■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
4月の倭塾は、4月23日(日)13時半から、場所は富岡八幡宮の婚儀殿です。テーマは「いま世界で起きていること、日本で起きていること、そして日本精神の源流」です。参加自由で、どなたでもご参加いただくことができます。皆様のふるってのご参加をお待ちしています。詳細 → https://www.facebook.com/events/458686826358362
なお倭塾終了後に、倭塾100回記念懇親会を計画しています。懇親会は、料理の都合上、事前申込みが必要です。参加希望の方は、以下から申請をお願いします。懇親会参加希望の方 → https://bit.ly/3UgErvS
■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
| 初代新幹線(ひかり号)にも通ずる流線型のモダンな外観。 スカイブルーに塗装された美しいフォルム。 当時、世界で最も速かった営業車輌は、日本の特急「燕」で、平均時速60.2Km、最高時速95Kmでした。 昭和9年の時点で、最高時速100Kmを超える蒸気機関車は存在しなかったのです。 そんな時代に登場した「あじあ号」は、平均時速82.5Km・最高時速120Km。 文句なしに世界最速の列車でした。 |


人気ブログランキング
応援クリックは←こちらから。いつもありがとうございます。
日本をかっこよく!
新幹線が開通したのは、東京オリンピックが開かれた昭和39(1964)年10月1日のことです。
東京~新大阪間に開通した新幹線は、当時「夢の超特急」と呼ばれ、少年少女に未来への大きな夢を与えてくれました。
しかし本当は、新幹線開業を遡(さかのぼ)る30年前に、日本は「夢の超特急」を完成し、営業運転を開始していたのです。
それは、昭和9(1934)年11月1日のことです。
日本は、世界を驚嘆させる列車の運行を開始させました。
列車の名前を「あじあ号」といいました。
初代新幹線(ひかり号)にも通ずる流線型のモダンな外観。
スカイブルーに塗装された美しいフォルム。
当時、世界で最も速かった営業車輌は、日本の特急「燕」で、平均時速60.2Km、最高時速95Kmでした。
昭和9年の時点で、最高時速100Kmを超える蒸気機関車は存在しなかったのです。
そんな時代に登場した「あじあ号」は、平均時速82.5Km・最高時速120Km。
文句なしに世界最速の列車でした。
車両は前から順に、手荷物郵便車、3等客車2両、食堂車、2等客車、展望1等客車の全6両編成です。
さらにこの列車には、真夏の猛暑と冬場の極寒冷地(氷点下-40度)を走るために、全車両に密閉式の二重窓を備え、客車には冷暖房装置(エアコン)を完備されていました。
この当時にエアコン完備の列車なんて、他に例がありません。
この列車が、どこを走っていたのかというと、実は、満州国です。
「あじあ号」の開通により、それまで2日かかっていた大連→新京(現・長春)間、701.4Kmが、何と8時間30分で接続されるようになりました。
翌年になると、ソ連から北満州鉄道を買収し、大連→ハルビン間、944Kmに路線を延長しました。
当初、13時間30分、後には、12時間30分で走りました。
満鉄(南満州鉄道株式会社)がその技術の粋を集め、日満両国がその威信に賭け、世界に先駆けて完成実用化したその列車こそ、大陸縦貫特別急行「あじあ号」だったのです。
昨今では、なにやら戦前の日本というと、閉鎖的で偏狭なナショナリズムに占拠されていた時代・・・といったイメージで語られることが多いようです。
ところが現実にはまるで違う。もしかしたら現代日本よりはるかに国際的に開かれた眼を持ち、行動していたのです。

日本は、対馬海峡に面したプサンから大連までを鉄道で結び、大連からハルピンまでを鉄道で結びました。
計画では、ハルピンから、オホーツク海に面したハバロフスクに、ハバロフスクでははるかヨーロッパに続くシベリア横断鉄道に接続、そして海底トンネルを経由して、樺太、北海道、本州を結ぶ・・・

朝鮮半島を縦断し、満州を通過し、シベリアから樺太、樺太から北海道、北海道から本州、本州から九州、九州から対馬、済州島、そして朝鮮半島に接続する大環状線が計画されていたのです。
つまり日本は、なんと日本海を一周し、さらにヨーロッパにまで接続する夢の鉄道大環状線を計画し、さらにその大環状線をヨーロッパにまで接続しようとしていたのです。
ちなみにこうした構想は、いまの日韓対馬海峡縦断トンネル構想のような部分的なモノとは違います。
日本のもつ「庶民こそ大事」という哲学と文化を根底とし、日本国正規軍によって規律と治安を確保することを前提に行われたものです。

それだけではありません。
昭和17(1942)年には、満州でアジア初の高速道路建設がスタートしています。
それがハルビン(哈爾浜)から新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)を経て、大連に至る総延長900Km超の高速道路の建設です。
この工事は、建設着手から3年後の昭和20(1945)年、路線の一部が完成した状態で終戦を迎え、建設はチャイナに引き継がれました。
ところが結局彼らは、道路を完成させる費用も出さず技術力も不足し、結局日本が費用と技術を負担することで、ようやく完成したのが平成2(1990)年です。
これが現代チャイナが自慢する「瀋大高速公路」です。
建設着手から、なんと48年を経由しています。

ちなみに、同じくチャイナ自慢の哈大道路の建設着手も戦時中の日本です。
さらにいうと、日本は満州で、世界屈指の豊満ダム(第二松花江ダム)を始めとして、鏡泊湖(牡丹江)・桓仁(渾江)・水豊(鴨緑江)などに巨大な水力発電用ダムを次々と建設しています。
「満鉄」、日本産業株式会社(鮎川財閥)を母体とする「満州重工業開発株式会社」によって、世界屈指の“重工業地帯”を、満州に誕生させていたのです。

毛沢東は、昭和20(1945)年4月、首都・延安で開催された中国共産党七全大会に於いて、
「もし、我々が全ての根拠地を失ったとしても、
東北(満州)さえあれば、
それだけで中国革命の基礎を
建設する事が可能である」と述べています。
毛沢東がそこまで絶賛した満州工業地帯の発展は、毛沢東率いる中国共産党が開発したものではありません。
日本が、苦しい歳費の中でまじめに取り組んできたものです。
世界に誇る「あじあ号」の走る満鉄ひとつをとっても、当時チャイナは、奉天鉄道事務所管内だけでも、電話線を切ったり、線路をはがさしたり、はては日本人鉄道警備員を拉致したり。
それら被害は、年間30万を越すものでした。
さらには衆をたのんで、少数の日本人駐留員を襲い、虐殺し、女を死ぬまで強姦し、子供の手を針金で縛って10本の指を切り落としたりしていたのが当時のチャイニーズです。
話を続けます。
戦前の日本が計画していた路線構想は、戦後も生き続けました。
そのなかで誕生したのが、実は昭和63(1988)年3月13日に営業を開始した青函トンネルです。
青函トンネルは、青森と函館を結ぶトンネルです。
このトンネルは、津軽海峡の海底下約100mの地中に設けられた、全長 53.85 kmのトンネルで、トンネルとして世界一の長さを持っています。
ちなみに2位が英仏海峡トンネル(50.5km)です。
いま青函トンネルは、新たに新幹線規格のトンネルが計画されていて、将来は、北海道新幹線が通る予定になっている。
博多で乗った新幹線が、直通で札幌にまで到着できる日がくるのです。
考えただけでワクワクします。
青函トンネルも、着工は昭和36(1961)年ですが、計画は戦前です。
青函トンネルができる前までは、青森ー函館間には、青函連絡船が渡っていました。
石川さゆりの津軽海峡冬景色・・・
上野発の夜行列車 降りたときから
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけを 聴いている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうなカモメ見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
北海道へ渡る人も荷物も、青森駅でいったん降り、連絡船に乗り換えて函館に渡り、そこから再び鉄道に乗らなければならなかったのです。
連絡船は、寒空の海の上を3時間です。
終戦後まもなく朝鮮戦争(1950-1953)が起こりますが、この直後から北朝鮮が流した浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入しました。
これにあたったら、連絡船はひとたまりもなく沈みます。
昭和29(1954)年には、台風による暴風雨で、函館港外で洞爺丸が沈没。
この事故で1155 名の死亡者が出ています。
さらに他にも4隻の船が海難事故にあいました。
航路は脅かされるし、事故も起こる。
政府は終戦の翌年の昭和21(1946)年には、すでに青函トンネル工事のための地質調査をすすめていたけれど、こうした現実の事故の発生によって、いっきに計画が具体化の方向に進みます。
戦後間もない頃です。
政府の税収もまだまだ低かった。
そうした中で、四半世紀を要し、総額9,000億円の大工費が開始されたのです。
ちなみに、開業前には、政府の行うこの工事に対して、開業前には要した巨額の費用と収益があまりにも釣り合わないとして「無用の長物」、「昭和三大馬鹿査定」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。
「昭和三大馬鹿査定」という言葉があります。
昭和62(1987)年に、当時の大蔵省主計官田谷廣明が述べた言葉で、
「昭和の三大バカ査定と言われるものがある。
それは戦艦大和、
伊勢湾干拓、
青函トンネルだ」
から一躍有名になった言葉です。
昭和の勘定奉行としての田谷さんの言葉もわからないではありませんが、それは経営者(施政者)の言葉ではありません。
会社経営が、経理士感覚だけではまかなえないのと同様、国家の経営も、一介の財務官僚のレベルで語り尽くせるものではないのです。
戦艦大和には、日本人の夢があるし、その大和建艦の技術と実績と信用が、戦後の日本の造船業の大発展の基礎を築いています。
伊勢湾干拓は、伊勢湾台風によって堤防が決壊し、壊滅的被害を被ったりもしたけれど、いまや中部地区の一大物流拠点です。
そもそもこの伊勢湾干拓計画は、明治8年のものです。
そして今日、青函トンネルが、北海道物産の興隆にどれだけ貢献しているか。
俺は北海道へ行くときはいつも飛行機だなんて思う人もいるかもしれないけれど、重たい荷物を運ぶのは、やはり鉄道の仕事です。
ほかにも当時の野党(主に社会党)からは「トンネルを放棄してセメントで封鎖すべきだ」とか、「道路用に転用すべきだ」、「キノコの栽培をすべきだ」、「石油の貯蔵庫にすべきだ」等、わけのわからない主張が次々に出されていました。
青函トンネルは、政府のムダ遣いの元凶のように言われ続けていたのです。
いま、首都圏では、千葉や埼玉、三多摩地区が、いわゆる東京のベットタウンとなっています。
そのベットタウンも、ほんの30年前までは、ほとんど農地や原野だった。
実は筆者のオヤジは、筆者が産まれて間もないころ、東京・板橋に戸建住宅を建てて、そこに一家三人で住みました。
その頃の板橋は、田んぼの中の一軒家で、ちかくに私鉄のちいさな駅舎があるだけでした。
あんまりにもさみしい土地だったから、母がとうとう精神的にまいってしまって、その家は売却し、川崎に当時できたばかりの団地に引っ越しています。
板橋の家は、当時は土地が安かったので200坪くらいの敷地でした。
引っ越した先の川崎の日吉の団地は、日本初の団地で、当時は建物の周囲にはドブがありました。
幼い頃、筆者はそこに落ちて、額の横を大きく割り、その傷はいまでも残っています(笑)
いま、その板橋の土地は、ものすごく大きな板橋の商業の中心地として発展しています。
西武鉄道、東武鉄道、小田急、京王、京成電鉄・・・
それぞれ営業したての頃は、なんにもない田舎を走る単線電車でした。
それが駅ができ、駅周辺に家が建ち、人々が生活するようになってお店ができ、ビルが建ち、町が発展する。人々が交流し文化が広がりました。
国家の建設や運営というものは、単に目先の予算だけの問題ではないと思うのです。
国家100年の大計にたって、日本をどうするか、そして周辺諸国との関係をいかに築くかという大局の上に行われるべきものです。
近年は、ダム開発の見直し(中止)や、公共工事によるいわゆるハコモノ財政への見直し論が盛んです。
しかしちょっとビルを建てるとかいうものと違って、ダムや、鉄道、道路の整備などは、100年、1000年の未来の人々の生活と、その夢に向かって築かれるものです。
目先の人気取りや、政治家の私腹、売国やねつ造史観の受け入れなどのためのものでは、断じて、ない。
はるか明治時代に生まれた、日本海一周の大環状鉄道構想。
そしてその中で生まれた世界最長の青函トンネルと、思いをおこしたとき、人種差別撤廃を高らかに謳いあげて立ち上がった戦前の日本が、何をもとめ、何を行おうとしていたのかが胸にせまる思いがします。
欧米の植民地政策によって、東洋人が絞りに絞りとられ、ヒト以下の動物としてしか見られていなかった時代に、日本は、はるか大きな大東亜建設の夢に向かって時代を切り開いていた、といえるのではないでしょうか。
そしてその先に夢見ていた日本人が理想と描いた社会は、人類が平等であり、治安の保たれる法治社会であり、それぞれの民族が共に栄え、自由に意見が言え、教養にあふれ、建設の息吹に燃え、平和で豊かで、高次の道義心と志操心を持った理想社会だったといえるのではないでしょうか。
そうそう、実は、青函トンネルって、4本あるんです。

(1) 本坑 (2) 作業坑 (3) 先進導坑 (4) 連絡誘導路です。
最初に、先導トンネルを掘削し、その次に作業用のトンネルを掘る。それから本トンネルの工事です。長い長いトンネルを掘るときには、火災や落盤事故に備えるために、実に入念な工事が行われるんですね。単にトンネルをほるだけじゃなくて、ちゃんと作業員の安全と、完成後の万一の場合の避難経路をちゃんと考えて作ってあるのです。
この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。
日本をまもろう!
お読みいただき、ありがとうございました。
YOUTUBE
日本の心をつたえる会チャンネル
むすび大学チャンネル

人気ブログランキング
↑ ↑
いつも応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
info@musubi-ac.com
| 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 |
【次回以降の倭塾】
第100回倭塾 2023/4/23(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
第101回倭塾 2023/5/14(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
第102回倭塾 2023/6/25(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
第103回倭塾 2023/7/22(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

