11月15日ねずさんの出版記念会(於・靖国神社)開催
  お申込は→https://ssl.formman.com/form/pc/sA2GTYjfCudWZMJ4/

何が正しくて、何が間違っているのかという議論は、すでに設問の時点で、二者択一的、もしくは二項対立的なものの見方になっています。それが間違いです。
なぜなら多くの場合、正義が悪かの二極端にあるのではなく、その中間に真実があるからです。
「これが正義だ、これが悪だ」と決めつけてしまうと、真実が見えなくなってしまいます。
だから「事実を論理的かつ合理的に再構成して学びを得る」ことが大事になるのです。

20201030 富士山
画像出所=https://4travel.jp/travelogue/10397308
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


人気ブログランキング
応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。
歴史とは、「過去に起きた事実」を、「後の世に再構成して書かれたもの」のことを言います。
ここがよく間違われる点です。
歴史は「書かれた」ものであり、「後の世に再構成」したものなのですから、当然、書かれた時代の「必要」が反映したものになります。
「必要」が反映しているのですから、それは「書かれた歴史は必ずしも真実を伝えない」ということでもあります。
早い話、戦後の日本の歴史学における近現代史がその典型です。
日本悪玉説、日本軍侵略説などがありますが、日本の学者が堂々と、自分たちの親兄弟の行いを非道と決めつけ、声高に非難したし、そうしなければ学界を追われてしまうという危機もあり、そうした時勢の「必要」から、論拠に乏しい悪玉説、侵略説などが「歴史」とされてきています。
このことは、西洋史、東洋史とも、王国の盛衰を描いた史書も同様です。
実際に起きた出来事は、たとえばA国の慈悲深いA国王に、些細なことで叱られて腹を立てた日頃から粗暴なBが、A国王の寝所を襲って殺害し、自らが国王を名乗り、反対する者たちを虐殺した・・・というものであったとしても、結果としてそれでB王によるB国が誕生すれば、そこで書かれる史書は、もともと悪人だったB王こそが善玉で、慈悲深いA王は、悪辣で国を滅ぼした無能な王ということにされてしまいます。
これがよく言われる、「歴史は勝者によって書き換えられる」というものです。
ところが、こうした解釈は、必ず歴史の再現性を失います。


上に述べた粗暴なBは、王になったあとに、いくら史書で「偉大なB王」などともちあげても、やはり粗暴でしかないし、Bに殺された慈悲深い王であるAは、やはり死後もその遺徳を慕う人たちがいるし、そもそもB王の横暴な粛清に、A王派の人たちが抵抗しなかったということは、それだけA派の人たちがおとなしかった可能性を示唆します。
なぜなら、人は主君に似るものだからです。
すると粗暴なB王が、自らを讃える史書を書かせたとしても、その史書の端々には、やはりBの粗暴やA王の慈悲があらわれてしまう。
つまり歴史の記述に無理が出る。
歴史が、過去の事実の「再現性」を失うのです。
この「再現性」の有無が、歴史がただの作文なのか、それとも科学的考察なのかの境目になります。
作文は「再現性」が乏しく、それは論理的、合理的な「歴史」とは言えないからです。
そして論理的で合理的であることが科学的であることの要件です。
もちろん人は、必ずしも合理的・論理的な行動をするものではありません。
けれども、合理性や論理性を失うということは、歴史の再現性を失うということです。
そして再現性を失ったのなら、それはもはや学問ではなく、ただの小説になります。
同じことは古典文学の解釈にも起こります。
たとえば我が国の万葉集や百人一首などの和歌集は、我が国の文化の基礎を担ったたいへん意義深いものです。
ところが明治以降の文明開化運動のなかで、江戸時代までの深い解釈は、単に「つまらないもの」とされ、さらに万葉集や百人一首などに掲載された和歌は、ただの男女の恋物語にされてしまいました。
戦後はそれがさらに、同じ方向で深堀りされ、結果、万葉集も百人一首も、解説書を読めば読むほど、その和歌がただの恋愛慕情不倫演歌のようなものにされています。
私は、古典の解釈にせよ、歴史の解釈にせよ、常に合理的で論理的、再現性を最大値にまで高めたいと願っています。
そうすることで真実により近付きたいと思うからです。
しかしそのことは、これまでの解釈を全否定するということとは異なります。
従来説もひとつの見方であって、決してそれは「間違ったもの」ではないからです。
そもそも理系と異なり、文系の学問というのは、正しい解というものがありません。
考えることそのものが学問なのであって、出てきた答えが100通りあるなら、その100通りのすべてが、正しいのです。
ですから「正しい歴史認識」とか「正しい古典解釈」などいうものはありません。
諸論の違いは、再現性、論理性、合理性の違いだけなのですから、あとはどのような解釈や認識が、もっともその時代の「必要」に見合っているのかというだけのことでしかありません。
米国では、いまでも先の大戦は「太平洋戦争(The Pacific War)」であり、侵略国であった日本を米国という英雄が叩きのめしたというのが彼らにとっての歴史認識です。
ではそれが間違っているのかといえば、それは「彼らにとっては」正しい認識です。
なぜなら、それは彼らにとっての「必要」だからです。
では、日本人にとっての「必要」は、どのような認識でしょうか。
それは米国の歴史認識と同じものでしょうか。
米国との摩擦を避けたいという「必要」から、米国と同じ認識であるべきだ、とする人たちもあることでしょう。
そうではなく、日本人としての誇りを育み、日本を真の独立国家にしたいという「必要」を感じる人たちからすれば、米国とは異なった歴史認識が「必要」です。
これらは、どちらが正しいというものではなく、実はどちらも正しいのです。
これを、どちらか一方だけが正しく、他は間違っているとすると、かえって真実は見えなくなります。
また、歴史をケーススタディとして「学ぶ」ことができなくなります。
そうではなく、物事をトンボの目のような「複眼的思考」をもって考える。
そうすることで、いままで見えなかった様々なものを、これまで以上に重層的に見ることができます。
つまり視野が広がります。
実は、これこそが、人が本来学ぶべき「問題解決法」です。
生きていれば、必ず問題に行き当たります。
そして、人生における様々な問題には、必ず原因があるものです。
そして、同じ原因と行動からは、同じ結果しか生まれないからです。
そうであれば、原因や原点に立ち返り、その行動を見直し、それらを別な角度から、再構築してみる。
そうすることで、いままで見えなかった問題点の構造が明らかになったり、問題解決の糸口が見つかったりするものです。
これは・・・必ず見つかります。
なぜなら神々は、乗り越えられる試練しかその人に与えないからです。
このことは、歴史や古典といった分野における真実へのアプローチの手法と、実はまったく同じものです。
何が正しくて、何が間違っているのかという議論は、すでに設問の時点で、二者択一的、もしくは二項対立的なものの見方になっています。それが間違いです。
なぜなら多くの場合、正義が悪かの二極端にあるのではなく、その中間に真実があるからです。
「これが正義だ、これが悪だ」と決めつけてしまうと、真実が見えなくなってしまいます。
だから「事実を論理的かつ合理的に再構成して学びを得る」ことが大事になるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行でした。

人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。

nezu3344@gmail.com
 最新刊

《塾・講演等の日程》
どなたでもご参加いただけます。
2020/11/15(日)13:00〜15:30 日本書紀出版記念(於:靖国会館)
 https://www.facebook.com/events/269322421064039/
2020/12/19(土)13:30-16:30 第76回倭塾(於:富岡八幡宮婚儀殿)
 https://www.facebook.com/events/337364737249840/
20200401 日本書紀 ◆ニュース◆
最新刊『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』2020/9/19発売。
『[復刻版]初等科国語 [高学年版]』絶賛発売中!!
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』絶賛発売中!!
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』絶賛発売中。

『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


          
  

コメントは受け付けていません。