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つい先日、「豈無國歟(あにくになけむや)の『あに〜や』は反語的表現であって、これを『よろこびあふれる楽しい国』と読むことは間違いではないのか」というご質問をいただきました。このことは、以前にも何度もご案内していることなのですが、あらためてご案内をします。


20180508 豈国無歟
画像出所=https://www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/asia/jp/japan/taiko_g/002281.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

豈無國歟(あにくになけむや)という四文字熟語は日本書紀にある言葉です。
日本書紀では、創世の神々の誕生のあと、イザナキ(伊弉諾)、イザナミ(伊奘冉)の二神が生まれたあと、次の文を書いています。
 伊弉諾尊 伊弉冉尊
 立於天浮橋之上、共計曰
 「底下、豈無國歟
 廼以天之瓊(瓊玉也、此云努)
 矛指下而探之是獲滄溟

(現代語訳)
イザナキとイザナミは、ともに次のようにはかられました。
「底の下に、豈国(あにくに)なけむや」
そしてアメノヌボコを、下にさしおろして、
混沌としたところを探(さぐ)りました。
こうして誕生したのがオノゴロジマであり、ニ神は、そのオノゴロジマに降臨されて、国や神々をお生みになられます。
そして、ここに出てくるのが「豈無国歟(あにくになけむや)」という言葉です。
ご指摘のように「あに〜や」という表現は、現代の古語教育では「下に打消の表現を伴なう反語」であるとされています。
たとえば「あによからんや」といえば「良いだろうか、いや決して良くはない」という意味になるし、「あにまさめやも」といえば「どうしてまさろうか、いや、まさりはしない」です。
その説に従えば、「あにくになけむや(豈無国歟)」は、「国があるだろうか、いやありはしない」となり、そういいながら、二神は底下に矛を差し入れて、オノゴロジマを作ったことになります。
ところがこれは神様の言葉です。
「ありはしない」と断定してから、「オノゴロジマを築いた」というのでは、言葉と行動が矛盾します。
なにしろこれは日本書紀に登場する最初の神様のお言葉なのです。
その神様が「ない」と断定されたのなら、もう「ない」のです。
その後のオノゴロジマ建設はありえません。
逆にオノゴロジマ建設を神々の偉業とするなら、その前の「ない」という断定と矛盾します。
つまり現代古典学会的な「あに〜や」の解釈では、日本書紀のここの記述を読み解くことができません。

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20190317 MARTH


では「豈無國歟(あにくになけむや)」は、何を意味しているのでしょうか。
そこで使われている漢字の「豈」の意味を調べてみます。
なぜなら、日本にはもともと大和言葉があり、その大和言葉の語彙(言葉の意味)にもっとも近いと思われる漢字を、用いて日本書紀は記述をすすめているからです。
御存知の通り、日本語の漢字の読みには、音読みと訓読みがあります。
実は、漢字に訓読みを持つのは、漢字圏の国々の中でも日本だけが持つ特徴です。
なぜ訓読みがあるのでしょうか。

日本語が、古来からの言語を持たず、あるいは言語があってもきわめて原始的なものに過ぎず、漢字を輸入することでようやく複雑な表現を可能にする言語となった・・・つまり日本語が漢字によって事実上、生まれた言語であるのならば、日本語に訓読みはありえません。

たとえば日本にはカカオがありませんから、当然、チョコレートもありません。
ですから江戸時代にチョコレートが持ち込まれたとき、それを最初は「しょくらあと」と表記したし、幕末にこれをあらためてカタカナで「チョコレート」と表記するようになりました。
そもそも概念がないのですから、外来語をそのままカナで表現するしかなかったわけです。
すこし誤解しやすいところなので補記すると、言葉がなくても概念があれば、単語を創出することができます。
たとえばわが国にはThe peopleや、Republicという言葉に合致する単語がなく、だから幕末に多くの外来語の翻訳単語が作られました。
けれど合致する単語がなかったから、人民とか共和といった概念がなかったかというと、それはあったわけです。
だから同じ意味の単語である翻訳語をつくることができました。
そこがchocolateを、そのまま「しょくらあと」と表記せざるを得なかったこととの違いです。
中華人民共和国という国名には、なんと漢字6文字のうち4文字が日本語からの単語輸入によります。
要するに単語をまるごと輸入するしかなかったのは、その概念がなかったからということができます。
逆に概念があれば、自国の言葉に置き換えて翻訳することができるのです。
この点について、近年外来語を翻訳後にしないで、そのままカタカナ文字で表現する人たちがいますが、そうした人たちは、要するに日本語でのその概念を持ち合わせていない不勉強が根底にあるか、あるいは何らかの悪意のもとにご都合主義的に他人を煙に巻くために外来語を悪用しているのかのどちらかです。
前者には、たとえば「リノベーション(renovation)」があります。
これは「既存の建物を大規模に改装して用途変更や機能の高度化を図り、建築物に新しい価値を加えること」で、イノベーション(技術革新)とも意味が違うし、もとから日本語にある修理、修繕、修復などとも意味が異なります。
ですからリノベーションは、リノベーションとして用いるしかありません。
後者にはたとえば「コンセンサス(consensus)があります。
これは意見の一致のことで、普通に日本語で「合意」と訳すことができるものです。
これを「合意」と言わずに、意図的に「コンセンサス」というのは、なにか意図があってのことです。
もっとわかりやすいものでは、ヘイトスピーチの「ヘイト」があります。
ヘイトというのは英語の「hate」のことで、これは「憎悪」を意味します。
差別は世の中にあってしかるべきもので、差別そのものを良くないと決めつけるというのはおかしな議論だ、という論が出るようになったら、そういう意見はヘイトだというのです。
突然「ヘイト」と言われても、意味の分かる人はそうそう多くはありません。
え、それってどういう意味?と相手が混乱している間に、相手を悪いと決めつけて憎悪をあおる。
どっちがヘイトだって言いたくなりますが、「ヘイトスピーチ」と言わずに、普通に日本語で「憎悪発言」とわかりやすく言えば意味がわかるようになります。
要するに、相手を煙に巻くために、カタカナ英語を悪用している典型です。
話が脱線しましたが、その言語に概念がなければ、当然その概念を示す単語がなく、単語がないならば、輸入語をそのまま使うしかない。
このことをしっかりと頭に入れておけば、相手がカタカナ語を並べ立ててきたら、何らかの悪意があると、察することができるようになるわけです。
こういうことこそ学校で教えるべきと思います。
誤解といえば、日本書紀も誤解されています。
日本書紀は、
「漢文で外国向けに書かれている」
といわれていますが、そうではありません。

「漢字を用いて日本語で書かれている」
のです。
どういうことかというと、たとえば日本書紀にある有名な言葉に「和をもって貴しとなす」という言葉があります。
聖徳太子の17条憲法にある言葉です。
そしてこの言葉は日本書紀に「以和為貴」と記述されています。
これで「和をもって貴しとなす」と読み下すのですが、チャイナ語で「和」というのは、日本語で言う「あなたとわたし」、というときの「と」、つまり接続詞です。
また「貴」は、お金があって身分の高い人のことを言います。

ですからチャイナ人に「以和為貴」という四文字熟語を見せても、彼らには「接続詞の《と》の身分が高い」という意味不明な言葉にしかなりません。
つまり日本書紀は、なるほど漢字で書いてはありますが、これはいまでいうならローマ字で日本語を記述するようなもので、ローマ字で書かれたアルファベットの文章を英米人が読めないのと同様、日本書紀も漢文調であっても、これがChina語で書かれたものとはいえません。
このことが何を意味しているのかというと、古代の日本人は、漢字が複数の象形文字を組み合わせて一定の意味を持たせた表意文字であることに注目し、その意味と大和言葉の意味を重ね合わせながら漢字を大和言葉の記述のために導入したということです。
つまり、漢字一文字一文字の持つ意味を大切にあつかいながら、日本書紀を記述したといえるのです。
これがさかんに行われるようになったのが、万葉集や古事記、日本書紀が編纂された7世紀のことですが、7世紀の日本は、隋や唐という軍事大国の脅威の前に、是が非でも日本を中央集権的な統一国家にしていかなければならない時代でした。
ところがそこに、実に日本的な困難がありました。
チャイナやコリアであれば、外来王朝ですから、気に入らない反対勢力は、ただコロスだけです。
皆殺しにして、その親族まで殺害して、その一族の血を完全に絶やしてしまう。
ですからチャイナでは、王朝が替わるたびに、人口が3分の1に減少しています。
しかしこの方法が、日本では使えないのです。
なぜなら、地方豪族たちは、もとをたどせば、全部、親戚です。
同じ日本列島の中で、何千年も暮らしてきたのです。
日本全国津々浦々、全部の人が血の繋がりのある、共通のご祖先を持つ、同じ日本人なのです。
親族の恨みほど、恐ろしいものはありません。
これは昔から、世の中で怖いものは二つ。
「女の恨みと男の嫉妬」
と言われるくらいで、恨みというのは、何十年経っても何百年経っても消えません。
男の嫉妬もしつこいですが、女の恨みほど、世の中に恐ろしいものはないのです。
同様に親族の恨みもまた、何十年も何百年もあとをひきます。
つまり「気に入らない相手はコロス」という、外来王朝や植民地支配に見られる方式は、わが国を統一国家にしていくうえでは、用いることができないのです。
そこで統一国家を形成するための方法のひとつとして進められたことが、中央に高い文化を形成するというものでした。
もともと大和言葉は、一字一音一義です。
五十音の組み合わせで、様々なことを表現します。
ところが漢字は、わが国の一字一音一義の神代文字を組み合わせて一字とする会意文字です。
会意文字というのは、意味を会わせた文字という意味です。
たとえば、心を亡くした状態が「忙しい」です。
さらに、用字がたくさんありすぎて忙しいなら、多忙です。
つまり一字一音一義の大和言葉に、さらに漢字を加えることで、もっと複雑な事柄を表現できるようになるのです。
そしてこのことは文化になります。
このことが中央の高い文化性となれば、地方豪族たちは、中央の文化の前にひざまずきます。
これがうまく機能したのが、わが国の国司の制度でした。
中央から地方に派遣される国司は、武器を持たずに、武装した地方豪族から税を取り立てます。
そのためには、信頼して税を収めるに足るだけの信用と信頼が国司の側になければなりません。
そしてその信用と信頼の元になるものが、文化だったわけです。
このような視点から、あらためて「豈」という字を見ると、この字は神社などで使われる「楽太鼓(がくたいこ)」の象形であることがわかります。
楽太鼓は、婚礼の儀や記念祭など、お祝いのとき、よろこびのとき、楽しいときに打ち鳴らす太鼓です。
だから名前を「楽太鼓」といいます。
つまりイザナキとイザナミは、
「よろこびあふれる楽しい国はどこかにないだろうか、
 いや、ないよね。
 だったらオレ達で作ろうよ」と、アメノヌボコを用いて私達の住む地球、自(おの)ずから転がる「オノゴロジマ」をつくったのだと、日本書紀は記述しているのです。
つまり「豈国」とは「よろこびあふれる楽しい国」のことです。
実はこのことを出口光先生にお話ししたとき、出口先生が「豈」という字を見て、
「これはヤマトだね」とおっしゃいました。
衝撃でした。
「豈」という字は、「山」と「豆」で出来ています。
そして「豆」の訓読みは「と」です。
「やま(山)」に「と(豆)」で、「ヤマト」です。
ヤマトの語源論は別として、古代の日本人が、私たちの国を「ヤマト」と呼び、そのヤマトが希求した国の形が、私たちみんなにとっての「よろこびあふれる楽しい国」であったといういことは、まさに目からウロコが剥がれ落ちる事実で、それはとっても誇るべきことであると思います。
誰か一人の贅沢な暮らしのために、周囲のみんなが奴隷として使役される社会ではなく、末端のみんなが主役となって、みんなにとって、社会がよろこびあふれる楽しい国であること。
そのことを実現するために築かれたのが、天皇という権威を国家最高権力の上に置くというシラス統治の形です。
残念ながらこういうことが、戦後教育の「あに〜や」は反語表現であるという固定概念に固まってしまうと、たいせつな意味を見失ってしまいます。
こだわりから思考停止に至ることは、とても残念なことです。
※この記事は今年6月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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