| 藤井教官は、事件の直後に、あらためて特攻を志願しました。 今度は自らの小指を切って、血書嘆願しました。 今度ばかりは、軍も諸般の事情から志願を受理しました。 パイロットではない者を特攻兵として受理したのは、前代未聞の「異例」のことでした。 藤井一教官は、妻子の待つ黄泉の国に旅立ちました。 それは終戦の僅か2ヵ月半前のことでした。 藤井教官は、ようやくやっと学生たちと交わした約束と、娘一子に 書いた手紙の約束を果たすことができました。 それは、妻子三人が荒川で命を絶った師走の15日から、わずか5ヵ月後のことでした。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。
朝夕はすこし気温が下がりましたが、まだまだ日中の気温は30度を上回る厳しい残暑が続いています。
本当に暑い日が続きますね。
さて、今回のお話は、寒い冬の出来事です。
昭和19年12月15日の早朝、埼玉県熊谷市を流れる荒川に、若い母親と晴れ着を着た二人の女の子の遺体が上がりました。
ご遺体は、藤井ふく子さん(24歳)と長女一子さん(3歳)、次女千恵子さん(1歳)と判明しました。
夫は、藤井一(ふじいはじめ)さんといって、熊谷陸軍飛行学校の中隊長(教官)です。
茨城県のご出身で、農家の7人兄弟の長男で、親は家業を継いでほしかったようですが、本人は陸軍歩兵に入隊し、特別に優秀だということで、推薦を受けて転科して陸軍航空士官学校に入校。
卒業後、熊谷陸軍飛行学校の中隊長(教官)に任官されました。
勤務する学校は航空学校でしたが、藤井教官はパイロットにはなれない教官でした。
なぜかというと、歩兵科機関銃隊だった頃に、Chinaの戦線で迫撃砲の破片を左手に受け、操縦桿が握れない手になってしまっていたからです。
ですから「精神訓話」を担任しました。
藤井教官は熱血漢で、
「事あらば敵陣に、
敵艦に自爆せよ。
俺もかならず行く」
というのが口癖でした。
藤井教官の授業は厳しい中にも愛情があって、生徒たちからとても慕われました。
それはまだ、特攻作戦や玉砕戦が行われるよりも以前の出来事です。
戦局は厳しさを増していきました。
そして「特攻作戦」が開始されました。
特攻兵となった生徒たちにより、藤井教官の口癖は、その通りに実践されました。
あの純粋な教え子たちが、次々と特攻出撃して行きました。
「このままでは自分は教え子との約束を果たすことはできない」
仕事として教えることと、自ら特攻することとは異なります。
ですから他の教官たちは、なんの疑問も矛盾も抱かずにやっていることです。
しかし責任感が強く、熱血漢だった藤井教官は、自分が安全な内地で教官をしていることに堪えられない苦痛を感じていました。
内地で敵弾の届かないところにいる自分が許せなかったのです。
将来あるはずの純粋な教え子たちが、自分の教えを守って、つぎつぎと毎日、敵艦に突っ込んで行くのです。
あいつも、あいつも、あいつも、あいつも・・・
俺はここで、いつまでもこんなことをしていていいのか。
生徒に言った言葉は、教師である俺と、生徒たちとの誓いだ。
命をかけた誓いだ。
男の誓いだ。
藤井教官は、どうしても、その誓いを破るわけにはいかないと思いました。
彼はみずから「特攻」を志願しました。
しかしそれは受け入れられないことでした。
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まず第一に、藤井は教官であってパイロットではありません。
それに左手に傷害があり、操縦かんが握れません。
そして妻と幼子二人をかかえています。
学校でも重要な授業を担当しています。
しかも郷里に帰れば、農家の長男坊です。
軍としても、藤井中尉の志願は受け入れられるはずもありません。
しかしそれでも藤井教官は、生徒達との約束を守るため、断られても、断られても特攻を繰り返しました。
ある日、妻のふく子さん(当時24歳)が、夫がそんな交渉をしていることを知りました。
「どうして・・・」と仰天しました。
愛する夫なのです。
二人の幼な子もいるのです。
どこの世界に、愛する夫の死を望む妻がいるのでしょうか。
夫の特攻など、絶対に認められることではありません。
軍人の妻なのですから、夫の死は覚悟のうえです。
しかし天命や任務ならいざ知らず、ただ責任をまっとうしたいというのなら、それは自殺です。
ですから妻のふく子さんは毎日、夫を説得しました。
当時、藤井夫妻は、荒物問屋を営む中島家の離れを借りて暮らしていて、陸軍飛行学校までは自転車で通っていました。
家族は、夫・一(はじめ)、妻・ふく子、長女一子(三歳)、千恵子(生後四ヵ月)の四人家族です。
説得だけじゃなくて、哀願もしました。
ときには泣いて言い争いもしました。
ふく子さんの実家は、高崎市の商家です。
三女として生まれた彼女は、ピアノや歌もたしなむお嬢さん育ちでした。
けれど戦争がはじまると、彼女は率先して野戦看護婦として勤務する、気丈な女性でもあったのです。
藤井教官と知り合ったのは、藤井教官がChinaで負傷したときのことでした。
野戦病院に勤務するふく子さんと、戦傷者である藤井さんとの、それが最初の出会いでした。
共に使命感を抱いた男女です。
使命感を持つ男女には輝きがあります。
二人は大熱愛のうえ、結ばれて結婚しました。
誰もがうらやむ、仲の良い夫婦でした。
そして二人の間には、愛児二女が生まれています。
夫は傷病者でありながら、陸軍の中隊長にまで出世して、飛行学校の教官になりました。
けっして豊かではないし、贅沢はできない。
戦時中だから、何かと苦労も多い。
けれど二人の生活には、そこに愛という小さな幸せがあったのです。
なのにどうして、任務を離れてまでして、特攻を志願しなければならないのか。
もちろんふく子さんに、夫の気持ちは痛いほどわかります。
夫は、こよなく教え子たちを愛しているし、真面目な人だから、教え子たちとの約束を守りたいと思う。
その気持ちも十分にわかります。
教え子たちが可哀相という気持ちもわかります。
教え子たちに申し訳ないと思う、夫のやさしい気持ちもわかります。
しかしそれは、戦時下の教官のみならず、およそ上官という立場なら、誰もが背負っている思いです。
その思いを圧(お)して、それぞれの職掌のもとで、それぞれの戦いをするのが戦争なのです。
司令官だって、参謀だって、みんな同じ思いを負って、歯を食いしばって戦っているのです。
戦争による死は、ただの感情の発露であってはなりません。
それなのにどうしてあなただけが、逝かなければならないのですか?
子供のことはどうするのですか?
どうして遠くばかりを見ているのですか?
子供たちの将来はどうするのですか?
あなたは私のことを愛してないのですか?
ふく子さんは、ふく子は誠心誠意、夫の心を取り返そうとしました。
妻として、女として、母としての、それはあらん限りの愛と知恵の彼女の「戦い」でした。
彼女は、二人の子供を盾にしてまでも戦いました。
それは彼女にとって、命がけの戦いだったのです。
でも、夫の決意は変わりませんでした。
ふく子さんは、敗北を悟りました。
そして彼女は決断しました。
夫が週番司令として一週間宿泊勤務し、家を留守にした日、夕暮れを待って、ふく子さんは机の上に夫宛の遺書を置きました。
そして、二人の子供に晴れ着を着せ、自分も身仕度をしました。
12月です。
荒川の冷たい川辺に着いたふく子さんは、次女千恵子ちゃんを背中におんぶし、長女一子ちゃんの手と自分の手をひもで結びました。
翌朝、母子三人の痛ましい溺死体が、近所の住民によって発見されました。
遺体はすぐに藤井教官の妻と子であることが判明し、熊谷飛行学校に連絡されました。
知らせを受けた藤井教官は、同僚の嶋田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけました。

車の中で、藤井教官は、
「俺は、今日は涙を流すかも知れない。
今日だけはかんべんしてくれ、解ってくれ」
と、ひとことだけ、呻(うめ)くように言ったそうです。
嶋田准尉には、慰めの言葉もありません。
到着した師走の荒川べりには、凍てついた風が容赦なく吹きつけていました。
歯が噛み合わないほどに寒い。
流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、ふく子さんの最後の願いを物語るように、三人いっしょに 紐で結ばれたまま蝋人形のように並んでいました。
藤井教官が三人の前にうずくまりました。
やさしく擦るように白い肌についていた砂を手で払いました。
藤井教官は背が高く、がっしりした体格で、柔道も剣道も射撃も堪能な男でした。
広く大きくて、いつもは豪快な藤井教官の背中が、そのとき、小さくなって呻くようにふるえていました。
嶋田准尉は茫然と立ちつくすだけで、声も出なかったそうです。
藤井教官の深い悲しみだけ が、じかに伝わってきて息苦しいほどでした。
三人の遺体は、藤井教官の自宅に運ばれました。
嶋田准尉の妻が、事件を知って駆けつけてくれました。
藤井教官の家はいつもと違って、人を寄せつけないものものしい空気が漂っていました。
すでに日も落ちて暗くなっていたけれど、窓という窓には 軍隊用の毛布が張りめぐらされていました。
そこに軍の幹部の人たちが何人も詰めかけていました。
緊張したただならぬ 気配がたちこめていました。
その家の中で、ふく子さんと一子と千恵子の三人は、ただ眠っているように枕を並べてふとんの中にいました。
脇に、遺書が置いてありました。
遺書は二枚の便箋に書かれていました。
それは、
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、
存分の活躍ができないことでしょう。
お先に行って待ってます」
という内容でした。
はたから見れば 軍人の妻らしい気丈な立派な遺書かもしれない。
しかし愛する夫が死ぬとわかって、自らの愛で、夫をひきとめることができなかったふく子さんの悲しみは、藤井教官にも、同僚の嶋田准尉にも、准尉の妻にも痛いほど伝わりました。
葬式は、軍の幹部と、家族と隣り組だけで済まされました。
教え子たちの姿はありません。
生徒たちの参列は禁じられました。
涙を誘うこの悲惨な事件に、各社の新聞記者も飛びつきましたが、記事はいっさい新聞にもラジオにも出ることはありませんでした。
軍と政府の通告によって報道が差し止められたし、こういうときの良心は、当時のマスコミには、まだあったのです。
藤井教官は、葬式が終わった日の夜、母に連れられて死んでいった一子に宛てて、一通の手紙を書きました。
それは、けっして読まれることのない、死んだ娘への手紙でした。
【藤井教官が長女一子にしたためた手紙】
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日
荒川の河原の露と消し命。
母とともに
殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、
一足先に父に殉じた
哀れにも悲しい。
然も笑っている如く喜んで、
母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに、今度は父の暖かい懐で、
だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、
それまで待ってて頂戴。

藤井教官は、事件の直後に、あらためて特攻を志願しました。
今度は自らの小指を切って、血書嘆願しました。
今度ばかりは、軍も諸般の事情から志願を受理しました。
パイロットではない者を特攻兵として受理したのは、前代未聞の「異例」のことでした。
事件から一週間もたっていない12月20日、藤井教官は特攻隊長としての訓練を受けるため、熊谷飛行学校から、茨城県の鉾田(ほこた)飛行場へ転属となりました。
転勤が決まった日、藤井教官は、中隊長室に教え子を一人一人呼びました。
そして生徒ひとりひとりから、家族のことや思い出話などを聞きました。
そして、ひとりひとりに「これからの日本を頼むぞ」と励ましました。
いよいよ鉾田へ出発の日、教え子たちが自習室に集まってお別れ会をやってくれました。
生徒や幹部たちは、みんなでお金を出し合って、記念に軍刀を買って贈ってくれました。
藤井教官は、ニコニコして、その軍刀を抜くと、
「これで奴らを一人残らず叩き切ってやるっ!」と刀を高くかざしました。
この間、藤井教官は、妻子の不幸な事件のことは、生徒たちに一言も話していません。
生徒たちも、誰もそのことを語りませんでした。
けれど、それは全員が知っていることでした。
知っていて誰も口にしない。
口にしないで、藤井教官の笑顔に、みんなも笑顔で答えました。
笑いながら、みんな泣きました。
昭和20年2月8日、藤井教官は、二式双発襲撃機十機で編成された第六航空軍第三飛行集団付の特別攻撃隊隊長ととなりました。
そして5月27日、第四五振武隊 (快心隊)と名づけられて知覧飛行場に進出しました。
特攻出撃も終わりに近い5月28日早朝、午前三時起床という慌ただしいスケジュールで藤井教官は第九次総攻撃に加わりました。
そして部下を率いて沖縄へと出撃しました。
藤井教官は、小川彰少尉が操縦する機に通信員として搭乗しました。
そして、250キロ爆弾を二発懸吊し、隊員10名と共に沖縄に向けて飛び立ちました。
最期の電信は、
「われ突入する」でした。
こうして藤井一教官は、妻子の待つ黄泉の国に旅立ちました。
それは終戦の僅か2ヵ月半前のことでした。
藤井教官は、ようやくやっと学生たちと交わした約束と、娘一子に 書いた手紙の約束を果たすことができました。
それは、妻子三人が荒川で命を絶った師走の15日から、わずか5ヵ月後のことでした。
知覧の富屋食堂を訪れた藤井中尉について、トメさんは年長の物静かな人がいたという以外にとくに印象がなかったそうです。
けれど戦後に藤井教官にまつわる話を聞いたトメさんは、涙が止まらなかったそうです。
昭和20年5月28日 沖縄県にて戦死 享年29歳

(引用、参考:「特攻の町知覧」、「昭和史の証言・靖国神社遊就館」)
※この記事は2010年4月の記事のリニューアルです。
トップの画像は、きっと寒かったであろうふく子さんと幼い二人の娘さんのために、8月の百合水仙にしました。
花言葉は「幸せ」です。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行でした。

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