完全包囲されてもまだ我慢し、半日の攻防の末、敵が完全にせん滅戦を挑んできてはじめて、ここで「全軍戦闘配置」を命じている。
これでもまだ日本の軍部の暴走だの、侵略行為だのという人がいるのなら、もはやその人は頭がどうかしているとしか言いようがないです。
なかには日本が軍を出しているからこうなるのだ、などとわかったようなことを言う人がいるかもしれないです。
当時のChinaは、いまで言ったらソマリアみたいなもので、いわば無政府状態です。
各国の公使館は、どの国も軍隊を進駐させていたし、そもそも日本の派兵はいまでいったら国連平和維持活動の部隊みたいなもので、China国内の民間人を護るために駐屯していた。
それも戦争を防ぐために、最小限の派兵しかしていなかった。
だから通州事件など、日本人に多数の犠牲者が出る悲惨な事件が起こっているのです。
日本軍の駐屯地は、いずれもChina各地に設けられていた共同租界の中です。
条約によって、各国の公使や民間人、軍隊がそこに駐屯していた。
しかも兵力は最低限です。とてもじゃないが、侵略などできるような規模のものではない。
後楽園ホールに満員の観客の警備のために、数名の警察官が派遣されているようなものです。
もうひとつ。
ソマリアの話が出たので追加すると、ソマリアの海賊退治のために各国が軍を出しているけれど、そもそもどうしてソマリア沖に海賊が出現するようになったのかというと、ソマリア沖でChineseたちが魚の乱獲をした。
おかげで、ソマリア人の漁師たちが飯が食えなくなり、やむなく彼らが自衛のために武装を始めた。それが発展し、海賊となっています。
それにしても、第二次上海事変における初期の海軍陸戦隊の動きは、客観的に見て、見事というほかないです。
誰だって撃たれるのは怖い。まして敵は10倍以上の兵力です。
それでも、あくまでも防衛戦であるという一点を守りぬき、撃たれたら撃ち返すというだけの戦法で、よく敵をしのいだものだと思います。
*
同じ日、さすがの情況を見かねた英米仏三か国の上海領事は、日支双方に上海市内での敵対行動を回避するための直接交渉を勧めます。
そして、具体的解決案として、次の3つを提言します。
1 China軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
2 日本軍は国際租界から撤退する。
3 China軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
この解決案は、日本国政府にこの日の深夜には情報がもたらされます。
現地からは、五個師団の派遣の要請があったけれど、日本政府は戦線の拡大を極力抑えるために、一個師団の増援を決定する。
*
三か国の停戦勧奨、日本の戦線不拡大方針の一方で、圧倒的戦力に自信を深めたChina軍は、翌8月14日午前9時15分、China軍の飛行機が日本軍上海上陸本部に銃撃を加えます。
また10時55分には、別な航空部隊が、日本の第三艦隊に飛来して爆弾を投下します。
そして午後4時頃、Chinaの飛行隊は、4機で上海の外国人租界地の中心部を爆撃します。
飛行上から250キロ弾を投下し、これが租界地4カ所で炸裂、市民2000人以上が亡くなっている。
この空爆では、有名なライシャワー国務長官の兄も死亡しています。
どうでもいいことですが、国民党は、この非戦闘員である一般市民2千人を外国人租界で殺害したことを大戦果として、いまでも8月14日を誇るべき「空軍節」としています。
*
8月15日、日本政府は、China軍の暴挙を食い止め、蒋介石国民党に反省を促すために出兵をする、との、国際声明を発表します。
ただし、日本は依然、不拡大方針で、事変の早期解決に努力すべきであるとしています。
ちなみに、租界地というのは、いまでいったら外国の大使館と同じで、そこは土地はChinaの中にあっても、外国です。
Chinaによる空爆は、上海租界地内の日本の横浜正金銀行上海支店ビルなどを破壊したけれど、それは要するに日本本土が空爆されたのと同じ意味を持ちます。
蒋介石が同じ日に、全国総動員令を下し、国民党大本営を設置するとともに、自ら陸海軍総司令に就任し、純然たる全面戦争体制をとります。
同日、毛沢東は紅軍の名称を「国民革命軍第八路軍(八路軍と呼称)」と改称します。
Chinaは、軍閥の国民党と、毛沢東率いる共産党の2つが呼応して、抗日十大綱領を掲げた。
いよいよ国共合作の実をあげて、Chinese民総決起、完全に日本との戦争態勢を整えます。
なんの罪もない一般市民を、突然の空爆で殺害し、それを祝して全面戦争体制を取るChina。
戦線不拡大方針を貫き、和平を探ろうとする日本。
やむなく日本は、陸軍上海派遣軍を編制し、松井石根大将が司令官に就任します。後に南京大虐殺を指揮したとされる松井司令官です。
また海軍は、九州からの渡洋爆撃をこの日から開始します。目標は敵航空基地です。
これは短期間で、効果をあげます。
つまり、航空機を輸入に頼る国民党軍は、いまある手持ちの飛行機を空爆され、爆破されたら、もうあとがない。日本はあっという間に、上海周辺の制空権を掌握してしまいます。
8月18日、英政府は、日支両国に対して、「両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告します。
米仏政府も、これを支持します。他の諸国は中立を表明します。
ところが、この時点で制空権は失ったものの、いまだ大軍が健在な国民党は、この勧告を完全無視します。
現場は戦いの最中です。銃弾が飛び交っている。
その中で、日本だけが、武装を解いて、戦闘を中止し、撤退することなどできません。
なぜなら、そんなことをしたら、その時点で日本軍は全滅してしまうからです。敵弾が飛んできているのです。
*
8月22日、松井石根大将率いる上海派遣軍三個師団が、上海北部沿岸に上陸します。
そこから上海租界地まで到達するためには、あらかじめChina軍が構築した頑強な二万個のトーチカ群を突破しなければなりません。
しかも、China軍の兵員は、中央軍の精鋭14~15師です。
ドイツ参謀部が詳細に検討し構築した、網の目状のクリーク地帯。堅固な火点。
さらにChina軍は、追加兵力を次々と投入してくる。
その中で、およそ一ヶ月、松井石根大将率いる上海派遣軍は、果敢に戦うけれど、死者2,528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被ります。
やむなく9月11日には、日本は第9、第13、第101師団、野戦重砲兵1個旅団の追加派遣を決定します。
しかし、敵兵力は、この時点で60万です。
戦況は一向に進展しない。
さらに各部隊に、コレラが発生。
砲兵弾薬も不足します。
やむなく日本は、10月20日に、新たに第10軍を編成し、第6、第18、第114師団に加えて、野戦重砲兵第6旅団、および第四艦隊を派遣。
増援を得た上海派遣軍は、一気にChina軍を攻撃します。
そして11月9日までに、China国民党60万の兵力は、20万人以上の死傷者を出してほぼ壊滅します。
そして11日までに国民党兵士たちは、上海から退却してしまいます。
ところがこの退却に際して、ひと悶着が起こります。
China国民党軍は、退却の際に、上海市内で徹底した掠奪と破壊をしているのです。
China軍は、撤退する際には、掠奪や強盗・強姦を行うのが常態です。
あるフランス将兵によると、彼はChinaの住民側も掠奪されるばかりではなく、数で勝る住民側が国民党兵士たちを袋叩きにして殺害する光景を何回も見たといいます。
また、Chinaの敗残兵によって、上海のフランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵や便衣兵らと、フランス人の警官隊が銃撃戦を行ったという記録もあります。
*
国民党兵士たちが去った後、上海の英字新聞には、次のような記事が載りました。
「国民党軍の撤退によって、
上海に居住する
数百万の非戦闘員(市民)の
危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に
感謝すべきである」
*
以上が第二次上海事変と呼ばれる昭和12(1937)年8月~11月にあったできごとの概略です。
そもそもどうして国民党が反日になったのかというと、これがおカネの問題です。
すでに清朝政府が崩壊していた時代です。
一時は孫文を中心に、中華民国が形成されようとしますが、孫文は「孫大砲」というあだ名があったくらいで、言うことは立派。
だけど、一般のチャイニーズたちにしていれば、立派な言葉の大砲よりも、眼の前の暴力のほうが、はるかに恐ろしいものであったのです。
結果、武力を持たない孫文政権は崩壊。
武力をもつ袁世凱将軍にすべてを委ねることになり、袁世凱は初代「中華帝国」皇帝を名乗ります。
ところがこの時点ですでに高齢となっていた袁世凱は、その後まもなく死亡。
結局、中華帝国は崩壊してしまうのです。
一方、孫文が中華民国の成立を高らかに宣言したとき、一緒に仲良くその場で熱く燃えていたのが、蒋介石と毛沢東です。
この二人は、もともとアヘン利権で巨万の富を手にしていましたが、チャイナ全土に外国の軍勢が上陸している中、日本軍が担当していた地域からは、アヘンビジネスを行う者たちは、次々と排除されていきました。
これに危機感を持った二人は、蒋介石は欧米の自由主義陣営に、毛沢東は共産主義のソ連にそれぞれ近づき、それら諸国の経済的軍事的支援を得て、軍閥を組織していきました。
このとき蒋介石は、共産主義が蔓延することに警戒している欧米諸国に、自分たちがチャイナ内の共産主義者たちを撲滅させるということで、資金や武器の提供を受けていました。
そして蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党が激しく対立。
この戦いは、終始、国民党側の優勢となり、毛沢東はチャイナ国内を逃げ回ることになります。
このチャイナ各地を転々として逃げ回っていたときのことを、現代チャイナ用語では「毛沢東の長征」と呼んでいます。
ちなみにこの長征で、チベットの存在を知った毛沢東は、政権を取ったときに、平和なチベットに人民解放軍を向かわせて、人口600万のチベット人のうち、450万人を殺戮したと伝えられています。
こうして国民党と共産党軍の戦いは、国民党側の一方的勝利となり、1936年(昭和11年)12月12日に西安事件が起こります。
この事件では、一般に、張学良と楊虎城が蒋介石を監禁した事件とされていますが、筆者は事実は異なると見ています。
そうではなくて、当時、西欧に強かった張学良が、蒋介石と毛沢東を引き合わせ、三者で一緒にもっと欧米諸国からカネを引き出すために、今度は裏で手を握って、チャイナ国内で平和維持の実績を上げている日本軍を敵として攻撃することで、欧米諸国から資金や武器をもっと手に入れようと話し合ったのが、おそらく西安事件の真実です。
そしてこの西安事件のあと、上に述べた盧溝橋事件以下、様々な形で日本軍や在留日本人に対する暴力行為が行われるようになっていったのです。
*
こうした歴史を振り返ったとき、いつの時代もいつの世も、大きな戦いの背後には、一部の人の利権と、そのためのプロバガンダが常に背景となっていることに暗澹とした気持ちにさせられます。
結局そのために、多くの命が失われていく。
そのために用いられるのは、いつの世においても「恐怖」です。
民衆は恐怖を煽られ、その恐怖から逃れるために、進んで命を差し出すようになるのです。
しかし、そのような人類社会は、いま、終わりを迎えつつあります。
情報化が進み、AIや、Youtubeなどのネット媒体の普及によって、事実や裏がすぐに暴かれてしまう。
つまり、もはや「恐怖による支配」は、その効力を失いつつあるのです。
そしてようやくこれからの時代、恐怖ではなく共感が、支配ではなく人々の共鳴共震響き合いが、新たな世界の扉を開こうとしているのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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15 金融経済の裏側
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12 ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密
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10 ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀
9 ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集
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7 ねずさんと語る古事記・参
6 ねずさんと語る古事記・弐
5 ねずさんと語る古事記
4 ねずさんの日本の心で読み解く百人一首
3 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第三巻
2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!

