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「直指人心・見性成仏」で、その膨大な知恵を得ることで、私達は私達自身を成長させてもらえるだけでなく、同時に自らの霊(ひ)もまた成長していくことができるといえるのだと思います。前頭葉の知識におぼれて天狗になるのではなく、白隠禅師のように、大いなる知とつながるべく、生涯をかけて学習し、成長していくことにこそ人生の意義があります。

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20160603 達磨図 白隠筆
画像出所=http://rupe.exblog.jp/tags/%E9%81%94%E7%A3%A8/
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


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絵は「達磨図」で、江戸時代中期における臨済宗中興の祖と言われる白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師が描いたものです。
実に見事なこの図は、縦が2メートル以上もあります。
絵には「見性成仏」と書かれています。
これは臨済宗の本義とされる「直指人心、見性成仏」という言葉からとったものです。
「直指人心」とは、文字や言葉によらず、自分の心の奥底にある仏性を把握することを言います。
「見性成仏」は、自身の心底にある仏性と自分を一体化させることです。
この言葉の持つ意味は深く、このようにあっさりまとめてしまうと本格的に禅の修行をされている方から叱られてしまいそうです。
言葉の上辺の意味を知ることと、言葉の奥底にある真理を理解することはまるで違います。
ですので上に書いた言葉の意味は、単に言葉の持つ意味を書いたにすぎません。
この絵は達磨大師がまるで図を見る人に、
「お主はそれで直指人心、
 見性成仏を理解したつもりかの?」
と問いかけています。
あるいは達磨大師自身が、
「ワシは生涯をかけて
 直指人心見性成仏を求めているが
 まだ修行中じゃ」
と述べているのかもしれません。
とても凄味のある絵です。
さて、今日のお話は、この絵を描いた白隠禅師が、まだ修行中の若い頃のことです。
当時の白隠禅師は、若気の至りで、自分がある種の悟りを得たと思っていたのだそうです。
様々な禅宗のお寺を訪ねては論争を行い、どの寺においても並み居る禅僧たちをやり込めていました。
若かったし、向こう気が強かったし、頭も良かったし、弁もたったし、だから自信満々だったのです。
ところがある日、この時代の臨済宗で最高峰と呼ばれた長野県飯山市にある正受庵の最長老、道鏡慧端(どうきょうえたん)老師を訪ねたときのこと・・・・。
道鏡慧端は、真田幸村の子孫でもある人で、白隠が何を問うても座って後ろを向いたままです。
返事もしなければ、こちらを振りむこうとさえしない。
居眠りしているのか、話を聞いていないのか。
ただ知らん顔をして背中を向けているばかりです。
なんだかひとり芝居みたいで、だんだん腹がたってきた白隠禅師は、慧端禅師に
「喝っ!」と大音声の一喝をあげました。
修行した禅僧のこの一喝というのは、おそろしく気合のこもったもので、我々素人などは、びっくりして腰を抜かしてしまうほどのものです。
すると禅師は振り向きもせずに、
「それはお前が
 学んで得たものか?
 自分で見たものか?」
と枯れた声で、やっと口を開いて問うてきました。
さあ、禅問答のはじまりです。
白隠禅師は、これまで数々の問答で相手を打ち破ってきた自信満々で、
「もちろん自分が《見たもの》である」
と堂々と答えました。すると老師はひとこと・・・。
「ならば吐き出せ!」
これで「勝負あった」となりました。
学んで得たものなら、学んだ通りに吐き出せば良いのです。
けれど白隠は「自分で見た」と回答しました。
禅の極意を「見た」ということは、禅の極意を自分の力で得たということです。
ならば自分で吐き出す《説明する》ことができるはずです。
ところが本当は、「得た(見た)」と思い込んでいただけで、それらもまた「学んで得たもの」にすぎなかったのです。
ところが若い白隠禅師は、「自分で見た(自分の力で得た)」と大見得をきってしまった。
吐き出せば・・・つまり《説明したら》、それが学んで得たものにすぎないことを自分で吐露してしまうことになるのです。
返答に困った白隠禅師に、慧端禅師は言いました。
「お前のような穴蔵禅の坊主は
 自分一人でわかったつもりになっているだけの糞坊主じゃ。
 ここにいてしばらく叩かれよ」
「叩かれよ」というのは、ここに逗留して修行せよ、という意味です。
こうして白隠禅師は正受庵に滞在することになりました。
ところが老師は、白隠を講義に呼ばない。
何も教えてくれない。
それどころか作務をする白隠禅師に、些細なことをつかまえては怒鳴り続けました。
ある日、托鉢(たくはつ)に出た白隠禅師は、ある家の門前で経を唱えていました。
なかば呆然と経を唱えていた白隠禅師は、そのとき自分を待つために、わざわざ表にまで出てきてくれていた老婆に、まったく気付かずに門前で経を読んでいました。
せっかく出てきてあげたのに無視するとは何事かと腹をたてた老婆は、
「さっさと消えちまえ!」
と、白隠禅師の腰を打ち据えて追い払いました。
このとき、白隠禅師の頭のなかに、ひらめくものがありました。
寺に戻った白隠禅師に、事情も聞かずに慧端禅師は一言。
「汝、徹せり!」
と言ったそうです。
少し解説します。
人とは何か、生老病死とは何かなど、禅の奥底を極めようとしていた白隠禅師は、学んだ知識を頭の中で整理して、たくさんの引き出しの中から、常に相手をやりこめるだけの知識を得ていたわけです。
そして老師のもとを訪れるまで、常に論争に勝ち続けました。
その得意の絶頂で訪問した老師は、そんな白隠禅師に、
「お前の学問など、ただの上っ面だ。
 お前自身には何の真実もないではないか」
と、若い彼の鼻っ柱をへし折ったのです。
ところが、この男見込みあり!と思った老師は、白隠禅師を寺に置き、白隠禅師を無視し、怒鳴り、厳しく追い込んでいきました。
すでに学はなっているのですから、講義になんて呼ぶ必要はない。
それよりも、鼻高になっていた白隠を精神的に追い込んで行ったのです。
いまなら「精神的迫害を受けた。賠償するニダ」などと言い出す人がでそうです。
けれど、見込みがあればこそ、必ず立ち上がれる男と見ぬいたからこそ、老師は白隠禅師に厳しくしたのです。
このことは、現代用語でいうなら、ストレスです。
あまりのストレスにボーッとなってしまったていた白隠禅師は、老婆の怒りに触れました。
ここで理解するのです。
「自分は自分だけで生きているのではない。
 常に周囲との関係の中で生かされているのだ」
老師もすごいです。
このことを、何の説明も聞かずに、若い白隠禅師の表情ひとつで見ぬいたのです。
だから老師は、
「汝、徹せり!」と白隠の気付きに、見事なタイミングで「烙印を入れて」くれたわけです。
人は生まれたときに、何も持たない丸裸で生まれてきたのではない。
実は今生で必要なものを、全部持って生まれてきているのだと言われています。
しかも生きているのではない。生かされている。
そして生きとし生けるすべてのものは、そのすべてが実は、奥底でつながっている。
白隠禅師は頭が良くてできの良い学僧でした。
けれど、だからこそ、自分一人が突出して成った気になっていたのです。
何もかもがつながっている。
自分ひとりだけではない。
そのことの持つ意味の深さ、大きさに、彼はそこではじめて、本当の気付きを得たのです。
 ***
ねずさんの講演にお越しになられた方は、ねずさんというのは、よくしゃべる人だと思われるようです。
ところが実際には、日常生活においではおとなしいものです。
決して話が上手ではないし、もともと子供の頃から吃音だし、議論も苦手です。
サラリーマン時代には、みんなの前で話をすると、都度上司から「お前は話が下手だから、もうやめろ」などと叱られたものです。
ですからいまでも講演は苦手です。
ところがいざ講演が始まると、びっくりするくらい様々な話が出てきます。
けれどもせっかくお越しいただいたみなさんに、話が苦手だからとボソボソと話すのでは、いかんせん失礼です。
ですから毎度講演をするときには事前に話の内容をスライドで準備するし、ひとりでリハーサルをして準備しています。
ところがいざ講演がはじまると、事前に準備したスライドにこだわったときよりも、その場のみなさんの突然のご質問などにお答えしているときの方が、はるかにスラスラと話ができたりします。
これは文章を書くときも同じで、自分の頭で考えて書いているときというのは、ろくな文が書けません。
ところが、何度も文章を書いては消し、書いては消しを繰り返していて、無心(というほどのものでもないのですが)、頭が空っぽになったような状態になったときに、たいてい、一気に文が進みます。
和歌の解説や、古事記、日本書紀の解読に際しても、何かが降ってきたような感じがすることが多々あります。
不思議だったのは、古事記を書き終えたとき、古事記は漢字ばかりの原文を直接読み解くということにトライした本だったのですが、漢字ばかりの文の読解にある程度自信を付けて、では「次に日本書紀をやろう」と思い立ち、古典文学体系の本から、日本書紀の漢文に挑戦したのです。
ところがさっぱりわからない。
まさに珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)なのです。
そこで中山成彬先生の紹介で、ある「神様」と呼ばれている人にお会いする機会をいただきました。
その人いわく、
「自分の魂にもっと感謝しなさい。
 ちゃんとお礼を言わなければだめですよ」
ホンマかいなと思いながら、胸に手を当てて「ありがとう」と何度も言って日本書紀を開いたら、あら不思議。
あれほど解読困難だった日本書紀の原文が、まるでやさしく書かれた童話の本でも読むかのように(は、ちょっと大げさかもしれませんが)、手にとるようにわかるのです。
それで『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』の本を、一気に書き上げました。
考えてみると、百人一首の本を書かせていただいたときも、また古事記の本を書かせていただいたときも、万葉集のときも、そこに書かれている文章は、策や方法やテクニックではなく、まさに文字や言葉によらず、自分の心の奥底にある仏性を把握する「直指人心」や、自身の心底にある仏性と自分を一体化させた「見性成仏」によって、筆が進んでいたような気がします。
講演も同じで、魂が言葉となったときに、会場との一体感が生まれ、説得力のある良い講演が出来ているように思います。
いまでも、録音したものをあとで聴き直すと、自分で、決して話が上手だとは思えません。
けれど、その話に魂が乗ったとき、何かがみなさんの心に刺さる、そんな講義ができているように思います。
「なにごとも霊(ひ)が上」とは昔の人の言葉ですが、肉体に霊(ひ)が宿るということは、これは実感として、あるいは体感や経験としても、そのように思えます。
所詮、人間が考えることなど、生まれてこの方の前頭葉の学習成果でしかないわけです。
けれども人間には、霊(ひ)がある。
そして霊(ひ)は、なんらかの存在とつながることができるとするなら、霊(ひ)は膨大な知識や知恵とのアクセス権を持つことになります。
そうであるならば、「直指人心・見性成仏」で、その膨大な知恵を得ることで、私達は私達自身を成長させてもらえるだけでなく、同時に自らの霊(ひ)もまた成長していくことができるといえるのだと思います。
前頭葉の知識におぼれて天狗になるのではなく、白隠禅師のように、大いなる知とつながるべく、生涯をかけて学習し、挑戦し、成長していく。
ここにこそ人生の意義があります。
『歩兵の歌』ではありませんが、前進前進、また前進です。
※この記事は2020年6月の記事のリニューアルです。
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23 縄文文明の謎を解く
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8 誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国
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2 ねずさんの 昔も今も すごいぞ日本人! 第二巻
1 ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!