コロナ・ショックで、つらいこともたくさんありますが、でも、そんな混沌としたところに、明日へのきざしがあります。何があっても、人は死ぬまで生きているし、たとえ自分が死んでも、自分の血族は今後も生き続けるのです。つまり命は続いていくのです。何があっても、たとえ重たく落ち込んだとしても、その重濁から、明日への作物が生るのです。
 ならば、何があっても、倦まず弛まず前進していくこと。
 人が生きるということは、きっとそういうことなのだと、日本書紀は書いているのだと思います。

20200530 新緑
画像出所=https://nishinomiya-style.jp/blog/2018/04/15/4741
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よく「日本を取り戻せ」と言いますが、その取り戻すべき日本というのは、東海道を歩いて旅をしなければならない日本ではないと思います。
鉄道も高速道路も、インターネットも、昔はなかったもので、いまさらそれらを失うことなど、誰も賛成しないと思います。
ということは、あたりまえのことですが、取り戻すべき日本とは、日本的精神性にあるといえます。
別な言葉で言うなら、一昨日の記事に書きました「国民精神」です。
では日本における国民精神とはいかなるものか。
その答えは『日本書紀』にあります。
『日本書紀』は、720年に元正天皇に献上されたあと、その翌年から貴族の子女の教育用の教科書として使われるようになり、さらにその教育が全国に広がって行きました。
そして昭和の終戦まで、なんと1200年以上に渡り、我が国の教育の中心をなしてきました。
つまり『日本書紀』こそ、我が国の国民精神の原点といえます。
戦後は『日本書紀』よりも、むしろ『古事記』がもてはやされるようになりました。
これはGHQが日本人への歴史教育を禁じたためで、これによって『日本書紀』による教育が否定されたことから、日本が主権回復後、特に神話を大切にしたいと思う人達によって《禁じられた『日本書紀』に代わって》古事記の普及促進が行われたわけです。
物理的にも『古事記』3巻にたいし、『日本書紀』は全30巻です。
その分、『日本書紀』の内容が詳しいのはあたりまえです。
しかし『古事記』の方が、量が少ない分、とっつきやすい。
いずれにしても現代日本人にとって必要なことは、「国民精神」をあらためて学ぶことであり、その答えは『古事記』にも『日本書紀』にありますが、やや『日本書紀』の方が詳しい。
ところが、では「いざ、記紀を学ぼう」と思っても、たとえばその冒頭を現代語訳した多くの書は、できるだけやさしく、わかりやすくそこに書かれた物語を知っていただこうとするあまり、記紀において大切な、まさに「国民精神」の形成そのものにあたる記述が失われてしまっています。
たとえば『古事記』の冒頭です。

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20191006 ねずラジ
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原文は、
「天地初発之時 於高天原成神名
 天之御中主神(訓高下天云阿麻下效此)
 次高御産巣日神、次神産巣日神
 此三柱神者 並独神成坐而 隠身也」

とあり、たいていは「天地の始まりのとき、高天原にはアメノミナカヌシの神がお成りになられ、次にタカミムスビの神、次にカムムスビの神がお成りになりました。この三柱の神々は、皆お独(ひと)りで御出現になり、やがて姿をお隠(かく)しになりました。」のような現代語訳をします。
なるほどこれは間違い(誤訳)ではありません。
そのように書かれているのですから、そう訳して何ら問題はありません。
けれども大切なことは、この短い記述の中に、どのような日本的精神が描かれているかを見出すことにあります。
別な言い方をするなら、この短い記述の中に、どのような価値観があるのか。
そのことを発見し、理解し、自分の言葉で述べたり書いたり、あるいは教室で他の生徒とこれを議論する(その議論することを昔は「論(あげつら)ふ」と言いました)するところに、実は、古事記を読むということがあり、大切な国語教育、あるいは歴史教育の要諦があるのです。
たとえばそれは、この短い文について、いくつか挙げるなら、
(1)まず中心が定まって、次に結びがあるということは、物事を対立的にとらえるのではなく、物事の中心となる本質をしっかりと抑えた上で、様々な物事をそこに結びつけて考えることが大事なのではないか。
(2)独神(ひとりがみ)というのは、独身の神様ということではなくて、性別のない神様のことであって、性差以上に実は世の中に大切なことがあるのだろう。
(3)「姿を隠した(隠身)」というのは、いなくなったということではなくて、その御存在のすべてを胎児のようにして神様の胎内に取り込んだことを意味ているのだ。
等々、他にもまだまだ様々な学びがあると思います。
そうした学びを得ること、それを自分の思考の一部に取り入れ、さらに自分の言葉で表現できるようになったいくことに、実は国民精神の本義があります。
『日本書紀』なら、その冒頭にある言葉は、
「古天地未剖 陰陽不分
 渾沌如鶏子 溟涬而含牙
 及其清陽者薄靡而為天
 重濁者淹滞而為地」

です。
現代語訳すると、「大昔、天地がまだ分かれていなくて陰陽もまた分かれていなかったとき、混沌としたなかに、ほのかな兆(きざ)しがあり、その兆(きざ)しの中の清(すみ)て陽(あきら)かなものは薄くたなびいて天となり、重く濁(にご)っているものが停滞して地(つち)となった」となります。
ところが続きの文を読むと『日本書紀』は、神々がその清(すみ)て陽(あきら)か《清陽》から生まれたわけではなく、重く濁(にご)っているもの《重濁》から神が生まれたわけでもないとしています。
その両方の存在の中から、国之常立尊以下の神々が誕生していると書いているのです。
つまり天地二元論ではない。
清濁両方があって(天地両方があって)、はじめて神が成る。
もっというなら、天地の結びから神が成ると書かれているわけです。
つまり清陽と重濁、陰と陽は、両方あってひとつなのです。
清陽でありさえすれば良いということではなく、重く濁った状態にあっても、それもまた神の内です。
清陽は「清らかで陽気なこと」を意味しますが、もちろんそれも大事ですが、重く濁った気持ちになるのも人間です。
だから『日本書紀』は、「両方あって良いんだよ」と書いています。
神々だって、両方あって生まれているのです。
まして人間をや、です。
このことは、「重く濁った」とされている土の中から、大切な農作物が生まれることでも明らかです。
人は食べ物がなければ生きていくことができません。
重濁は必要なことなのです。
そういえば、良い農作物を育てる良質な土の状態と、健康な腸の状態は、実は同じなのだそうです。
そして人間には、そんな土でできた食べ物から成る肉体と、薄くたなびいた天のような魂の両方が備わっています。
そのどちらが欠けても人は成立しません。
だから、両方あって良い。
魂が肉体に近づいて重濁に寄ることもあれば、身も心も清々しくてほがらかな清陽に近づくこともあります。
重く濁った気持ちになってしまうのも人間なら、清く陽気な気持ちを持つことができるのも人間です。
だって、神々だって、その両方から成られているのです。
ときに落ち込んだっていいじゃないか。
また気を取り直して、明るく朗らかな気持ちになれるときだって、きっと来る。
そう思えるから、どんなときでも、また立ち上がることができるのです。
それが日本人です。
どちらかが「いけないこと」とする善悪二元論、天地二元論とは違うのです。
そういうことを学んでいくことが、「記紀を学ぶ」ということであり、「日本を取り戻す」ための学びなのだと思います。
コロナ・ショックで、つらいこともたくさんありますが、でも、そんな混沌としたところに、明日へのきざしがあります。
何があっても、人は死ぬまで生きているし、たとえ自分が死んでも、自分の血族は今後も生き続けるのです。
つまり命は続いていくのです。
何があっても、たとえ重たく落ち込んだとしても、その重濁から、明日への作物が生るのです。
ならば、何があっても、倦まず弛まず前進していくこと。
人が生きるということは、きっとそういうことなのだと、日本書紀は書いているのだと思います。
今回お話したのは、記紀のほんの冒頭です。
これが全文になると、そこから得られる学びは膨大です。
そしてそのひとつひとつの挿話が、すべて日本的精神の発露となっています。
これだけの文学が、7世紀から8世紀の初頭にかけて、いまから1300年もの昔に描かれているということ、そしてそれが日本人の日本的精神性を構築してきたということを、私達はもっと大切に考えなければならないことであると思います。
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