日本にいて日本文化の恩恵に授かっていながら、日本の神語を否定するのは、日本人が古来から持つ感謝の心や寛容性、受容性を利用主義的に利用している人ということになります。つまり傲慢であり、自分のことしか考えない狭量であるということです。そのような人のことを「悪魔的な人」と言います。日本的な言い方をするなら、道に外れた人、つまり外道(げどう)です。


20200215 梅
画像出所=http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2016-03/11/content_37998408.htm
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


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以前にもご紹介したことがあるのですが、旧約聖書の冒頭には次のような記述があります。
創世記です。
ねず式で意訳しています。
 ****
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、
神の霊が水の表をおおっていた。
神は「光あれ」と言った。
すると光があった。
神はその光と闇とを分けた。
神は光を昼と名づけ、闇を夜と名付けた。
夕となり、また朝となった。
一日目である。
神は言った。
「水の間に青空よいでよ」
神は青空を造り、下の水と上の水を分けた。
神は青空を天と名付けた。
夕となり、また朝となった。
二日目である。
神は言った。
「天の下の水よ、
 ひとつ所に集まれ。
 乾いた地よ現れよ」
神はその乾いた地を陸と名づけ、
水の集まった所を海と名付けた。
神は言った。
「地に青草と種をもつ草と
 種類に従って
 実を結ぶ果樹よ生(は)えよ」
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって実を結ぶ木とを生やした。
夕となり、また朝となった。
三日目である。
神は言った。
「天の大空に光があって昼と夜とを分け、
 印のため季節のため日のため年のためになり、
 天の大空にあって地を照らす光となれ」
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、
小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造った。
神はこれらを天の大空に置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、
光と闇とを分けた。
夕となり、また朝となった。
四日目である。
神は言った。
「水は生き物の群れで満ち、
 鳥は天の大空を飛べ」
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を種類にしたがって創造した。
神は見て良しとすると、
それらを祝福して言った。
「生めよ、増えよ。
 海たる水に満ちよ。
 鳥は地に増えよ」
夕となり、また朝となった。
五日目である。
神は言った。
「地は生き物を種類に従って出せ。
 家畜と這うものと地の獣とを
 種類にごとに出せ」
神は地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、また地に這うすべての物を種類ごとに造った。
神は見て、良しとされた。
神は言った。
「我々の形に象(かたど)って人を造り、
 これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、
 地のすべての獣と、
 地のすべての這うものとを治めさせよう」
神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち神の形に創造し、男と女とを創造した。
神は彼らを祝福して言った。
「生めよ。増えよ。
 地に満ちよ。
 地を従わせよ。
 そして海の魚と、空の鳥と、
 地に動くすべての生き物とを治めよ」。
神は言った。
「我は全地表の種をもつすべての草と、
 種のある実を結ぶすべての木とを
 お前たちに与えよう。
 それはお前たちの食べ物となるであろう。
 地のすべての獣、空のすべての鳥、
 地を這うすべてのもの、
 すなわち命あるものには、
 食物としてすべての青草を与えよう」
夕となり、また朝となった。
六日目である。
こうして天と地と万象が完成した。
神は七日目に作業を終えて休まれた。
神は七日目を祝福して、これを聖別した。
これが天地創造の由来である。
 ****

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このあと、造られた男女のヒトから、アダムとイブが生(な)っていくわけですが、そのあたりの展開は皆様それぞれにお調べいただくとして、上の文章をちょっとだけ変えて、次のようにしてみます。
一日目から三日目までです。
「はじめに地は形なく、むなしく、
 闇が淵の表にあり、
 神霊が水の表をおおっていた。
 そこに光の神があらわれ、
 次いで闇の神があらわれた。
 次に青空に天の神が生られた。
 次に陸の神と海の神が生られた。
 陸には、青草の神、種をもつ草の神、
 種類に従って実を結ぶ果樹の神が生られた。」
するとなんと、記紀の記述にたいへんよく似てくることに気付かされます。
つまり旧約聖書では、
「唯一絶対神が森羅万象を創造し、人を造った」
と記述しているのに対し、
記紀は、むしろ旧約聖書で神が行った個々の事象について、それぞれに「神」と名付けています。
ひとつの例を申し上げます。
古事記からです。
古事記の黄泉の国から帰られたイザナキ大神が祓(はら)い、禊(みそぎ)をして神々をお生みになるシーンです。
そこで次の12神がお生まれになっています。
 衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)。
 道之長乳歯神(みちのながちちはのかみ)。
 時量師神(ときはかしのかみ)
 和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)
 道俣神(みちまたのかみ)
 飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)
 奧疎神(おきざかるのかみ)
 奧津那芸佐毘古神(おきつなぎさひこのかみ)
 奧津甲斐弁羅神(おきつかひえらのかみ)
 辺疎神(へざかるのかみ)
 辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)
 辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ)
この神々のお名前の漢字の意味を読み解くと次のようになります。
 衝立船戸     邪悪なものの侵入を防ぐ
 道之長乳歯    長い道のり
 時量師      時間がかかる
 和豆良比能宇斯能 主がわずらう(難儀する)
 道俣       道の分岐点
 飽咋之宇斯能   主が口を開けてのんびりする
 奧疎       奥に遠ざかる
 奧津那芸佐毘古  奥の沖から渚
 奧津甲斐弁羅   奥がの沖が水辺と交わる
 辺疎       海辺から離れた場所
 辺津那芸佐毘古  海辺の波打ち際
 辺津甲斐弁羅   海と渚が交わる場所
これを文章に直すと次のようになります。
「ようやく穢らわしくて醜い国から帰られたイザナキ大神が
 やっと安心できる場所にたどり着いて、
 邪悪な者たちの侵入を防ぐための衝立としてお祓(はら)いをした。
 そこにたどり着くまでは長い道のりで、
 到着までに長い歳月がかかった
 それだけイザナキ大神は難儀したのだけれど、
 やっと国との分岐点に着いて、
 イザナキ大神はおおきなあくびをしてくつろぎ、
 穢(けが)れた国は沖へと遠ざかった。
 波の荒い海峡から、やっと静かな渚にたどり着いたのだ。
 そこは沖と水辺が交わる場所であり、
 海浜からもすこし離れた場所、
 そして波打ちぎわで海と渚が交わる場所であった。」
古事記をはじめ、これは日本書紀でも同じですが、日本の神語(かむかたり)には、たくさんの神々が登場されます。
それら神々のお名前は、神様がそのように名乗ったということではなくて、神様の様子や性格や状態から、人があとから名付けたものです。
神様のお名前だから、忘れてはならないし、おろそかにしてはならない。
そうであれば、そのひとつひとつに感謝して、感謝の心で大切な物語を語り継ぐ。
それが我が国の神語の特徴であるということができるのです。
なぜそのように個々の出来事を「神」と名付けたのかといえば、答えはひとつしかありません。
それは、太古の昔にあったひとつひとつの出来事のおかげで、今の私たちは生かされているからです。
そのひとつひとつの出来事がなければ、いまの私たちの命はない。
そうであれば、そのひとつひとつのすべてに感謝の心を持つのは、当然のことといえます。
ただ単に、唯一絶対の存在を畏怖するのではなく、その偉大な存在と、その偉大な存在によって行われたすべてのことに感謝する。
日本文化は、寛容性と受容性に富むと言われます。
なぜなら、日本人が感謝の心を持つ民族だからです。
そしてこれこそが、日本の文化の根幹です。
逆にいえば、日本の神語などを非科学的だといって頭ごなしに否定する人は、感謝の心を持たず、寛容性も受容性もない人ということになります。
それは日本的でもなければ、西洋的でもありません。
そもそも科学的というのは、論理的で再現性がある思考のことを言います。
そうした論理や再現が何のためにあるかといえば、それは人々の幸せのためです。
西洋における聖書も、西洋における科学も、いずれも人々のよりよい生活や人々の幸せのためにあります。
そうであれば、感謝の心を持たず、寛容性も受容性も否定する人は、人々の幸せを否定する人、つまり西洋的でもなければ科学的でもないということになります。
この一点を外したら、実は科学さえも、悪魔の手先にしかならないのです。
同様に、日本にいて日本文化の恩恵に授かっていながら、日本の神語を否定するのは、日本人が古来から持つ感謝の心や寛容性、受容性を利用主義的に利用している人ということになります。
つまり傲慢であり、自分のことしか考えない狭量であるということです。
そのような人のことを「悪魔的な人」と言います。
日本的な言い方をするなら、道に外れた人、つまり外道(げどう)です。
外道には特徴があります。
その特徴を、鶴見クリニック院長の鶴見隆史先生が実に簡明にまとめておいでになります。
【悪魔界発の輩(やから)の特徴】
月刊『玉響』2015年6月号P36
http://www.nihoniyasaka.com/contpgm2/w_magintro.php">http://www.nihoniyasaka.com/contpgm2/w_magintro.php
1 自分本位
2 正義装って周囲を巻き込み、集団を作って悪いことをする。
3 欲望、特に金銭欲が異常なまでに強い
4 嘘をつくことをなんとも思わない
5 自分に不都合になると、必ず理屈に合わない難癖をつける
6 驚くほど心の中が冷たい
7 相手のちょっとした欠点をあげつらって仮借ない攻撃をする。
8 しつこい
9 問題を都合よくすり替える
10 他人の不幸が喜び
11 考えが表面的で深みが「全く」ない
12 自分への反省がまったくない
13 他人の悪口が大好き
14 電話魔
15 言葉遣いが汚い
16 固定観念の塊
17 ちょっと御しやすいとわかると、調子に乗って傲慢で支配的な態度に出る
18 根本的に品格がない(下品)
******
このような人にはなりたくもないし、また近づきたくもないものです。
けれど、この特徴、日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話すけれど日本人ではない人で、テレビなどのよく出る人たちそのものの特徴に見えます。
人には良心があるはずなのに、どうしてこのようなことになるのかといえば、責任がないからです。
責任がないことを無責任といいます。
無責任な者に権力を与えると、権力が無責任になります。
無責任者が権力者になること。
これほどの不幸はありません。
ということは、つまり無責任は悪だということです。
権力とは、影響力のことを言います。
メディアは極めて大きな影響力を持ちます。
その影響力を持つ者が、責任を問われないなら、それは悪です。
百害あって一利なしです。
では悪とは何かといえば、ニーチェによれば
「人の名誉を奪うこと」です。
言論に責任を持たず、人の名誉を奪うなら、それは悪です。
このことは個人においても同じです。
影響力を持つということは、責任が生じるということです。
権力と責任。
この二つは、常にセットでなければならないものです。
残念ながら、洋の東西を問わず、権力者が無責任であったことが、人類の歴史です。
日本だけが、権力者に責任を問うシステムを持ちました。
だから日本は世界最古の国家でいます。
繁栄し、安定し、継続することは、あらゆる組織、あらゆる個人の理想ですが、これを実現するための唯一の方法が、実は、権力と責任の両立にあります。
お読みいただき、ありがとうございました。

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