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いまの日本は、解体的出直しが必要といわれます。
左の方も右の方もそのようにおっしゃいます。
スクラップアンドビルドです。
けれどその「ビルド」の方向を間違えたら何の意味もありません。
その建て方が、左翼的な思考であったり、古来からある日本の姿を否定するものであるのなら、それは決して国民にとって良い方向にはならない。
ということは、出直し云々の前に、まず日本の形を正しく掴(つか)み、それを常識化していくことが重要です。


20200128 筑後川
画像出所=http://fmbo.blog84.fc2.com/blog-entry-57.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

九州は久留米の東側に筑後川(ちくごがわ)があります。
かつてこの流域の地方は、水は近くにあるのですが、川が低くて、流れが急なために田になかなか水が引けず、そのために作物が十分に採れず、住民たちがたいそう貧しい生活をしていました。
江戸時代の初めごろ、この地方に栗林次兵衛、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞という五人の荘屋さんがいました。
五人は、村の困難をどうにかして救おうと相談しました。
そしてついに、筑後川に大きな堰を設けて、掘割を造って水を引こうと決めました。
測量も行い、成功の見込は立ちました。
けれど、これまで誰も計画したことのない大工事です。
人夫もたくさんいるし、費用もかかる。
けれど藩政は苦しい台所事情です。
藩の許可を得るのは、現実の問題として、なかなか容易なことではありません。
そこで五人は、
「ワシらがいったん思い立った以上は、たとえどんなことがあってもきっとこれを成就しよう。それまでは、五人の者は一心同体であるぞ」と、堅く誓いあいました。
五人はそれぞれに村人たちを集め、みんなに計画を話しました。
みんなも協同して働くと誓いあってくれました。

20191006 ねずラジ
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他の村の荘屋さんたちも、計画を聞いて仲間に加りたいと申し込んでくれました。
けれど五人は、
「この大工事がもし不成功に終わったら、
 ワシら五人は、命を捨ててお詫びしなければならない。
 むやみに人様を仲間に入れ、
 万一の迷惑をかけてはならない」
からと、これを断りました。
それでも他の村の荘屋さんたちは、五人の志が堅いことを知って、いっしょになって藩への願い出に連署してくれました。
藩も、工事には理解を示してくれました。
けれど、あまりに費用が大きい。
許可はなかなかでません。
一方、この計画の水路にあたる一部の村の荘屋さんたちは、
「そのような堰を設られたら、
 洪水の際に我々の村に被害が出る」
と、工事に反対をしてきました。
五人の荘屋は度々藩の役所に出て、計画が確かなものであることを熱心に説明しました。
役人は五人に向かい、
「もし計画通りに行かなかったら、
 お前方はどうするつもりか。」とききました。
「そのときは、私ども五人、
 責任を負って、
 どんな重い刑罰でも、
 快くお受け致します」
と申しました。
役人は、五人の志を受け、藩にもかけあい、ついに五人の願いを許したのです。
五人の荘屋は、仲間の荘屋たちと一しょになって、村人たちを指図して、いよいよ工事にとりかかりました。
監督に来た藩の役人は、「もし失敗したら、ふびんながら、五人を重く罰するぞ。」と、改めて申し渡しました。
村人たちは口々に、「荘屋を罪におとしてはすまない」と言って、夜昼なく、一生懸命に働いてくれました。
女子供までも手伝って木や石を運んでくれましたから、さしもの大工事が意外にはかどりました。
いよいよ大きな堰が出来上りました。
水を通しました。
計画通り、筑後川の水がとうとうと掘割に流れ込みました。
そのときの村人たちの喜びはたとえようもないものでした。
その成功を見て、他の村々でも、水を引きたいと願い出てきました。
そして堰と掘割をひろげることになりました。
始めのうち工事に反対していた荘屋さんたちも、水の分前にあずかりたいと願い出てきました。
一部の人たちからは、
「あの人々は、当初工事に反対したから、
 俺たちの村に水が来るまでは、
 後回しにすべきだ」
という声もあがりましたが、五人の荘屋は、
「この工事は、
 もともとこの地方のために起したことですから、
 その水利は出来るだけ広く
 受けさせとうございます。
 どうか皆様に同時にお許し下さい」
と、反対する人たちに頭をさげました。
役人も同意してくれました。
こうして筑後川の流域は、この地方を代表する、大穀倉地帯に生まれ変わりました。
それは、五人の荘屋さんたちを始め、村人たちが心をあわせ必死になって尽くしてくれたおかげです。
・・・・・・
と、このお話は、実は戦前の尋常小学校6年生の修身の教科書にあったお話です。
文章は、ねずさん流の現代文にだいぶ手を加えさせていただいて、掲示させていただきました。
そして、この物語を、次のように締めくくられています。
=========
我等の住む市や町や村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けて来たのです。
協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を反映させる基であります。
=========
考えてみれば、いまわたしたちが住んでいる町も、道路も、公園も、川に架かる橋も、電車も、電線も、全部わたしたちの先人達が、何代にもわたって築いてきてくれた大きな遺産です。
そしてその遺産は、同時にわたしたちの先輩達が、先輩達の生活のためでもあり、また同時に、後世に生きるわたしたちのためであり、そのまたわたしたちの子や孫、それに続く未来の世代のためにと、先輩達が力を合わせ、協同して築いてくれた遺産です。
上にご紹介した筑後川の流域の庄屋さんと村人たちの物語は、全国津々浦々で行われた物語でもある。
わたしたちの先輩たちまでは、そういうことを学校で学んでいました。
その前の先輩たちも、おなじことを、寺子屋で学んでいました。
ですから、それらは、わたしたち日本人にとっての常識でした。
けれど戦後のわたしたちや、その後の世代はどうでしょう。
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」は学んでも、そういう「協同」することの大切さや、父祖の恩、国や国土を愛する心を、果たして学んで育ってきたのでしょうか。
そして「学ばない」ことが、昨今ではまるで「学ばせないこと」が正義であるかのような論調さえもあるという体たらくです。
ちなみに戦後左翼というのは、嘘も教えますけれど、彼らの巧みなのは、嘘を教えればすぐにバレる。だからそうではなくて、「本当のことを教えない」、「一番大事なことを教えない」というやり方を徹底してきました。
今日のお話の中で「藩のお台所が苦しい」というくだりがありました。
江戸時代の全国の諸藩の大名たちが、みんな赤字財政で四苦八苦していたことは、みなさん学校でも習いますし、テレビの時代劇などでもご覧になったことがあろうかと思います。
大名たちは、江戸や大阪の大商人たちから、たいへんな借金をしていた。そんな話はきっとみなさん聞き覚えておいでのことと思います。
けれど、それがウシハク世界の領主たちなら、赤字なら藩民から、徹底的に搾取したことでしょう。
なぜなら自分たちだけが人間であり、民というのは、自分たちを食わせるためのヒトモドキの道具ないし私有物でしかなかったからです。
大名たちには、年貢による収入があるのです。
にも関わらず、彼らはどうして大赤字で、大商人たちから借金を重ねていたのでしょうか。
自分たちが贅沢をするためでしょうか。
全然違います。
今日のお話しにもあったように、水路や堤防の工事、あるいは土砂災害や地震、噴火、火災からの復旧工事など、民のための土木や建築などに、藩政が赤字であっても、必要な工事を藩の事業として推進していたのです。
なぜなら、それが天皇のおおみたからを預かる武士の役割だと認識されていたからです。
藩の領土は、お殿様のものです。
けれど、藩民は、天皇のおおみたからです。
そして藩主は、そのおおみたからたちが幸せに安心して暮らせるようにすることが、藩主としての仕事であると認識されていたのです。
そういう自覚があったからこそ、彼らは明治時代にはいって、版籍奉還に応じているのです。
ここが一番大事なところです。
江戸の大火や、地震、あるいは富士山の噴火などによる被害、あるいは干ばつによる農産物の凶作など、日本は、各種自然災害などが民の生活を脅かすことが多々ある国です。
そしてその都度、幕府は、備蓄していたお蔵米を民のために炊き出ししたり、無償でお米を配ったりしていましたし、町並みの復興のために、莫大なお金を使っています。
だから赤字にもなる。
赤字になれば、大商人から借金する。
武士たちの贅沢のためではありません。
全部、藩民の生活を安定させるためです。
だから武士たちは、民から尊敬されたのです。
そういう肝心なことを教えない。
私達は、日本を取り戻そうとしています。
日本は、縄文以來、あるいはもっと古い昔から、民の安全で安心できる生活の保持を、政治の使命としてきた国です。
それが崩れたのは、むしろ、現代の戦後日本です。
いまの日本は、解体的出直しが必要といわれます。
左の方も右の方もそのようにおっしゃいます。
スクラップアンドビルドです。
けれどその「ビルド」の方向を間違えたら何の意味もありません。
その建て方が、左翼的な思考であったり、古来からある日本の姿を否定するものであるのなら、それは決して国民にとって良い方向にはならない。
ということは、出直し云々の前に、まず日本の形を正しく掴(つか)み、それを常識化していくことが重要です。
そうであれば、目標とすべき日本とは、どのようなものであるのか。
そしてその素晴らしい日本の形は、どのようにして出来たのかを私達は共通認識にしていかなければなりません。
どんな素晴らしいものであっても、それは一朝一夕にはできないものだからです。
必ずそこには歴史があり、苦労があり、そうして積み上げられたものによってしか出来上がることはありません。
言い換えれば、かつてあった素晴らしい日本とみえるもの、いまでも日本に残る素晴らしいものは、人々がそのようにしていこうと願い求め、意図して築いてきたものなのです。
かなしいことに、冒頭にお示ししたような物語等は、いまではまったく学校では教えられず、そのような日本がかつて実在したという事実さえも、いまや失われようとしています。
しかし、記憶が失われても、災害は起こります。
そして災害がある以上、私達日本人は、その災害列島の中で生き抜く知恵を必要とします。
奈良平安の貴族たちが贅沢三昧な暮らしをし、乱れた男女関係ばかりのひ弱な人たちであったなら、度重なる災害の前に、日本は早々に崩れ去っています。
けれどそうはならず、むしろ、今も地方に残る当時の建築物や彫刻、美術、そして衣料など、当時の世界にあって日本が平和で豊かな時代を築くことができたのはなぜか。
江戸時代に極端に犯罪の少ない日本を築くことができたのはなぜか。
また江戸時代に高い建築技術を持ちながら、木造2階建てにしかしなかったのはなぜか等々、いまやバラバラになってしまっている事実を丹念に拾い集め、日本の歴史や文学を再構築していく。
建物で言えば、それが基礎づくりだと思うのです。
そしてその基礎の上に、新たな家屋が建つのではないでしょうか。
※この記事は2015年の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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