| 明治以降の洋風化と、戦後のGHQによる統制で、日本は様々な大切な文化を失いました。 昔に還ることばかりが良いこととは思いません。 しかし、これからの日本を考えるとき、人々が立派に生きることができた社会が、どのような構造を持っていたのかをおさらいしてみることには、とても大きな意味があるといえるのではないでしょうか。 |

画像出所=http://www.archives.go.jp/naj_news/03/kaou.html
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桂太郎(かつらたろう)は、ペリーがやってくる少し前の1848年の生まれで、陸軍大将、第二代台湾総督、陸軍大臣、外務大臣などを歴任し、内閣総理大臣を三期勤めた人です。
陸軍大臣のときに義和団事件を収め、日露戦争を勝利に導いた総理でもあります。
この桂太郎が、ご自身の母について小文を残しています。
素晴らしい内容ですので、ご紹介したいと思います。
なお、原文は文語ですので、いつものねず式で現代語に訳しています。
***
我が母のこと(原題「母」)
私の母は、父と同じで、ものごとを耐え忍ぶ人でしたが、名誉を尊び、人後に落ちることを嫌う人でした。
家は貧乏でしたが、母は、人を保護したり、人を救うことに、まったくためらわない人でもありました。
子を教育するうえにおいても、
「他の人に劣らないように心がけなさい
たとえ飢渇におちいったとしても、
決してきたない挙動をしないように」と教え、
「常に、率先して人よりも抜きんでることを志しなさい」と諭されました。
幼いころに、母がよく言われたことがあります。それは
「おまえの両親は、おまえよりも先に死ぬのです。
おまえに希(ねが)うことは、
おまえが人らしい人として生きることです。
おまえは桂の家を嗣(つ)ぐべき嫡子(ちゃくし)です。
ですから私達は力のおよぶ限り、おまえに教育を施します。」
というものでした。
あるとき私が学塾から帰るとき、友人と喧嘩になりました。
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友人が、抜いた刀を私に向けたので、私はその刀を奪い取って家に持ち帰りました。
そして次の塾に行くために、その刀を母に託しました。そして、
「もし誰かが来て、請うことがあっても、決してこの刀を返し与えないでください」と申し上げました。
果たして私の不在中に、その友達の家から使いがやってきました。
「今日、うちの子が刀を忘れたと言っています。返していただきにあがりました。」
母はこれに答えて、
「我が家に刀を忘れた者は誰もいません。
ですが、我が子が塾からの帰りに持ち帰った刀はあります。
けれど我が子は、
『この刀は誰が来て請うても返したまうな』と
言い残して出かけました」とのみ答えました。
ひとたびは帰ったその家からの使いが、またやってきました。
「前に忘れたと申しましたのは、まったく子供の虚言とわかりました。
本日、帰宅途中において、不都合があって、
令息のために刀を奪われたと申しています。
子には、厳しく懲らしめ戒めたいと思います。
ただ刀を奪われたということは、世の聞こえが良くありません。
まげて、返し給わらんことを請います」
と懇(ねんご)ろに頼んできました。
母は、
「先には、作り事を申されたので返すことを拒みました。
武士は相身互いです。
不都合を詫びて返戻を求められる上は刀はお返しいたします。
再び欺(あざむ)かれることがないように戒められますよう」と
刀を返し与えました。
そして私が家に帰ったとき、その顛末を話してくれました。
父の許しを得て私が下関に赴いたとき、母は
「速やかに下関に到り、尊皇攘夷の志を果たし遂げなさい」
と、父とともに勧め励ましてくれました。
戊辰戦争で奥州で敵中に陥っていた頃は、母は神社に日参していました。
ところがその祈願の趣旨は、わが子の無事に帰ることではなく、
「なにとぞわが子が任務をまっとうし、
いやしくも未練の最期を遂げ、
家名を汚すがごときことがないように」
という、祈誓(きせい)でした。
父が他界したとき、四十九日の忌明けと同時に、私はただちに郷里を出て、横浜の大田村という語学所に入学しました。
まだ幼い弟や妹たち、それに母の悄然と寡居している寂寥(せきりょう)のありさまを思うと、ほんとうに自分は志を許してもらえるだろうかと悩みながら、私は母に、「お暇を賜りたい」と申し上げました。
すると母は意外にも、快く承知してくれました。
「おまえが志を立てて学を修め、
桂家の名を顕(あらわ)そうとするのなら、
私はいかなることにも耐え忍びます。
ですから心置きなく出発しなさい」と勧めてくれたのです。
翌年(明治3年)秋、私はドイツに留学することになりました。
官費留学では、時期を逸すると思った私は、自費留学したいと思い、その学費に、戊辰戦争のときの軍功によっていただいた250石(当時の1石は、いまの1万円くらい)の禄をあてたいと、母に申しました。母は、
「新たに賜った禄は、おまえの功労によるものです。
これをもって将来の志を遂げて身を立てるための学資とすることは
まことによろしきを得たものです。
我が家の俸禄は併せて年間350石です。
残りの100石で女子ともども生計を立てます」
とこれを認めてくれました。
こうして私は欧州に渡航することができました。
尋常なら小康に安んじて、子が遠くに遊学することを喜ばなかったかもしれないし、そのために凌雲の志も、挫折したかもしれない。そうした例は当時少なからずありました。
私が素志を貫くことができたのは、母が、雄々しくおわして、常に私の志を励まし続けてくれたことによります。
私は、明治6年に帰国しました。
翌年8月に、母は他界されました。
私が陸軍少佐だった頃です。
母は、いまわのきわに及んだとき、
「もはや、心置くことなし」と言われたそうです。
私は不幸にして、母の往生に立ち会うことができませんでした。
私なりに最大限の努力をし、家名を顕していくことこそ、母の「心おくことなし」の言葉への、せめてもの孝養であったといまも思っています。
私の父母は、物事によく耐え忍び、忠孝を貴び、名誉を重んじ、いやしくも家名を辱めるがごときことを深くおそれつつしむ人たちでした。
私のいまがあるのは、ひとえにこの家庭における訓戒によるものであることは、言をまちません。
ですからわが子孫たる人々も、すなわちこのことを以って、父祖の家訓と心得えるならば、きっとおおいなる過ちはないものと思います。
***
桂太郎という立派な人物がなぜ生まれたのか。
その一端を垣間見させていただきました。
実際には、人は多くの人々との関係の中で生かされているのに、それを故意に無視して「個として」生きることは、人から我儘を是認して責任感を奪います。
ですからその分、人は身軽で安楽な生き方ができるのであろうと思います。
人が家庭という単位を強烈に意識して生きることは、人に大きな重荷を背負わせ、生きることに様々な制約が課せられることになります。
我儘な生き方が拒否されて、常に大きな責任を負うことになるし、常にわずらわしい人間関係を背負い込むことになるからです。
これはたいへんな重荷を背負って坂道を登るようなもので、とてもつらいことでもあります。
けれど、その重荷の正体は、実は愛であり、感謝の心なのではないかと思います。
その愛と感謝が、人に耐え忍ぶ力を与え、現状を切り拓く勇気と知恵を与えてくれ、そして人を育てるし、真の日本人精神なのではないでしょうか。
そういうことを思いながら、自分の人生を振り返ってみると、もう穴があったら入りたいくらいになります。
だからこそ、残りの人生を、自分なりに不十分ながらも、少しでもそういう日本人的精神をしっかり取り戻して生きていきたいと思うのです。
それと加えて申し上げたいことがあります。
昔の日本人が立派だったということに、もうひとつ、母が立派だった、ということがあります。
とりわけ武家の母の立派さは、おそらく人類の模範ともいえるものであったろうと思えるほどです。
なぜそれだけ女性たちが妻として、また母として立派だったのかということの背景には、もちろん女子教育といったこともあったろうけれど、それに加えてもうひとつ、当時の社会においては、俸禄が家に支給されるものであり、その管理のすべてが、母が行うものとされていたという点があげられます。
家の名誉を上げるのは夫の役割です。
男は武功をあげ、戦で敵の大将首をあげて立身出世を図るものです。
けれどその家を守るのは、妻の役割です。
ですから男性が結婚する女性というのは、しっかりと家を守り、家事一切のみならず家の財産をすべて任せ、委ねることができる女性であらなければならないとされてきたのが、実は昔の日本です。
社会がそのような構造ですから、武家の女房殿たちは、しっかりと家計を切り盛りし、また子育てにおいても家の財を損ねないだけのしっかりした子を育てることを、いわば常識としてきたのです。
古くから我が国では、女性のみが神々と直接つながることができる存在とされてきました。
また神道においては、亡くなった祖先は、家の守り神となるとされてきました。
この点については、仏教が亡くなった人が極楽に行くとか、キリスト教では天国に行くなどとされていることを、現代日本人の多くは常識としてしまっているために、ややわかりにくくなっているかと思いますが、昔からの日本の神道では、じいちゃんやばあちゃんが亡くなると、その亡くなった人たちは家の守り神になったのです。
ですから神とつながることができる女性は、嫁に行った先で、その家のご祖先と直接つながり、そしていまある家の財産から祖先の慰霊、そしてこれからの子育ての一切を切り盛りする役割を担ったのです。
社会の上層部にある武家が、このようでしたから、町方(まちかた)においても同様で、だから落語の熊さん、八つぁんの女房殿は、呑んだくれている亭主をホウキで仕事へと叩き出すことが、笑い話となったのです。
明治以降の洋風化と、戦後のGHQによる統制で、日本は様々な大切な文化を失いました。
昔に還ることばかりが良いこととは思いません。
しかし、これからの日本を考えるとき、人々が立派に生きることができた社会が、どのような構造を持っていたのかをおさらいしてみることには、とても大きな意味があるといえるのではないでしょうか。
資料出典:大阪府教育会刊『女子鑑』(昭和13年)
※この記事は2016年9月の記事に末尾の「もうひとつ」を加えたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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