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すべてのものには、それぞれの祖先からの記憶や意思や判断が内在していて、それは我々が意識することができる表層意識よりも、ずっと深いところに膨大な知識として埋まっているのだそうです。
仏教では、これを阿頼耶識(あらやしき)、阿摩耶識(あまやしき)などと呼ぶし、神道では神々の知恵と呼びますが、それらが万物すべてに宿っているのだとしたら、これはたいへんなことです。
私達のご祖先が、すべての生きとし生けるもののみならず、道具類にまで神が宿ると考えて感謝の心をもって接してきたのは、もしかすると、そういうことを経験則的に「知っていた」のかもしれません。


20190708 阿頼耶識
画像出所=https://www.slideshare.net/youichiromiyake/ss-80086146
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

つい先日のことです。
車を走らせたら、運転席のドアのところのガラスの真ん中にクモが降りてきました。
大きさは2センチくらいかな。降りてきたのは外側です。
自動車は宅地内から街道に出ようとしています。
まだまだゆっくり走行中なのですが、クモさん、風に飛ばされてはまずいと思ったのでしょうか。
窓の真ん中に、蜘蛛の糸を出して必死の様子で張り付きました。
目の高さのすぐ横にクモが張り付いているわけです。
運転する者にしてみれば、あまり気持ちの良いものではありません。
そこで空いている県道に出たときに、加速して風圧で飛ばしてしまおうとしました。
するとクモさん、そこに巣でも作るかのように糸をたくさん出して飛ばされまいと、風圧でブルンブルン揺れながら窓に張り付き続けました。
車は高速に入りました。
今度は時速100キロほどです。
ついに耐えきれなくなって風で飛ばされたのですが、それでも窓と糸一本でつながっています。
そのまま飛ばされるかと思ったら、手足をバタバタさせながら、ふとした拍子に車のウインドウの外枠の下に取り付きました。
そこは窓とすこし段差がありますし、窓とちがってゴムですから取り付きやすい。
クモは、そこに糸をたくさん吐いて、飛ばされないように上手に取り付くと、まるで人間が安心して「ハアハア、ゼイゼイ」とするかのような態度をとりました。
高速を降りて一般道にはいりました。
車の速度が落ちて、風圧が下がり、信号待ちで車が停まりました。
クモさん、安心したのか、人間で言ったら、まるで伸びをするかのように、手足を伸ばしました。
その様子は「飛ばされなかったぜぃ!、良かったぁ〜〜」と、まるで声が聞こえてきそうな感じでした。

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20190317 MARTH


さりとて、そこで巣を張られても困ります。
追い払おうと、ウインドを少し開けたら、そのまま下に落ちて行きました。
さて、そんな一連のクモの様子を見て「クモにも感情はあるのだな」と感じました。
もちろんクモは昆虫ですから、人間のような大きな脳があるわけではありません。
わずか100万個の神経細が微小脳があるだけです。
しかし脳がある、ということは、昆虫は痛みなど感じない生き物とされているのだけれど、彼らは人間以上に、まさに食うか食われるかの世界に生きているわけです。
殺されそうになったら必死でもがくし、逃げようとしますが、それらは単に本能的行動というだけでなく、もしかすると、彼らにもちゃんと痛覚があり、またもしかすると感情さえもあるのかもしれません。
そうう意味では、植物にも感情があることは数多の実験で知られていますが、植物にも大脳に相当する器官があることが、近年の研究でわかってきたのだそうです。
「やっぱり!」という感じなのですが、実は昆虫や植物どころか、菌のような多核体の単細胞生物でさえも、高度な知能にあたる判断力や記憶力、洞察力が備わっていることがわかってきているのだそうです。
これは↓の記事に詳しいので是非ご参照いただきたいのですが、まさに不思議としかいいようのない事実で、この実験を行った北海道大学理学研究科(当時)の手老篤史氏らによる研究チームは、2008年にイグノーベル賞の認知科学賞を受賞しています。
『脳や神経がないのに迷路を解き、融合することで記憶を共有する黄色いスライム「モジホコリ」の不思議な力』
https://gigazine.net/news/20161226-slime-molds/
ここまでくると、一連の事実として「人は大脳でのみ記憶し思考する」という従来説が、どうやら疑問に思えてきます。
もしかすると細胞単位で記憶力や判断力を持っているのかもしれない。
そしてそれが細胞単位だというのなら、その記憶はDNAによって受け継がれていくものであるのかもしれないとまで思えてきます。
さらにいうなら、多核体の単細胞生物の示す行動は、ひとりひとりの人間は、国家という集合体と同じです。
国家は、集団としての意思を持ち、戦争をしたり交易をしたりします。
つまりそこには集団としての意思も記憶も判断力もあるわけですし、状況を察する力もあるわけです。
企業も同じで、各社それぞれに集団としての意思や記憶や判断を行います。
けれどその企業に所属するひとりひとりもまた意思や記憶や判断力や洞察力を持っているわけです。
たとえばA社と取引をする、ということに、賛成の社員もいれば、反対の社員もいる。
結果として取引をすることになり、それによって会社の売上が伸びて社員のボーナスが上がったとしても、社員の中には、それでもやはりA社とは取引すべきではないと考え、行動する人達がいる。
生命体である個体の内部における細胞もまた同じで、ひとつひとつの細胞は、実はそれぞれにある意味独立して、記憶や意思や判断力を持っているのかもしれません。
我が国では、神というのは、我々の祖先をずっとさかのぼっていったさきにある、人々の共通のご祖先のことをいいます。
父母、祖父母、曾祖父母、高祖父母、曾祖父の父、高祖父の父・・とずっと祖先を上(かみ)の方にさかのぼっていくと、4〜500年前までなら各家のご祖先となりますが、700年以上昔になると、どの家系も全部血が混じって、誰が誰の祖先とはいえなくなってしまいます。
そうした共通のご祖先のことを、祖先を上(かみ)にさかのぼった先においでの方々という意味で、我が国では「神」と呼び慣わしました。
「神」が目に見えない天上界の、いわば人類とはまったく別な種を意味するといった思想は、日本人にとっては、実はキリスト教伝来以後のものです。
ちなみに、それ以前の仏教伝来のときは、仏様もまた人類とはまったく別な種という意味で、神とは別な言い方として、如来とか仏様という呼び名をしています。
我が国古来の「神」の別称としては「みこと(命・尊)」がありますが、「み」は身、「こ」は光、「と」は透を意味し、身から光彩を放つような高貴なお方のことを指す言葉です。
そのような次第から、たとえば高天原にしても、これを天界だと主張したのは本居宣長からで、それまでは高天原は、日本列島のどこか、という考え方でした。(ですから全国のあちこちに「ここが高天原だ」という神社があります)。
そしてそのご先祖からの記憶によって生まれる知恵が「神々とつながることによって得られる知恵」であり、これをどうやら「魂の記憶」とか、仏教伝来以後は「前世の記憶」などと呼ぶようになったわけです。
神々の時代からの血を引く我々は、同時に神々の時代からの記憶を、その体内に宿しています。
それは現代風に言うなら、細胞の記憶もしくはDNAの記憶と呼ばれるものです。
そしてその記憶が万物すべてに備わっているとするならば、万物は同時に判断力や洞察力をも備えることになるとも考えられるわけです。
すべてのものには、それぞれの祖先からの記憶や意思や判断が内在していて、それは我々が意識することができる表層意識よりも、ずっと深いところに膨大な知識として埋まっているのだそうです。
仏教では、これを阿頼耶識(あらやしき)、阿摩耶識(あまやしき)などと呼ぶし、神道では神々の知恵と呼びますが、それらが万物すべてに宿っているのだとしたら、これはたいへんなことです。
私達のご祖先が、すべての生きとし生けるもののみならず、道具類にまで神が宿ると考えて感謝の心をもって接してきたのは、もしかすると、そういうことを経験則的に「知っていた」のかもしれませんね。
お読みいただき、ありがとうございました。

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