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先日も少し書いた内容ですが、もうすこし掘り下げてみます。「こういうものだ」と決めつけで思考停止に陥るのではなく、「〜かもしれない」と考えをふくらませることで、視界が大きく開けます。それが学問の自由というものなのではないかと思います。そしてそれは、とても楽しいことです。


20190705 シルクロード
出所=https://4travel.jp/travelogue/10776307
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

シルクロードと聞くと、NHKの『シルクロード紀行』を思い出して、砂漠を旅する壮大なロマンを感じられる方が多いと思います。
なんといっても音楽が喜多郎。
ゆったりとした癒し系のリズムで、壮大な景色を見せられると、もとより自然の大好きな日本人は、それだけでうっとりしてしまう。

ところがこのシルクロード、名前の命名はフェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(Ferdinand Freiherr von Richthofen)という19世紀のドイツの地理学者で、著書の『中国(China, Ergebnisse eigener Reisen und darauf gegründeter Studien)』という全5巻の本の第1巻(1877年出版)の中で「Seidenstrassen」と命名したのがはじまりです。
それまでは、そんな名前はなかったのです。

ではフェルディナントがどうしてシルクロード(絹の道)と命名したかというと、ササン朝ペルシャを出発して唐の長安に至る交易を考えたとき、ペルシャの側には壺やガラス製の器機、絨毯など、さまざまな産物があるのに対し、唐の長安には、産物らしい産物がないのです。
あるものといえば、山くるみ、スキ餅、金華ハム、鴨の醤油漬け、木彫り、石彫り、茶、紹興酒くらいです。

くるみや餅やハムは、長期間を要する旅で運ぶには適さないし、木彫りや石彫ならペルシャの方が技術が上です。
要するに圧倒的な当時の最先端物産を持つペルシャに対し、唐の側には、それに応ずるだけの産物がない。
そこでやむなく、上海にまで足を伸ばして、上海にほど近い杭州のシルクが、絹織物としてペルシャで珍重されたのではないかと推測して、付いた名前が「シルクロード」です。

もっとも、ペルシャがいまなお誇るペルシャ絨毯は、やはり素材に絹が多く使われています。
その絹は、いまのイランのカシャーンのあたりが大産地なので、これまた実は唐から絹を輸入する必要がない。
このように考えると、ペルシャの商人たちが、わざわざ遠く唐の長安まで出かけていく理由がなにもないのです。

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20190317 MARTH


これについて、長安が当時人口200万を要する世界最大の都市だったからだ、という説がありますが、これまたかなり嘘くさいものです。なぜなら長安がそれほどの人口を擁した古代の大都市であったとは、どうにも考えにくいからです。
実際、長安の都市図は、さまざまなところで紹介されていますが、その規模は、誰がどうみても200万の人口を擁する町に見えません。

20190705 長安城復元図

そもそも当時の食糧生産力から考えて、長安の周辺で200万人分の食料を生産することは不可能です。
それにこの時代、唐の国全体の人口でさえ、たったの5000万人です。
現代Chinaの人口は13億3972万人(2010年)なのだそうですが、昔の長安、いまの西安の人口は987万人です。
比率がいまも昔も変わっていないとすれば、唐の時代の長安の人口は最盛期でもようやく40万人程度です。
Chinaは白髭三千丈の国で、だいたい半値八掛五割引すると実数になるという特徴がありますが、200万を半値八掛五割引すると、まさにぴったり40万になります。

ちなみに下の図は奈良の都の復元図です。
往年の奈良の都の人口は20万人。
20万人でも、この規模になるという見本です。

奈良の都・奈良市市役所にある復元模型
20190705 奈良の都の復元模型

長安は、唐の全盛期には人口200万を擁したが、その後、唐が衰退すると人口は元の20万に戻った・・・などと説明されていますが、そうではなくて、そもそも人口が最初からずっと20万であり、都が置かれた唐の時代の最盛期がおそらく倍の40万といったところなのではないでしょうか。

いずれにしても、単に人口が多いだけの政治都市ならば、世界中、他にいくらでもあったわけで、やはりペルシャ商人たちにとって何の魅力もありません。
ところが、ペルシャからやってくるシルクロード商人というものが、実在したことはたしかなことです。
その事実は、我が国の正倉院の宝物などでも証明されています。
では、ペルシャ商人たちは「どこを目当てに、どうして、どうやって」やってきたのでしょうか。

自動車や航空機のなかった時代のことです。
荷物を持った人の移動に際しては、川を使うのが、もっとも適していることは、あたりまえのように理解できることです。
そしてこの時代のペルシャは、ササン朝ペルシャの時代で、その領土はいまのトルコからイラン、アフガニスタンに至る広大な地域でした。
その東の外れにあるのがインダス川です。
そしてインダス川をさかのぼれば、ガンダーラを経由して、パミールやカシュガルに至り、そこからタリム盆地の砂漠地帯を避けてオアシス沿いに北上すると、キルギスのイシク・クル湖に到達します。
そこからバイカル湖方面に抜けて、川を下って渤海国に入るとウラジオストックに抜けることができます。

ウラジオストックは、昔は東京龍原府と呼ばれていたのですが、そこまで商品を運んでくると、日本から来た商人たちが金(Gold)と商品を交換してくれたのです。
日本では、東北地方はお米が取りにくい。
けれども税は、租庸調で、米か布か、その他金属類です。
貨幣経済はまだ銅銭が出たばかり。まだまだ物々交換が主流の時代です。
金(Gold)も、いまほどの交換価値を持ちません。

その金が、東北地方ではたくさん産出しました。
地元の人たちにしてみれば、川の水をすくえばいくらでも採れる、ただの金色をしたきれいな砂粒、あるいは山の鉱物に混じった金色の帯でしかありません。
ところがその砂や石を東京龍原府に持っていくと、ペルシャの商人たちが大喜びして貴重なガラス製品などと交換してくれます。
そしてペルシャ製品を貴族に献上すると、これがまたたいへんによろこばれ、税の免除などをしてもらえる。
東北地方はお米が取れないから、これは本当に助かることだったのです。
一方、ペルシャでは、砂漠に自然現象によってできたガラスの塊(かたまり)が、あちこちに転がっています。
ガラスは、少し熱を加えるだけでいろいろな形に変形させることができるものですから、これを様々な形にした食器や壺やお皿が普及しました。
つまりそれは、砂漠の民であるペルシャの人たちにとって、簡単に原始取得(元手をかけずに自然から入手できるもの)できるガラスを用いた二次加工品であったわけです。
ガラスが石英などの鉱物を加工して人工的に作られるようになるのは、もっとずっとあとの時代のことです。
そして砂漠がない日本には、ガラスはありませんし、当然、ガラス製品もありません。
代わりに日本では、山で餅鉄(もちてつ)が手に入りました。
これは山の鉄鉱石が、山火事などで溶け出して固まったもので、これを利用して古来さまざまな鉄器が作られるようになりました。その代表格が日本刀です。
同様に日本では、特に東北地方において、川の水をザルですくえば、金色の砂(砂金)がいくらでも手に入りました。山に行けば、金色の層(純金)を持った岩石がいくらでも手に入りました。
これはいまで言うならば、たとえば河川の上流に行けば、川底に丸いきれいな石がいっぱい転がっていますが、その石が海外ではひとつ10万円化けるようなものです。
要するにペルシャでは原始取得のガラスがいくらでも手に入り、日本では原始取得の金(Gold)がいくらでも手に入ったわけです。
いくらでも手に入るモノというのは、その土地の人たちにとっては二束三文の品でしかありません。
けれど、地球の反対側の人たちにとっては、それはものすごく貴重なものです。
まさにWin-Winの関係です。おかげでシルクロード商人たちは列をなしてやってくるし、日本国内では金が大量に掘られることになる。
そして窓口のなっている渤海国は、濡れ手に粟で大儲け、となりました。
もっとも濡れ手に粟の渤海国は、あまりに経済成長いちじるしかったため、奥地にいる契丹にヤキモチをやかれて、契丹によって滅ぼされてしまいます。
はるばるペルシャからやってきた商品は、貴族たちに献上され、貴族はまた天皇に献上しました。
そして当時の品々は、いまも国宝として正倉院に大切に保存されています。
以上は、従来唱えられてきた説とだいぶ異なります。
しかし「シルクロードはペルシャから唐に至る交易の道」という固定概念を外してみると、なんとシルクロードと呼ばれていた交易路は、なんと「ジャパンロード」と呼んだほうがはるかにふさわしい路であったことが見えてきます。
歴史は、過去の出来事を合理的かつ客観的、論理的にストーリーにしていく学問です。
つまり、考える楽しみのある学問分野なのであって、単なる暗記科目では本来ありません。
学問は、本来自由であるべきものです。
私は常に自由でありたい。そのように思っています。
お読みいただき、ありがとうございました。


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