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第115回倭塾 2024年12月7日(土)16:30-20:30 タワーホール船堀2F蓬莱
12月の倭塾は「知っておきたい神武東征」をテーマに、日本建国の壮大な物語を紐解きます!英国のアーサー王伝説のように語り継がれる建国の歴史が、日本ではなぜ共有されていないのか?その背景を探りながら、現代日本人の精神の基盤に迫ります。歴史を知ることで、日本人としての誇りと未来への希望が見えてくるはずです。今回は【タワーホール船堀】にて【16時開始】で開催!日本のルーツを一緒に探求しましょう。ご来場をお待ちしています!
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| 昭和初期、青森県三沢村から始まった太平洋無着陸横断飛行は、人々の献身と友情が生んだ奇跡の物語でした。村人たちは無償で外国人飛行士を支え、飛行成功を祈りました。飛行士が持参した三沢産のリンゴは、アメリカ・ウェナッチで友情の象徴となり、後に青森に新たなリンゴの品種としてもたらされました。この物語は、国境を越えた絆と愛、そして日本人の公徳心を伝える、ひとつのリンゴに秘められた奇跡のストーリーです。 |
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ありがとう、日本!!
リンゴと聞いて何を思い浮かべますか?
甘酸っぱい香り、サクッとした食感、そして、どこか懐かしい味わい。
けれど、ただの果物だと思ったら大間違いです。
世界には7500種類ものリンゴがあり、それぞれに個性豊かな味わいが秘められています。
そして、日本とアメリカの友情を結ぶリンゴの物語もまた、特別な一章を刻んでいます。
舞台は昭和初期の青森県三沢村。
太平洋を無着陸で横断しようという前代未聞の冒険が、この小さな村から始まりました。
企画をしたのは朝日新聞社でした。
ライト兄弟が世界で初めて飛行機を飛ばしたのが明治36(1903)年。
飛行機はまたたく間に世界に普及し、性能も向上していきました。
昭和6年(1931年)ころには、500馬力近いエンジンの飛行機が開発され、市販されています。
昨今の科学技術の進歩はすさまじいですが、一昔前だって、負けないくらいすごかったのです。
チャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行を成功させたのが昭和2年(1927年)のことです。
この飛行は『翼よ、あれがパリの灯だ』という名で映画され、世界的に有名になりました。
リンドバーグが大西洋を征服したため、今度は世界の冒険飛行家たちの目が、太平洋にそそがれるようになりました。
しかし、ニューヨーク~パリ間の大西洋横断は、およそ6千キロですが、太平洋横断となると、距離が約8千キロとなり、3割も長い距離になります。
しかもこの時代、通信機はまだ貧弱です。
トンツートントンのモールス信号で通信しかないし、途中でエンジンが不調になって海に落ちたら、まず助かりません。
つまり、生きて帰られる見込みがない。
太平洋横断は、まさに命がけの大冒険だったのです。
さらに問題がありました。飛行場がないのです。
飛行機を飛ばすにも降りるにも、長い滑走路が必要です。
しかし飛行機そのものが普及していなかった時代です。長い滑走路なんて、そうそうありません。
そんななかで、昭和6(1931)年、朝日新聞社が、太平洋無着陸横断飛行(本州とカナダのバンクーバーより南の間を飛行)の最初の成功者に、日本人であれば10万円、外国人であれば5万円の懸賞金を出すと発表したのです。
話題にさえなれば、関わる人がどうなろうと知ったことではないという体質は、今も昔もかわらないのかもしれない。
ともあれ、この企画は世界中に宣伝され、離陸場所には、青森県の三沢村(現在は市)の淋代海岸(さびしろかいがん)が選ばれました。
日本のなかでは北アメリカ大陸に近く、南北に長い砂浜があり、砂に粘土と砂鉄が混じっていて、砂地が硬くてしまっている・・・つまり舗装しなくても滑走路に使えたのです。
三沢村の人たちは、自分たちの村が世界記録の挑戦の場所に選ばれたことに大喜びしましたが、それはそれでたいへんなことでした。
言葉の通じない飛行士の宿泊の世話をしなければならないし、飛行場だけではなく、燃料を運ぶための道路も作らなければなりません。
滑走路にするために、砂浜を平坦にする作業も、たいへんな労力です。全部人力です。
加えて三沢は雪国です。冬場には飛行機は飛ばせない。
一方で飛行機を飛ばせる春・夏は、地元の人たちにとっては、農繁期です。
それでもどうやら、滑走路もでき、最初の挑戦者となったのは、アメリカ人の二人組が乗った「タコマ市号」という飛行機でした。
三沢村の人たちは、轟音とともに空から舞い降りてきた飛行機を見て、はじめはびっくりしたそうですが、三沢村の前村長小比類巻要人氏の指導のもと、自分たちの仕事を中断して、機体の保管や、食事の世話などをしたといいます。
ちなみに、これ、全部、無報酬です。
当たれば朝日は紙面が売れて大儲けです。
けれど協力してくださった三沢村の人たちは、まるで無報酬。
けれど、みんなの心だけでそれだけの大事業が行われたのです。
(ビートル号は複製)

まだ燃費の悪かった時代のエンジンです。
太平洋を無着陸で横断するためには、飛行機が飛び立てる重さの限界まで、大量の燃料を積み込まなければなりません。
すると当然、飛行機は重くなります。
機体が重ければ、今度は離陸が難しくなります。
離陸を成功させるには、できるだけ平らで、加速を付けやすい滑走路が必要です。
そして飛行士たちは、失敗したら命がない。
外人であれ日本人であれ、命は大切です。
それがわかるから、三沢村の人たちは、心から横断飛行の成功と飛行士の無事を祈って、みんなで協力してくれたのです。
三沢村の村人たちは、言葉も通じない外国人飛行士を家に迎え、無償で宿泊や食事を提供しました。
手作業で砂浜を平坦にし、滑走路を作り、村中総出でサポートしました。
誰も報酬を求めることなく、ただ「成功してほしい」という一心で協力したことでした。
昭和5年9月14日、いよいよ第一号「タコマ市号」の出発です。
ハロルド・ブロムリー、ハロルド・ゲッティ の2名を乗せた飛行機は、村人たちが固唾を飲んで見守る中、飛行機は見事離陸に成功しました。
ところが「タコマ市号」は、排気管から漏れた有毒ガスが操縦席に充満したため、飛行を断念してカムチャッカ沖から霧のなかを引返し、下北半島東通村尻労に不時着します。
失敗です。
二番目の挑戦者は、アメリカ、トーマス・アッシュ中尉が乗った「パシフィック号」でした。
しかし「パシフィック号」は、搭載したガソリンの重量で重い機体を浮上させることができず、2千メートルも滑走したけれど浮力がつかずに停止してしまいました。
三番目の挑戦者は、若い二人のアメリカ人が乗った「クラシナマッジ号」でした。
この機は、離陸後にガソリン漏れを起こして、出発後数日で消息を絶ってしまいます。
そしてカムチャッカ東北端の無人島に不時着していたところを、ロシア船に救助されています。
昭和6年9月、ハバロフスクにいたアメリカ人の冒険飛行家、クライド・パングボーン(Clyde Pangborn)35歳と、ヒュー・ハーンドン(Hugh Herndon)26歳の二人が、この朝日新聞の企画を聞きつけます。

二人は飛行機による世界1周を目論んでいましたが、失敗して落胆していたのです。
二人は、この企画にとびつきました。
こうして二人は、東京の立川飛行場に、愛機「ミス・ビードル号」で飛んできたのです。
ところが急な予定変更なので、入国許可証がない。
スパイと間違われた二人は、日本の警察に機体と身柄を拘束されてしまいます。
このとき、二人の逮捕を米国大使館を通じて必死にとりなしてくれたのが、リンドバークです。
こうして二人は、とりあえず、罰金だけで釈放になりました。
朝日新聞社も、二人の情報を聞きつけ、日本に滞在していたアメリカ人たちに協力してもらって、立川飛行場に押収し保管されていた彼らの飛行機への改造の協力をします。
燃料タンク増設し、800ガロン搭載のところを、950ガロンのガソリンを積めるようにしたり、燃料節約のために離陸後に車輪を落とせるようにするなどの改造を施したのです。
さらに車輪のない「ミス・ビートル号」が、胴体着陸できるようにするための補強材も装着しました。
いよいよ、二人が乗った飛行機が三沢村に到着します。
「こんどこそ成功させたい」
三沢村の人々は、小比類前村長を筆頭に、村の青年団が飛行機の不寝番をしたり、二人のための宿泊所や食事の世話をしたり、ガソリンの輸送や積み込みをしたり、機体の掃除をしたり、献身的にな努力を惜しみなく行いました。
砂地の滑走路にも、加速しやすいようにと、厚い杉板を敷き並べて傾斜をつけた長さ30mの助走台まで造っています。
三本木に、英語の話せる退役海軍軍人がいるとのことで、村の青年団で迎えにいき、通訳と助言もお願いしました。
出発に際しては、二人の飛行士のために、当時なかなか手に入らなかったパンも調達しました。
このパンで、前村長の娘さんの小比類巻チヨさんがサンドイッチと鶏の揚げ物を作り、出発のときに彼らにプレゼントしています。
翼長14.8M、長さ8.5M、エンジン出力425馬力

昭和6(1931)年10月4日午前7時1分。
ドラム缶なんと18本分ものガソリンを積み込んで、極端に重くなった「ミス・ビードル号」のエンジンがかかりました。
機体に乗り込んだクライド・パングボーンと、ヒュー・ハーンドンに、小比類チヨさんが、機内食用にと三沢産のリンゴ、紅玉20個を包んでプレゼントしました。
こうして村人たちが手を振って見送る中、杉板の滑走路で助走した「ミス・ビードル号」は、徐々に加速しながら滑走路を走りました。
それは、ながいながい滑走でした。
そしてついに、「ミス・ビードル号」は、大空に舞いあがったのです。
離陸に成功した「ミス・ビードル号」は、予定通り途中で車輪を捨てて飛行を続けました。
北太平洋の海原を舞うこと40時間、「ミス・ビードル号」は太平洋沿岸時間の5日午前1時に、カナダのバンクーバー島標識灯を確認します。
そして着陸のためにスポケーンへ向かったのですが、霧が深くて着陸することができません。
やむをえずさらに西のパスコに向かうけれど、ここも厚い雲に覆われて着陸が不可能でした。
翼は凍り付いています。
燃料も残り少ない。
乗員の二人は、故郷のウェナッチに着陸しようと決心しました。
ウェナッチなら霧も雲も心配ないからです。
飛行の模様は、アマチュア無線や新聞のニュースなどで、離陸から、アリューシャン列島上空通過、米国本土での飛行ルートなどの情報がもたらされていました。
ウェナッチへの着陸の報道がもたらされると、地元の人々は大喜びします。
そしてウエナッチの丘の上には、地元の人々や朝日新聞社を含む新聞記者達などが集まりました。
その中には、パングボーンの母親や弟、いとこたちもいました。
みんなが見守る中、昭和6(1931)年10月5日の朝7時14分を過ぎたころ、
「ミス・ビードル号」はウェナッチ東部の丘から低空飛行で、小さな赤い機体を現わしました。
そして着陸地点に侵入します。
車輪はありません。
胴体着陸です。
機体は、スピードを失速するくらいまで下げながら、滑走路の端に入ってきました。
エンジンスイッチ、OFF。
二枚羽のプロペラを水平位置で止めようとしたのだけれど、不幸にもプロペラは垂直位置でとまってしまう。
こうなると、プロペラが地面をこすり、火災の原因になったりもします。
パングボーンは操縦桿を駆使して、機首をアップさせました。
機首を上げた機体が、機体の後部胴体を地面にこすりだしました。
そのまま機体は、胴体を地面にこすりながら進み、ついに前のめりに土煙を上げてつんのめりました。
テールエンドが持ち上がりました。
持ちあがった機体が、すぐまた後ろに倒れました。
倒れながら、機体はまだ地面をすべり続けます。
ウェナッチの人々は、その様子を固唾を飲んで見守りました。
地面を滑り続けた機体が、左に傾きます。
そして左翼を地面にこする。
機体が左へとカーブしだしました。
そして・・・ようやく機体が止まりました。
着陸成功です。
シンと静まり返った中、機体の中から、パングボーンとハーンドンが笑顔で降りてきました。
万雷の拍手喝采が起こりました。
こうして、41時間13分をかけた、人類初の太平洋無着陸横断飛行が成功したのです。
その日のウェナッチ市は大変な騒ぎになりました。
飛行場に集まった人々は、はるか太平洋のかなたから飛んできた赤い小さい飛行機をあくことなく眺めて乾杯しました。
お酒を飲みながら、パングボーンが「日本からのお土産はこれだけ」とおどけた調子で、機体の中から真っ赤なリンゴを5個取り出しました。
そしてそのリンゴを母に渡しました。
ウェナッチもリンゴの産地です。
日本から、真っ赤なリンゴの贈り物。
5個のリンゴの話は、たちまち町中に広がりました。
ウェナッチ市では記念のパレードが盛大に行われました。
翌日にはシアトルでもパレードが実施されました。
ニューヨークでは市長主催の歓迎会も行われました。
こうして二人が飛行に成功した1か月前には、満州事変が起こっています。
満洲国の成立求めた日本に対し、米国政府は否定的な見解を出し、日米間には険悪な空気が漂っていた時期でした。
しかし、パングボーンとハーンドンは、機会あるごとに、日本人が親切であったこと、特に三沢の人々の献身的な援助があったことを話してくれました。
これにより、米国の新聞の論調も、「日本は近い国」、「友情の橋がかけられた」等、日本に好意的な記事がたくさん見られるようになっていきました。
さて、ウェナッチはアメリカにおけるリンゴの大産地です。
この年の11月、ウェナッチ商業会議所は、お世話になったお礼にと、リンゴの新品種であるリチャード・デリシャス一箱を船便で朝日新聞社宛に送ってくれました。
ところが、その前年から輸出入植物取締法の適用が厳しくなっていて、リンゴの上陸が認められない。
青森県リンゴ試験場長須佐寅三郎氏らも植物検査所長に、送られてきた果実を研究用に提供して欲しいと懇願したのですが、これも断られてしまいました。
結局、日本の港まできたリンゴは、ウェナッチに送り返されてしまったのです。
須田試験場長は、ウェナッチ商業会議所会頭あてに、お詫び手紙を書きました。
そして、「できれば穂木を贈ってくれないか」とお願いしました。
ウェナッチ商工会議所は、快くこれに応じてくれました。
こうして昭和7年4月、リチャードデリシャスの1mほどの接穂5本が、青森県リンゴ試験場に贈られました。
試験場では、生産者代表と関係者が、なんと68名も出席して、盛大な接木式を行いました。

多くの人々の愛と想いの詰まったこの接木は、すくすくと成長してくれました。
そして昭和10年頃から、青森県内各地に接穂として配布されました。
昭和16年には、わずか5本だった穂木が、なんと1万227本のリンゴの木になりました。
栽培面積も22ヘクタールに拡大されまた。
しかもこのリンゴの評判は上々で、リンゴ試験場の樹から、枝が盗まれるなんていうこともあったといいます。
けれど、この年の12月、大東亜の戦いが始まりました。
ウェナッチと三沢市の心温まる交流も、中断してしまいました。
それから36年後、太平洋無着陸横断飛行から数えて50年後となる昭和56年、ウェナッチ市と三沢市はふたたび姉妹都市になりました。
三沢市の淋代海岸には、この快挙をたたえる「太平洋無着陸横断飛行記念碑」が建ちました。
その近くには、「ミス・ビートル号」の復元機も展示されました。
この復元機は、2003年4月に完成。
2011年8月18日には、「ミス・ビートル号」の再現飛行も青森県三沢市で行われました。
それは、太平洋無着陸横断飛行に成功した年から数えて、80年を記念したイベントでした。
太平洋無着陸横断飛行のときの、三沢の村の人々の温かい心遣い。
そして少女が贈ったリンゴ。
あたたかな心の連鎖が、わたしたちの食卓に並ぶ、おいしいリンゴとなっています。
もしいまの日本で、こうした飛行が行われるとなったら、どうなるのでしょうか。
みんなが無報酬で頑張るなんてことはあるのでしょうか。
手伝いのための公共事業費を、国はいくら出せ、県はいくら出せ、日当払え。飛行場周辺の住宅への補償は出るのか、そもそも予算の無駄遣いではないのか。
地元には全国から反対派の人たちが集まり、滑走路建設反対のデモや集会が行われ、予算の凍結・廃止がメディアでさんざん宣伝された挙げ句、少女がプレゼントしようと持参したリンゴは、生ゴミとして廃棄されてしまうかもしれません。
ひとつ断言できるのは、もし日本がそのような国であれば、もはや世界は誰も日本を信頼しなくなるということではないでしょうか。
世界初の偉業の達成のために、村のみんなで力を合わせ、無償で貢献した日本人。
公徳心を持ち、みんなのため、地元のため、お国のために力をあわせた日本人。
そんな日本人は、いったいどこに行ってしまったのでしょう。
飛行士たちが41時間かけて成し遂げたこの偉業は、人類史に刻まれるだけでなく、日本とアメリカの絆を深めました。成功の裏には、三沢村の人々の献身と、小さなリンゴが紡いだ物語がありました。
後日、ウェナッチ市から青森に贈られたリンゴの接穂は、青森の地で新たな命を育み、今では日本中で愛されるリンゴになっています。
人の持つ勇気と愛と献身が、時を超え、美味しいリンゴの味わいとなって受け継がれています。
目を閉じて想像してください。
青森の少女が渡したリンゴが、太平洋を渡り、友情の架け橋となり、やがて私たちの食卓にも並ぶようになったその光景を。
今日手にするひとつのリンゴの背後には、そうした見知らぬ人々の温かな愛と絆と希望の物語があるのです。
世界を結ぶのは、最新の技術だけではありません。
人が持つ思いやりや善意もまた、人と人、国と国を結びつけることを、この物語は教えてくれています。
それこそまさに、リンゴの奇蹟だと思うのですが、みなさまはいかがでしょうか。
※この記事は2009年12月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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