古代の日本では、豪族たちはみんな親戚なのですから、親戚同士で「征圧」や「征服」をしたら、なんとも後味が悪い。だいたい親族間の恨みというものは、幾世代にもわたって、ずっと尾を引くものです。
そこで考案されたのが、わが国独自の、助け合うことで国をひとつにまとめるということです。これには、日本列島が天然の災害の宝庫であることも関係しました。
こうして日本は、世界に類例のない、たすけあい国家を築いてきたのです。これはとっても誇らしいことです。

20200925 モアナ
画像出所=https://entertainment-bridge.com/moana/
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小名木善行です。
日本は、世界一歴史の古い国です。
日本という国号のはじまりは、持統天皇が689年に発せられた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)です。
ここに最初に「日本」という国号が文字として書かれました。
それより以前は、外国では倭国、我が国では葦原中国(あしはらのなかつくに)、または大倭(おほやまと)と呼ばれています。
ですから「日本」の読みも、本来はこう書いて「やまと」と読みます。
「やまと」の表記は、「倭(やまと)」であったり、「大和(やまと)」であったり、秋津島(やまと)であったりしましたが、最終的に持統天皇の御世に、「日本」という表記で確定したわけです。
このため、いまでも「日本」と書いて「ニホン」と読むのか、「ニッポン」と読むのか確定していません。
結局、どちらの読みも正しいとされています。
この「日本」という国号が唐の国に伝わり、その後に成立した元の大帝国の時代に、元の首都である大都にやってきたマルコポーロが、元の言葉で「日=ジツ」、「本=ポング」と発音されていたものを、彼がイタリア語で「ZIPANG」と書き、それがヨーロッパに伝わって、英語圏では「JAPAN」と訳されました。
7世紀に成立した国号が、現代でも使われているのは、世界でただ一国、日本だけです。
たとえばチャイナの場合なら、7世紀には国号が唐です。
19世紀なら、国号は清です。
ですから、その時代に唐国人や清国人はいましたが、中国人はいません。
中国人が生まれたのは、チャイナに中華民国が成立したとき、つまり1912年になってからのことで、まだ108年しか経っていません。
俗に言う中国5千年の歴史などというものは存在しないのです。
このように書くと、あたかも筆者が民族主義者であるような印象を与えるかもしれませんが、もともと大昔には、世界に国境などなかったのです。
日本のように古い国では、そこから解き明かしていかなければならないというのが、筆者の持論です。
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つまり世界の諸国は、いわゆる歴史時代が始まってからの歴史だし、しかもその多くは20世紀になってから、ようやく国になっています。
つまり有史以来の歴史しかないわけです。
ところが日本の場合、有史以前の時代から、一貫して続く歴史が保たれています。
要するにとてつもなく日本は古い。
そして世界において、この「古い」ということが、なによりも大きな権威を持つのです。
その意味で、日本人は自国の古さを、もっと明確に認識する必要があるといえます。
やまと人は、いまわかっているだけで、3万8千年前には外洋航海の術をもち、2万年前には大洋を往来する海の人であったのです。
それが1万6千年前までの海面上昇によって、地形が現在の地形に近いものとなり、多くの島々が海中に没したため、日本列島を中心に住み着くことになりました。
それでも優れた航海術を持つやまとの人たちは、海洋を東に西にと往来し、この結果、南米や中米、北米、アフリカや中東からも、縄文式土器が出土しています。
もっといえば、古代エジプトの伝説の都であるスサは、文明の中心地であったのだとか。
魏志倭人伝や梁書には、倭人(やまとびと)が住む国は、日本列島から海を遠く1年渡った先にまであったと書かれています。
それがどこの国を指すのか、複数の証拠が、その地を南米のエクアドルかペルーあたりであったことを示しています。
こうしたことが何を意味しているかと言うと、今のような国境など存在しなかった時代、海洋国家日本にとっての葦原中国、つまり倭人たちにとっての世界は、いまでいうなら「大海原に広がる世界」を意味していたことになります。
古事記を読み解くと、どうやらオノゴロ島は「地球」そのものを意味しているようですし(『ねずさんと語る古事記』)、大倭という言葉も、もしかすると大海原にひろがる倭人たちの国、という意味であるのかもしれないし、それ以上に巨大な地球上の海原の世界を意味したのかもしれません。
そしてそうした人々の国が、飛鳥時代に、日本列島内をあらためて日本としたわけですが、実は、その日本という国号よりも、天皇という呼称の方がさらに古い。
天皇という用語がはじめて国際文書に登場するのは、608年の隋への国書です。
そこに「東天皇敬白西皇帝」と書かれました。
これについては、その記述が「720年に成立した日本書紀にしかない」という反論がありますが、それを言うなら、銘文として607年に成立した「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に「池辺大宮治天下天皇」の記述があります。
他にも「野中寺弥勒思惟像台座銘」に、
「丙寅年四月大旧八日癸卯
 開記橘寺智識之等詣
 中宮天皇大御身労坐之時
 誓願之奉彌勒御像也友等
 人数一百十八
 是依六道四生人等此教可相之也」
という記述があります。
意味は「666年4月に斉明天皇のご健康のためにこの弥勒菩薩像の開眼供養を118名で行った」というもので、ここにも「天皇」という文字が書かれています。
つまり天皇という呼称は、607年〜666年の頃には、確実に用いられていたわけです。
ということは、日本という国号の初出が689年ですから、「天皇」は「日本」より古いということになります。
日本は、天皇あっての日本なのです。
では、なぜ大倭や中つ国という表記を、わざわざ「日本」という表記に改めたのでしょうか。
これには663年の白村江事件における敗戦が影響しています。
このときに日本は朝鮮半島における権益を放棄し、朝鮮海峡に国境線を敷きました。
つまり海峡上に、明確な国境線を引いたのです。
実はこのこともまた、世界において、きわめてめずらしいことです。
なぜなら18世紀に、いわゆる「国民国家」が成立するまで、世界には明確な国境ラインがなかったからです。
王の居所とその周辺、および、王に従う貴族の支配する領地が王国のエリアであって、隣の王国との境のあたりにいる人々にとっては、自分たちがどっちの王国の人なのかなど、ほとんど意識されることはありませんし、早い話、ヨーロッパの王国の領地は、飛び地といって、他所の国の真ん中に、別な王国の領地があったりする。
要するに、王国の領土というのは、たとえは悪いですが、いまふうにいえば、ヤクザさんの「シマ」とか「ナワバリ」みたいなもので、「ワシは渋谷の王だ」、「オイラは新宿の王だ」と言う人はいても、では渋谷組と新宿組の境界線がどこなのかは、判然としないし、新宿に渋谷の王のお店があったり、その逆もあったりするわけです。
それが近世までの世界です。
ところが日本は、7世紀に国境線を引いているわけです。
つまり国境という概念を、これはもしかすると世界で最初に用いたのが、日本であったのかもしれません。
ちなみに、どうして朝鮮海峡に国境線を引いたのかというと、ものすごく簡単に突き詰めて言うと、もうコリゴリだったからです。
チャイナに唐が成立したけれど、唐は高句麗が怖い。
そこで唐は、お得意の「遠交近攻」で、高句麗を挟み撃ちするために、高句麗の向こう側にある新羅に兵を送り、百済を攻め滅ぼして、半島南部を(表向きは)新羅の征圧地、実態は唐の領土にしました。
ところが倭国が、百済救援軍を起こして、これに抵抗する。
これは本来なら、あくまで「百済と新羅の戦い」です。
ところが戦っているのは、なぜか日本と唐です。
これはおかしな話です。
しかも後ろ押しした百済の王子まで、結局、高句麗に逃げてしまう。
これでは戦う意味などありません。
そこで日本は、唐と結んで白村江から全軍を引き上げることにしたところ、その引き上げの当日に新羅がだまし討ちで日本の船に火を放って日本の将兵1万人が亡くなりました。
これが有名な白村江事件ですが、もう二度と、そんな嘘つきたちと付き合いたくない。
だから日本は、663年に朝鮮海峡に国境線を敷いたのです。
そして九州の筑前に大宰府を起きました。
太宰府というのは、「おおいに辛い(厳しい)役所」という意味です。
わざわざそんな名前にしたのは、半島からの人など、二度と日本に来てほしくなかったからです。
さらにいえば、世界のなかで日本だけが、たすけあいを軸にして成立した国家です。
世界中、どの国においても、特定の王朝が国内を支配しようとするときは、すべて力による征圧が用いられています。
これは、簡単に言えば、「さからう者には死を」ということです。
ヨーロッパの場合であれば、王や貴族の多くは、もともと北方のバイキングの海賊が、岡に登ってそのあたり一帯を征服した征服者です。
周囲にもとから住む住民とは、民族も言語も違います。
この時代、民族と言語が違えば、相手はただの動物にすぎません。
ですから、言うことを聞かなければ、殴り、蹴り、殺すだけです。
世界の支配はそうやって行われました。
チャイナも同じで、中原で漢族同士が長年紛争を続けていることで迷惑した北方遊牧民が打ち立てたのが隋であり、唐の大国です。
前にも書きましたが「隋」という字は、食肉にナイフを突き立てていることを意味する漢字、「唐」も、肉に手でナイフを突き立てている象形です。
要するに隋の王朝を築いた人たちは、肉食の人たちであって、稲作をする農民社会によって打ち立てられた王朝ではないことが、その国号から知ることができるわけです。
ということはつまり、外来王朝だ、ということです。
ところが日本の場合、日本列島に住む万民が、すべて祖先をさかのぼると、みんな血縁者です。
このことは、それぞれの豪族が持つ神話を紐解くと、それぞれニニギノミコトに従って降臨した神の子孫だとか、大国主神の系列の子孫だとか、要するに神代の昔までさかのぼると、どの豪族たちもみな、なんらかの血の繋がり
がある。
つまり日本では、豪族たちはみんな親戚なのですから、親戚同士で「征圧」や「征服」をしたら、なんとも後味が悪い。
だいたい親族間の恨みというものは、幾世代にもわたって、ずっと尾を引くものです。
そこで考案されたのが、わが国独自の、助け合うことで国をひとつにまとめるということです。
これには、日本列島が天然の災害の宝庫であることも関係しました。
こうして日本は、世界に類例のない、たすけあい国家を築いてきたのです。
これはとっても誇らしいことです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行でした。

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