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| 神々の怒りは、ついに千葉までおおいました。東京に水害や地震が襲えば、日本は壊滅です。それだけではない。仮に海面が3メートル上昇すれば、日本の平野部・・・つまりほとんどの都市部は壊滅します。神々にとって、それは鎧袖一触です。日本人は目覚めるときです。 |

画像出所=https://realestate.yahoo.co.jp/magazine/corp_atchooworks/20180201-00010651
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
ものすごく簡単な計算です。
日本の国土面積は3779万ヘクタール。坪数に換算すると1143億坪。
宅地面積は113万ヘクタール。坪数にすると34億1825万坪。
日本のいまの世帯数は5042万世帯ですから、単純平均した1世帯あたりの宅地面積は68坪になります。
大きすぎる気がするかもしれませんが、地方に行きますとそれなりにひろい宅地面積をもった住居もたくさんあるために、このような計算になります。
生活実感としては、半分の35坪くらいのイメージでしょうか。
日本は戦前戦中まで大家族制で、大きな敷地と大きな家屋に複数の世代が同居するのがあたりまえになっていました。
もちろん全部とはいいません。
都市部の町民などは、いわゆる長屋暮らしであったことも事実ですが、あくまで全国平均で、という話です。
例外は、この際、横においておいて、とりあえず話を先にすすめたいと思います。
戦後、日本は経済復興のために、政策的に工業化の推進を図りました。
工業化によって外貨を稼ぎ、それによって日本人の生活水準を少しでも向上させて行こうとしたわけです。
そのために行われたのが、集団就職でした。
中学を卒業した若者たちが、金の卵と呼ばれて、集団就職列車に乗って都市部へと流入し、会社の寮に入居して工場で働きました。
当時は、6畳一間に、三段ベットで6人同居があたりまえで、トイレも共同。風呂も共同でした。
部屋は狭いですが、その代わり工場には、プールやグラウンドもあったりして、それなりに広い空間をみんなで共有するといったことも行われていました。
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ところが、中学を卒業したばかりの若者も、いつまでも16歳のままではないわけです。
17歳になり、19歳になり、20代の若者になっていきます。
すると、同じ工場の中や、あるいは別な会社の工場との間で、男女の交流のためのフォークダンス大会などが催されるようになり、結婚する若者たちが増えてきます。
独身なら6畳間に6人部屋暮らしでもなんとかなりますが、結婚してしまうと、いつまでも寮暮らしというわけにいかない。
戸建ての住宅や、集合住宅に引っ越すようになります。
こうして生まれたのが、ひとつが団地です。
川崎に、日本初の大規模団地が作られ、実は私は幼い頃、その団地住まいでした(笑)
まあ、本論には関係ないことですが。
当時の団地は、地方から上京してきた若夫婦ばかりが入居していましたから、団地備え付けの遊園地には、幼児たちの良い遊び場になっていました。
砂場や鉄棒や、シーソー、滑り台などが据え付けられていたものです。
ところが、その子供が成長してくると、いつまでも団地というわけにもいかない。
そこで小さな核家族用の戸建住宅が推進されました。
これが文化住宅で、サザエさんの一家が住んでいる家が、その典型です。
当初の文化住宅は、平屋でしたから、サザエさんも、まさにそんな平屋に住んでいるわけで、サザエさんの連載が開始されたのが、まさにそんな時代を代表した出来事でした。
ところがその後のモータリゼーション、つまり自動車が普及するようになると、文化住宅では、駐車スペースがないことから、駐車スペースを確保した戸建住宅や、大型マンションが推奨されるようになりました。
つまり何を言いたいのかというと、政治的政策的に、これまではその時代のニーズに合わせた住宅政策が行われてきたわけです。
しかし、それらは長い歳月で見たときに、日本人にとって、あるいは日本にとっての住宅政策として、どのようなものが必要かではなくて、あくまでも、その時々に必要とされるものを制度化し、築くということでした。
その代わり、条件として戸建住宅なら、耐用年数は当初は25年。
その後、住宅の様式が進歩することで35年をリミットとし、その後のことは、その後になってから考えるとされてきたわけです。
堅牢なつくりが自慢のマンションも同じで、耐用年数は65年。
それ以上になると、配管から建物の構造体が経年劣化し、地震などの災害に耐えられなくなるわけです。
そして戸建てにせよ、マンションにせよ、あくまでも戦後に生まれた核家族を主体に、建築関連法が整備されてきたのが、これまでの日本でした。
ところがその後、阪神淡路大震災や、東日本大震災、あるいは熊本地震などの地震が相次ぎ、また津波も襲い、台風による水害が襲い、また大規模停電は、高層マンションのエレベーターを停めてしまうだけでなく、オートロックから、オール電化の電力供給をまるごとストップしてしまうという事態を引き起こしました。
そこで、戦後の集団就職にはじまる住宅政策の変遷を、あらためて振り返ると同時に、日本という天然の災害の多い国を念頭にわが国の住宅政策を振り返ると、それらはいずれも、
「その場限りの住宅需要に合わせただけの」
「最大25年〜65年の範囲内でしか通用しない」
「災害対策をほとんど考えていない」
住宅政策でしかなかったことを露呈しています。
振り返って、戦後という特殊な状況下が生まれる前の日本の住宅政策を考えると、実はいまとはぜんぜん違う政策が行われていました。
まず都市部では、火災や震災対策として、すぐに取り壊せる小さな家が用いられていました。
ただし、その都市部に住む人々は、多くの場合、地方からの出稼ぎ者たちでしたから、田舎に帰れば、いつでもそれらの人々を収容できるだけの大規模な住宅と農地が用意されていました。
古民家というのは、江戸時代の中期に建てられていまも残る住宅ですが、その中には、奥飛騨のような茅葺屋根の住宅でありながら、4層建てで、ピーク時には、130人以上の親族が、その一軒家で生活していたりしていました。
そしてその建物の周囲には、破風林として木々が植えられ、その木が大木として育ったとき、住宅の立替のための資材となるようにしてありました。
住宅は、耐用年数が200年。
そして、200年経過すると、家の周囲の破風林は、それぞれ大木となって育っていたわけです。
また家屋の敷地も広く取られ、その敷地内に水屋と呼ばれる、高台にした物置小屋が築かれて、大水のときには、その水屋に避難することで、一家の命を救ったり、また家の周囲の敷地では、野菜などの食べ物をつくることで、災害時の自給自足が可能なようにされていました。
地震で家屋が傾いたときにも、家を持ち上げて、敷石の高さを変えることで、いつにても家屋を復活させることができるようにしてあったし、家の床下は、人が入れるくらい高くしつられることによって、大水が出ても、床が水没することを防ぐように設計されていました。
木造住宅ですから、怖いのは火災ですが、その火災対策としても、常に用心桶が置かれて、ボヤのうちに火を消し止められるようにしてあったし、柱も梁も太くて、20センチ以上の太さの木材を使用していましたから、少々焦げても、表面のおこげを削りとれば、また新品同様の家に復活させることができるようにされていました。
要するに、当時の技術の粋を集めて、あらゆる災害に適応できるように、住宅がしつらえてあったわけです。
これは生活の知恵というべきものというだけでなく、各藩の藩主以下が、その藩の住民たちが、どんな災害が起こっても、その被害を最小限に食い止め、また災害からの復興が素早く行えるように、日頃からあらゆる手段を講じてきた、これは結果であったということができます。
冒頭に日本全国の宅地面積等を掲げましたが、仮に我々が国内の住宅の平均敷地面積を、いまのような30坪から、10倍の300坪に拡大することは、3世代同居を前提とした住宅政策を考えれば、すぐにでも実現可能なことです。
土地が300坪ということは、中規模の介護老人ホームくらいの敷地面積ですから、そこには複数の世帯(親族)が十分に同居し、それぞれのプライバシーもちゃんと確保でき、しかも同居親族間のパブリックスペースとしての大部屋やリビングなども十分に確保できるだけの建物の建築が可能といえます。
そして、土地付一戸建ての平均価格を、仮に1億円とするならば、これはゼロ金利政策を行えば、月々8万円の100年払で購入し、新築することができるものとなります。
要するに何を言いたいのかというと、政策次第で、災害に強い街づくりも、広い敷地面積を持った住宅も、災害に強い家屋も、街づくりも、また災害発生時に迅速に復興をすすめることができる街づくりも、すべては人の力で可能だ、ということです。
そもそも日本列島は、天然の災害がたいへんに多い。
その一方で日本列島に住む人は、四方を海に囲まれていますから、災害が発生したからと、土地を捨てて逃げることもできない。
そうなると、この日本列島のなかで、とにかくも助け合って行きていくしかない。
冷蔵庫のない時代における唯一の年をまたがった保存食である稲作の発達も、手抜きをしないしっかりした工事の技術も、ひとつひとつの製品をしっかりと丁寧につくりあげる技術国家としての要素も、和の精神も、いずれも日頃から災害に備え、災害が起きても被災は人災だと考えて、人の力でできる限りの対策をし、また被災後の復興も迅速に行う。
木造建築の発展も、災害時の迅速な復興を考えれば納得できることです。
石造りの住宅では、倒壊時の危険が大ですし、瓦礫の撤去もたいへんです。
その点、木造なら、燃やしてしまえば簡単に片付けができるし、素早く新築もできる。
そのために、森の木を絶やさないように、絶えず植林をしてきたというのも、日本が災害対策国家として発展してきたからです。
行政は、政治が定めたルールを守って行うものです。
けれども、その行政をどのような方向に向けるかは、政治の仕事です。
政治の仕事は、もり蕎麦が良いのか、かけうどんにするかを延々と議論することではありません。
いまいちど、日本が災害の多い国であることを踏まえて、一から政治のあり方を考え、国の形を再構築していかなければなりません。
そうしなければ、日本はますます災害に弱い国になってしまうからです。
神々の怒りは、ついに千葉までおおいました。
東京に水害や地震が襲えば、日本は壊滅です。
それだけではない。
仮に海面が3メートル上昇すれば、日本の平野部・・・つまりほとんどの都市部は壊滅します。
神々にとって、それは鎧袖一触です。
日本人は目覚めるときです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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