日本の歴史は、西洋史や東洋史のように、王侯貴族や英雄豪傑が築いた歴史ではありません。
もちろん今回のお話は、立派な家柄の大名の妻のお話ではありますが、400年前の女性のお話です。
日本は、男女が対等、男性と同様に女性も立派な教養を持ち、上下心をひとつにして築いてきたのが日本の歴史です。
諸外国における偉人伝は、立派な人物の伝記です。
けれど、日本における偉人伝は、普通の人々の誰もが立派に生きた「おほみたから」の伝記になります。
日本の歴史に、モブキャラなんていないのです。
そして・・・人には命より大切なものがあるのです。

20220405 勝頼の妻
挿絵:『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち・武田勝頼の妻』より 画・ふかわこういちろう氏
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武田勝頼の妻は、北条氏康の6女として生まれ、武田氏と北条氏の同盟強化のために14歳で武田勝頼に嫁いで北条夫人と呼ばれました。
そして、19歳で果てました。
CGSで、神谷宗幣先生が泣かれたお話です。
それでは本文です。
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【来世を願い夫に殉じた戦国武将の妻
 武田勝頼の妻】
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▼ 夫婦は死生を同じうすべし
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 武田勝頼の妻の名は伝わっていません。北条氏康の六女であったことから、武田家では北条夫人と呼ばれていました。
 天正一〇年(一五八二)三月、織田信長が大軍で武田氏に攻めこんだ時、武田の旧臣たちが勝頼に背いたので、勝頼は百騎ばかりで城から落ちのびました。それは、夫人もようやく荷(に)付(つけ)馬(うま)に乗って、侍女らはみんなワラジを履(は)いての逃避行でした。城には敵が攻め入り火煙が天をおおっていました。
 勝頼たち一行は、天目山(てんもくざん)に遁(のが)れました。けれどそこにも、秋山摂津守が叛(そむ)いて火砲を発して襲ってきたので、鶴背のほとりの田野というところに隠れました。敵兵が潮(うしお)のように湧き出て攻めてきました。勝頼は夫人に告げました。
「武田の運命は今日を限りとなりました。
 おまえは伴(とも)をつけて、
 小田原の実家に送り届けよう。
 年来のおまえの情(なさ)けには深く感謝している。
 甲府からどんな便りがあったとしても、
 おまえは小田原で心安く過ごしなさい」
夫人が答えました。
「おかしなことを聞くものです。
 たまたま同じ木陰(こかげ)に宿ることさえ
 他生の縁と申すではありませんか。
 わけても7年。
 あなたと夫婦の契(ちぎり)を結び、
 今こうして危機に遭ったからといって、
 早々に離別されて小田原へ帰るならば、
 妾(わらわ)の名がけがれましょう。
 ただ夫婦は、死生を同じうすべし」
夫人は老女を振り返り、
「この年月は、子ができないことばかり
 嘆(なげ)いて神仏に祈っていましたが、
 今はむしろ良かったのかもと思えます。
 たとえ子がなくても
 小田原は跡(あと)弔(とむら)い給うべし
 (小田原はきっと弔ってくださることでしょう)」
 故郷への手紙には、
「女の身なればとて、
 北条早雲、北条氏康より代々弓矢の家に生まれ、
 ふがいなき死をせしといわれんも恥ずかし。
 妾(わらわ)はここにて自害せりと申せ」
そして、手紙の上巻に髪の毛を切り巻き添え、
 黒髪の みだれたる世を はてしなき
 おもひに契(ちぎ)る 露(つゆ)の玉の緒
と詠ぜられました。そして敵軍、乱れ入り、一族郎党ことごとく討たれていく時、夫人は声高く念仏を唱えて自害しました。老女もともに殉死しました。勝頼も自害して、武田の一門はこうして滅亡しました。
───────────
▼ 辞世の歌に込めた想い
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「跡弔い給うべし」という言葉は、お能の「敦(あつ)盛(もり)」の中に登場する言葉で、次のように展開されます。
 討たれて失(う)せし身の因果
 めぐり逢ふ敵(てき) 討(う)たんとするに
 仇(あだ)をば恩に 法事の念仏 弔(とむら)はば
 終(つい)には共に 生まるべき
 同じは蓮(はす)の 蓮生法師
 そは敵にては なかりけり
 跡(あと)弔(とむら)ひて 賜(たま)び給(たま)へ
 跡弔ひて 賜び給へ
現代語にすると次のようになります。
 戦いに敗れて討たれて失われるは我が身の因果でございましょう。
 めぐりあう敵は、もしかすると愛の逢瀬のようなものかもしれませんわ。
 敵を討った仇さえも、ご恩のひとつと感謝して念仏を唱えましょう。
 そうすれば、次の世に、きっと二人仲良く生まれ変わることもできることでしょう。
 互いに同じ蓮の根につながる魂でございます。
 敵も味方もありませぬ。
 どうか、あとの弔いを頼みますね。
「めぐり逢ふ敵」に、男女の逢瀬を意味する「逢ふ」という字が使われているので、「めぐりあう敵は、愛の逢瀬のようなもの」と訳させていただきましたが、語感としては、これが最も正しい訳であろうと思います。たとえ自分の命を失うことがあっても、そこに愛を見出す。これこそが日本的な価値観といえます。
 死ねば魂が肉体から離れ去ります。だからこれを「逝去(せいきょ)」といいます。「逝」という字は、「折」がバラバラになることを意味し、「辶」が進むことを意味します。肉体と魂がバラバラに離れて去って行くから「逝去」です。
 魂の行く先は、時間に縛られた低次元の世界から、時間を超越した高次元の世界です。勝頼の妻の辞世の歌は、そういう理解の上に成り立っています。
 歌にある「玉の緒」というのは、魂の緒のことです。魂は紐で肉体とつながっていると考えられていましたから、玉の緒が離れることは、死を意味します。露と消える玉の緒であっても、ひとつの思いは消えることはない。その消えない思いというのが、
「夫である勝頼と今生では乱れた黒髪のような乱世を生きることに成ってしまったけれど、きっと来世には平和な時代に生まれて、一緒に仲良く、長く一緒に暮らしましょうね」という句になっています。
 そして「黒髪の乱れる」は、和泉式部の歌から本歌取りです。
 黒髪の 乱れもしらず うち臥せば
 まづかきやりし 人ぞ恋しき
失っても失っても、それでも一途に愛する想いを大切にするところで使われる語です。
「玉の緒」は式子内親王の歌から本歌取りしています。たとえ露と消えて死んでしまっても、大切なものを護り通して行きたいという想いがこめられた語です。
 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
 忍ぶることの 弱りもぞする
たとえ露と消えて死んでしまっても、大切なものを護り通していきたいという想いが込められた句です。
 この時、勝頼の妻、わずか十九歳です。
 今から四百年も昔の戦国時代。現代日本人の感覚としては、戦国時代というのは、有史以来最も国が荒れた時代とされますが、そんな時代にあってなお、若い女性がこれだけ高い教養を持ち、そして男も女も純粋に必死で生きていたのです。
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日本の歴史は、西洋史や東洋史のように、王侯貴族や英雄豪傑が築いた歴史ではありません。
もちろん今回のお話は、立派な家柄の大名の妻のお話ではありますが、400年前の女性のお話です。
日本は、男女が対等、男性と同様に女性も立派な教養を持ち、上下心をひとつにして築いてきたのが日本の歴史です。
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