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 4月の倭塾は、4月23日(日)13時半から、場所は富岡八幡宮の婚儀殿です。テーマは「いま世界で起きていること、日本で起きていること、そして日本精神の源流」です。参加自由で、どなたでもご参加いただくことができます。皆様のふるってのご参加をお待ちしています。詳細 → https://www.facebook.com/events/458686826358362
 なお倭塾終了後に、倭塾100回記念懇親会を計画しています。懇親会は、料理の都合上、事前申込みが必要です。参加希望の方は、以下から申請をお願いします。懇親会参加希望の方 → https://bit.ly/3UgErvS
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我々日本人は、たいへんに古くて長い歴史を持ちます。
そして日本は、さまざまなものを、統合し、融合させて、日本文化を築いています。
それが何のためかと言えば、これからやってくるであろう未来を、極力、平和で豊かで安心して安全に暮らせる未来にしたいという明確な意思があったからです。

神葬祭
20210421 神葬祭
画像出所=https://www.shinboku-koyamakyoukai.com/cont5/14.html
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


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実はお葬式は、仏式と神式で、葬儀のあり方がまったく違います。
仏式で、亡くなられた方の御魂は極楽浄土に旅立たれる、とします。
ですから葬儀は、お別れの儀式です。
お別れを告げる式ですから「告別式」と呼びます。
お棺の中には、三途の川の渡し賃として六文銭と、極楽浄土までたどり着くためのお守刀、そして旅装束として経帷子(きょうかたびら)を着せ、わらじを履かせます。
ちなみにこのとき経帷子を男女とも左前に着せるのは、極楽浄土では、何もかもがこの世と反対という仏教の思想からきた習俗です。
こうして仏式では、死者の肉体は埋葬され、魂は極楽浄土へと旅立ちます。
旅立つということは、もう、そこにはいないわけです。
ところが日本では、何故か極楽浄土に行ってしまったはずの死者の魂が、家の仏壇のお位牌(いはい)の中にもおいでになられます。
位牌の中に死者の御魂が備わっていると言うのです。
極楽浄土に旅立ってしまったはずの御魂が、お位牌にもあるのです。
これはまったく矛盾した話で、どうみても仏式の極楽浄土に逝くという思想と、かけはなれています。
どうしてこのようなことになったのかというと、江戸時代に徳川幕府が、いまでいう住民基本台帳の管理をお寺に委ねたことに依ります。
神社関係者を除き、基本的にすべての人はお寺に出生の届け出をし、お寺で身分証明としての住民登録をし、亡くなるとお寺が住民台帳からの抹消を行ったのです。
これはとても良くできた話で、住民台帳の最大のネックは死者の台帳からの抹消です。
亡くなったときに、その人の菩提寺に葬ることになっていたら、住民台帳からの消込みがほぼ完璧になるわけです。
ところが社会制度がこのようになると、もともと江戸時代以前まで、神式で葬儀を行っていた多くの人々にとって、いきなり死者が極楽浄土に旅立ってしまって家からいなくなってしまうことがどうにも納得できません。
というのは、日本古来の神式の場合、お亡くなりになった方の御魂(みたま)は、肉体から離れて、イエやムラ、あるいは護国の守り神になると考えられていたからです。
これは縄文由来の、ほんとうに古くからある考え方で、縄文時代の遺跡を見ると、集落の真ん中に墓地があります。
これは、生者と死者が共存していたことを表すのですが、実はこれまたきわめて合理的な社会文化です。
というのは、生者と死者が共存するということは、先に述べましたように、死者は家や村の守り神になるわけです。
誰しも歳をとります。
爺さんや婆さんになって、いよいよとなったとき、
「なにっ!死んでもまだ家にいるのかい!!
 冗談じゃねえ、どっかに行ってくんな!!」
と言われるようでは、困るのです。
亡くなったあとも、
「爺ちゃん、ずっとこの家にいて、俺たちを守っていてくださいねえ」
と手を合わせてもらえるような、そんな爺ちゃん、ばあちゃんにならなければならない。
つまり、死者に対する社会思想自体が、社会をより良いものとしていく根底となっていたわけです。
縄文時代は、およそ1万4千年に渡って、人が人を殺すという文化を持たない、世界史的に見ても極めて稀な、そして素晴らしい、ある意味理想社会を形成し、それが永く続いた時代です。
そしてそうした社会が営まれた背景には、よりよく生きる、もっというなら、愛されて生きることの大切さが、その社会の根底にあったのです。
こういう次第ですから、死ねば、魂が肉体を離れて神になる。
ということは、死ぬことは、神様になるというめでたいことということになります。
ですから神式では、葬儀のことを神葬祭(しんそうさい)といいます。
亡くなった方は、護国の守り神や家の守り神として、子孫をずっと見守るのです。
つまり・・・死者と生者は、この世界で共存します。
死ねば、魂が肉体という重みを抜け出して自由になる。
といっても、愛する子や孫をほったからして、自分だけが、素晴らしい世界である極楽浄土で楽してたのしく暮らすなど、思いも寄らないのが日本人の庶民感情であったのかもしれません。
行ってしまったら、もはや永遠のお別れで、自分だけ幸せな世界の極楽浄土に逝くのです。
そんな贅沢よりも、子や孫たちが豊かに安全に安心して幸せに生きていけれるように、ずっと守っていてあげたい。
死者を送る側も、「ああ、やっと居なくなってくれた」などと不謹慎なことを思うのではなく、「ずっと近くにいてね」と自然と思う。
あるいはそう思ってもらえるような自分になれるよう、日頃から努力する。
そういう心のふれあいが、我が国の神葬祭です。
このような次第ですから、不祝儀袋も
 仏式なら葬儀は御霊前、四十九日以降は御仏前です。
 神式は御霊前、御神前、御玉串料です。
もともと日本では、葬儀は神式が多かったと思われますが、江戸幕府が寺請制度といって、いまでいう住民基本台帳の管理をお寺さんに委ねたことから、どの家も、とくに神社関係者でもない限り、葬儀は仏式で行われることが一般的になりました。
今では神式で葬儀を行われるお宅は、ほとんどなくなっていますが、それでも仏壇にお位牌が置かれるわけです。
これが神仏習合の名残りです。
神道と仏教は、もともとはまるで違う教えです。
けれど日本では、この両者が見事に融合しています。
このようなことがなぜできるのかというと、日本が二項対立と闘争の国でなく、結びや和を大切にする国だからです。
「和魂(にぎたま)」というように、「和」と書いて「にぎ」と読みますが、もともとは大和言葉の「にぎ」が先にあって、その意味に近い漢字が、後から当てられています。
「に」という訓読みを持つ漢字には、似煮熟燗などがありますが、ひとことでいえば雑煮のように、いろいろなものをごった煮するような、つまりみんな混ぜてしまうことをいいます。
「き」には、気木生黄などがありますが、外に出て広がるものをいいます。
つまり外にある様々なものを、みんなまとめてひとつにする。
それが「にぎ」です。
だから私たちの祖先は、大和言葉の「にぎ」に、漢字の「和」を後から当てたのです。
別な宗教が統合されるということは、世界ではありえないことです。
日本では普通に神仏習合と言いますが、たとえばチャイナで、道教と仏教が融合して道仏融合などという概念は生まれません。
なぜなら、基本となる文化が対立にあるからです。
我々日本人は、たいへんに古くて長い歴史を持ちます。
そして日本は、さまざまなものを、統合し、融合させて、日本文化を築いています。
それが何のためかと言えば、これからやってくるであろう未来を、極力、平和で豊かで安心して安全に暮らせる未来にしたいという明確な意思があったからです。
※この記事は2022年4月の記事のリニューアルです。
日本をまもろう!
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