| 日本には、上古の昔から続く、究極の民主主義があります。 それは、民をこそおほみたからとする、シラス統治です。 小手先の憲法改正論以前に、もともと日本が持っていたこの究極の民主主義についての理解を、国民的常識にしていくことが必要です。 そしてそれこそが、神々の望む日本の姿です。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。
タイトルの答えは、日本です。
これが実現できた国は、世界の歴史を通じて、日本だけです。
なぜ日本にそれができたのかといえば、日本が、一度も他国による支配や侵略を受けたことがない国であったからです。
ただし、戦後の日本は、これと異なります。
世界の歴史を振り返ると、民族が皆殺しの憂き目に遭う危険が伴う世界では、民族が国家としてまとまることで外敵を打ち払うためには、国家の中心に権力を置くという社会形態を構築するしかなかったといえます。
だから世界には国ができたし、王国が生まれたし、同盟や朝貢なども行われました。
ところが人には欲望があります。
そして権力には腐敗が付き物です。
結果として、権力者だけが贅をつくした生活を送り、民衆は貧困にあえぎ、私的に支配され続けるということが世界の常態となりました。
さらには権力が自国民を虐殺したりしてきたのも、世界の歴史にはあたりまえのようにあることといえます。
とりわけ日本のすぐ隣りにある半島では、つい60年前ほどにも、自国の大統領が自国民を大量虐殺するなどということが公然と行われました。
このことは、誰がどう見ても、国民の国家への忠誠心を失わせる事件であったわけですけれど、その国では、そうした一連の自国の大統領による蛮行を、すべて日本のせいにし、日本にされたことにすることによって、なんといまでも政権を維持しています。
これはこれで驚くべきことといえます。
また、ほんの30年ほど前には、その向こうにある自称大国が、民主化を求める自国の学生たちを戦車で大量に轢き殺すという蛮行も行われました。
しかしそのような蛮行さえも、その国の建国の父とされる《偉大な》毛沢東の億単位での殺人からみたら、まだ可愛いものでしかないというのが、その国の実情だし、いまもなお、チベット、ウイグル、内モンゴルで同様の虐殺行為が行われ、さらに自国内でも法輪功の学者たちが、きわめて残酷な被害に遭い続けています。
西洋史においても、英雄はいつしか権力者となり、結果として民衆が望むものは、いつの時代においても常に「権力からの自由」であり続けました。
権力に刃向かい、権力を打倒した英雄が、結果として権力者となって人々を支配する。
ですから西洋の人々にとっては、自由は、まさに見果てぬ夢であり、坂の上にある手の届かない雲であり続けたわけです。
このことは、19世紀以降に中心をなした民主主義においても同じです。
なるほど近代民主主義は、国家は民衆が形成するものであり、民衆こそが国家を担う者だから、その民衆の選挙によって国家の代表を選べば、民衆に自由と幸せがやってくるに違いないと、自由や博愛精神や市民の平等を高らかに民衆の権利として謳(うた)い上げることで形成されました。
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ところがその近代国家は、政治権力と、これに結びついた商業資本によって操られ、気がつけば、かつての王国の時代では考えられなかったような市民への大量殺戮が公然と行われるようになりました。
これが二度に渡る世界の大戦であり、いまなお富は偏在し、選挙は利権の戦いとなり、政治権力と商業資本が富と権力を寡占し、結果として末端にある民衆は飢餓と病によってひたすら収奪され続けているというのが、世界の実情といえます。
こうした世界にあって、いったいいつの時代にはじまったのかさえもわからないはるか昔から、我が国では、国家最高の存在を「権威」とし、その権威によって末端の国民を「おほみたから」とする国作りが行われてきました。
これを「シラス」と言います。
シラス社会にあって、政治権力者の下にある民衆は、政治権力者よりも上位にある国家最高権威の「たから」と規定されます。
その国家最高権威は、政治権力を持ちません。
こうすることで、民衆は、国家最高の「たから」となり、権力者は常に「民衆のために働くもの」ということが常態化したのです。
そしてこのことが示すことは、ただひとつです。
それは「民衆が国家最高権威によって権力からの自由を与えられてきた」ということです。
日本人は、太古の昔から、まさに自由の民なのです。
仁徳天皇の物語に、仁徳天皇の減税によって、人々の生活が豊かになったときの逸話が書かれています。
豊かになった人々は、仁徳天皇という国家最高権威によって、自分たちが豊かさを取り戻すことができたことに感謝し、荒れ果ててしまっていた皇居の整備に、こぞって馳せ参じたという記述が日本書紀にあります。
また、平安中期の伊勢神宮の斎主であり、神祇大副であった大中臣能宣(おほなかとみのよしのぶ)は、
御垣守 衛士の焚く火は
夜は燃え、昼はきえつつ、ものをこそ思へ
と歌いました。
歌の意味は、皇居の門番を、無給であるにも関わらず、進んで買って出てくれている民衆が、一晩中不寝番で篝火(かがりび)を絶やさず、また日中は篝火は消すけれど、その不動の姿勢を崩さない。
民は、自分たちが豊かに暮らせる(都までの旅費も宿泊費も食費も全部自前)ことが、天皇の存在のありがたさによって、自分たちが権力からの自由を得、またそれによって豊かに安心して安全に暮らすことができることへの感謝を、こうした門番を含む勤労奉仕で捧げてくれている。
その民の気持を、思いを、我々政治を担う貴族はしっかりと受け止めていこうではないか。
という意味です。
一部の貴族や豪族、あるいは政治権力者や富者・長者といえる人たちだけが富や権力を独占し、寡占し、結果として民は絞られるだけ搾り取られるという搾取社会と、天皇という国家最高権威によって、末端の民こそが「おほみたから」とされる社会では、雲泥の差です。
いまでも多くの日本人は、道や電車で財布を拾えば、黙ってそのまま警察に遺失物として届け出をします。
一昔前の日本人なら、たとえば明治時代に日本にやってきたイザベラ・バードは、旅館に大切なものを置き忘れたとき、それを黙って日本人の馬子が届けてくれて、謝礼を渡そうとしたけれど、馬子が決して謝礼を受け取ろうとしなかったことに、たいへんな驚きをもって、その事実を手記に遺しています。
なぜそのようなことが起こるのかといえば、我が国では古来、権力は民衆のためのものという共通認識が根底にあるからです。
東日本大震災の際に被災地の日本人が実に整然と行動したことに世界から絶賛が寄せられましたが、国に対する民衆の絶対の信頼が根底にあればこそ、このような行動が自然の行動となって現れるのです。
国が信頼できず、権力がただの収奪機関としか認識されない社会では、人々は自分が生き残るために暴動を起こしてでも自分や家族のための食べ物を自分で確保しなければならなくなるのです。
英国のチャーチルは、
「民主主義は最悪の政治である。
これまで試みられてきた、
民主主義以外の
全ての政治体制を除けばだが」
という有名な言葉を遺しました。
素晴らしい言葉だと思いますが、チャーチルが日本のシラスのシステムを知っていたら、もっと別な言葉になったのかもしれません。
日本には、上古の昔から続く、究極の民主主義があります。
それは、民をこそおほみたからとする、シラス統治です。
小手先の憲法改正論以前に、もともと日本が持っていたこの究極の民主主義についての理解を、国民的常識にしていくことが必要です。
そしてそれこそが、神々の望む日本の姿です。
おわりにひとつ。
このようなことを申し上げると、「いやいやそんなことはないよ。日本だって歴史を振り返れば問題の連続だったんだよ」などとおっしゃる方がおいでになろうかと思います。
そういう認識自体が間違いなのです。
問題というものは、なくてはならないものなのです。
ものごとが動いていれば、問題は必ず発生するからです。
つまり「問題がある」ということは、「ものごとが動いている」ということの証(あかし)です。
逆に「問題がない」というのは、物事が動いていない・・・つまり何もしていないか、問題がないと強弁しているだけの状況ということになります。
従って、問題というのは、なければならないものです。
そして問題は、単に解決のために努力をすればよいだけのことです。
そもそも神々は解決不能な問題は与えないのです。
こうした次第ですから、いたずらに「問題だ、問題だ」と騒ぐのは、解決の努力をせずにただ騒ぎ立てるだけの、無責任な子供のすることです。
大人と子供の違いは、問題解決のための責任性の自覚の有無にあります。
大人なら、むしろ積極的に問題点を先取りし、事前に手を打っていくべきです。
それを問題が起きてから「問題だ」と騒ぐのは、ただの責任逃れでしかないし、幼児の行動と同じです。
ましてはひとつの問題にいつまでも固執して、栲衾(たくぶすま)のように騒ぎ立てるのは、幼児的固執性のあらわれであって、大人がそれをするなら、それは精神の病気でしかありません。
企業や団体等においても、この種の「問題がある」といって「たいへんだ、たいへんだ」と騒ぎ立てる人がいます。
あるいは問題が起きたからと、いたずらに部下に責任をなすりつける人がいます。
なかには起きた問題を、部下の人格問題とすり替える人もあったりします。
いずれも責任逃れの無責任者の振る舞いです。
責任ある大人なら、問題が起きる前に手を打つべきだし、それでも問題が起きたなら、むしろ問題点が明確になったと喜んで、皆で協力しあって問題を解決していくことが大事です。
その意味で、よく問題を起こす社員というのは、むしろたいへん一生懸命仕事に打ち込んでいる社員である、ということができます。
そして問題が起きたとき、皆で協力し、知恵を出しあって問題の解決にあたることによって、問題を起こした者もまた成長するのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行でした。

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