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たいせつなことは、結果そのものにあるのではなくて、結果を得るために努力を続けることにこそ、人生の意義がある、ということなのではないでしょうか。


20191022 長岡半太郎
画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%8D%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

元大村藩士の長岡半太郎(ながおかはんたろう)は、世界ではじめて土星型の原子模型を提唱した人です。
ノーベル物理学者の湯川秀樹を育てた人としても有名です。
原子模型といえば、下の図のようなものは、ご覧になったことがあると思います。
原子模型

図の真ん中の、青と赤のつぶつぶのところが原子核です。
原子核の中には、陽子と中性子(赤と青のつぶつぶ)が詰まっています。
その周りを、電子(図の黒い丸)が飛び回っています。
図では小さいですが、実際には、たとえば赤と青のつぶつぶ(陽子と中性子)が直系1cmとすると、原子核は、ちょうど野球場くらいの大きさになります。
つまり野球場に数枚から数十枚の1円玉が置いてある姿が、原子核の姿です。
とんでもなく過疎です。
電子は、その原子核の周りを回っているのですが、原子核の大きさが野球場とすると、電子は土星と木星の間くらいのところを周回しています。
図では、直ぐ側に見えている原子と電子の距離は、実はとほうもなく離れているのです。


すべての物質は、分子の結合によって出来ていますが、その分子は原子の結合によってできています。
そして原子は、まるで宇宙空間のような広大な空間を形作っているわけです。
ちなみに最近流行の量子というのは、簡単にいったらこの原子のことです。
素粒子までいくと、原子核の中にある中性子(上でいえば1円玉)の中にあるクォークのあたりまで小さな世界になります。
この小さくて広大な世界の実際のサイズは、1メートルの10億分の1のナノサイズで測られます。
このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用しません。
そこで新たに登場したのが量子力学、というわけです。
さて、長岡半太郎は、世界がまだ「物質というのは、分子からできていて、その分子はどうやら原子からできているらしい」というくらいの時代に、
「原子は土星型をしており、
 原子核の周りを
 電子が回っている」
というモデルを発表しました。
明治37(1904)年のことです。
いまではこのことは中学生でも知っている一般常識ですが、実はこの理論は、当時の学会ではまるで相手にされませんでした。
それどころか長岡半太郎は
「そんな研究は実証的ではないから止めた方がいい」
とまで言われて、結果、研究を断念してしまいました。
ところがその10年後の大正2(1913)年、デンマークのコペンハーゲン大学のニールス・ボーアが、長岡と同様の原子模型を提唱し、これが世界で承認されました。
ですから上の図のような原子模型は、いまでは
「ボーアの原子模型」
という名が付いています。
このことを知った長岡は、研究を途中で断念したことが余程くやしかったようです。
ボーアの原子模型の10年後(大正12(1923)年)、長岡半太郎は、教え子の仁科芳雄(にしなよしお)を、コペンハーゲン大学に送り込みました。
仁科は5年間、コペンハーゲン大で過ごし、同大学の自由な校風を日本に持ち帰りました。
この仁科のもとで学んだのが湯川秀樹で、長岡半太郎は湯川秀樹をノーベル賞候補に推薦し、10年の歳月をかけて、彼をノーベル賞受賞に導いています。
長岡半太郎は、東京帝国大学の教授で、後に初代大阪帝国大学総長、貴族院議員、帝国学士院院長、初代文化勲章を受章した、とても優秀な人です。
けれども長岡半太郎は、幼いころは学校の成績は極端に悪かったそうです。
彼は、はじめ、大村藩の藩校である五教館(いまの長崎県立大村高等学校)に入り、9歳のときに親の上京にあわせて東京の本郷にある湯島小学校に転校したのですが、なんと半太郎は、この小学校で落第しているのです。
ちなみにこの「小学校でも落第」というのは、実はもっと深い意味があって、小学校でも教師の言うことを聞かなかったり、成績が極端に悪い生徒は、昔は放校処分というのがあったのです。
つまり、学校から追い出されました。
次に厳しい処分が、落第でした。
いまでは戦後教育体制が、小中学校を義務教育にしてしまいましたが、実は、これがいけないことなのです。
たとえ小中学生でも、教師の言うことを聞けなかったり、学業の成績が至らない者は、情け容赦なく放校、落第させる。
その緊張感こそが、実は教師を教師たらしめ、また生徒を鍛え上げるのです。
緊張感を失った戦後教育では、生徒が教師を馬鹿にするようになり、しかもどんなにあくどい生徒でも、絶対に放校にもならないし、落第もしないというのなら、教育現場のレベルは、悪い生徒に引きずられて、どんどん環境が悪化します。
いじめの問題も、根幹はそこにあるのではないかとさえ思います。
教師も同じで、校風になじまない教師なら、あっさりと首になる。
それをしないから、あくどい教師が、まっとうな教師をいじめるような不埒が日常化するのです。
さて、東大理学部の学生だった当時の長岡半太郎は、逆に東大をまるまる1年休学しています。
果たして東洋人に科学研究能力があるのかと悩んだことがその原因だったのだそうです。
このあたり、教えられたことをただ鵜呑みにするのではなく、自分の頭でものごとを深く考える性格を表しているように思います。
長岡半太郎は、東大を卒業し、そのまま東大大学院に進み、東大助教授、東大教授となりました。
専攻は物理です。
この時代の物理は、実証主義全盛の時代で、目に見えない原子や分子の存在を仮定して議論を進める理論物理学はまだ「異端」とされていた時代です。
自然科学者の取るべき道ではないとされていたのです。
そんな中で半太郎は、悩みながらも
「仮定がたとえ奇抜なものであっても、
 そこから導きだされる結論が
 実際の現象とよく合致する場合には、
 その仮定を正当なものとして
 認めるべきだ」
と主張しました。
そして主張するだけでなく、当時ヨーロッパで花開いたばかりの原子物理学の世界に踏み込み、冒頭の土星型原子モデルを考案したわけです。
いまでは原子モデルは、ボーアの原子模型が世界的に認められた最初のモデルだとされているけれど、長岡半太郎の土星型モデルとの違いは、長岡モデルの絵が、原子核と電子が比較的近い場所に書かれているのに対し、ボーアのそれはすこし離れて書いてあるという違いだけです。
だから長岡半太郎の図は、世界では認められないものであったのだとされていますが、実際には、原子核とその周りを周回する電子との間には10の12乗メートル(1兆メートル)もの距離があるわけです。
そのことを考えれば、図の違いは、目くそ鼻糞を嗤う程度の違いでしかありません。

長岡半太郎の土星型モデル
土星型モデル

ただはっきりとしていることは、物理学は実証主義でなければならない、というある種の思い込みが、長岡半太郎の画期的な研究を途中で止めさせ、日本における量子力学の発展を一時的にせよ阻害したという事実です。
これは大きな問題です。
なぜなら、本来学問は自由でなければならないからです。
学問をイデオロギーにしたり、政治にしたりしてはなりません。
長岡半太郎の有名な言葉をご紹介します。
「何々になろう」とする者は多いが
「何々をしよう」とする者は少ない。
この言葉、重く受け止めたいと思います。
明確な目標を定めて、その目標に向かって進むということは、大切なことだとよく言われます。
けれど長岡半太郎は、定まった目標ではなく、自分自身の目標を得るために努力することこそが大切なのだと言っているわけです。
このことは、もっとくだけた言い方をするならば、たとえば
A ○○ちゃんの恋人になろうと思って必死に口説こうとする人は多いけれど、
B ○○ちゃんの恋人にふさわしい男になろうと努力する人は少ない。
あるいは
A 仕事で部課長に出世できるように頑張る人は多いけれど
B 仕事そのものを通じて自分を成長させようとする人は少ない
あるいは
A 日本を守れる男になろうと思う人は多いけれど、
B 立派な日本人となれるように成長していこうとする人は少ない
要するにたいせつなことは、結果そのものにあるのではなくて、結果を得るために努力を続けることにこそ、人生の意義がある、ということなのではないでしょうか。
※この記事は2012年4月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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