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「この国」という言葉は、私達の心から、実は国への愛を失わせる、たいへんに冷たい無機質な言葉です。
言葉はたいせつです。
皆さん、これからは「我が国」と呼びませんか?


20190619 江戸の遊び
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

戦後のGHQが仕掛けた悪しき日本語の代表的な言葉に、
「我が国」という言葉を禁止し、「この国」と呼ばせるというものがありました。

自分たちが生まれ住んでいる国を「この国」と呼ぶことは、一見すると、自国を客観視する正しい姿勢の用に感じさせますが、実は大きな間違いです。

なぜ間違いなのかというと、その答えは実にシンプルなもので、
「人から愛を奪う」からです。

日本語の愛は、この字の訓読みが「いとし、おもふ、めでる」であることからも明らかなように、自分自身の一部として、あるいは内在するものとしていとしく思うことを言います。

実はこうした考え方は、英語の「ラブ(LOVE)」と同じです。
英語の「LOVE」は自分にとって内側のものや、自分の一部であるもの、「LIKE」は外側にあるものです。
日本語の愛も、「LOVE」と同じで内側にあるものを意味します。

ちなみにいわゆる漢字圏における愛の意味は違っていて、これは「相手の家に心惹かれるものがあったなら、家ごと奪い取ってしまえ」というきわめて乱暴なものです。
China、特にKoreaでは、それが愛の意味になっています。
まさに日本とは違うし、おそらく西洋圏のどの国の言語とも、まったく異なる語感を持っています。

したがって、世界の常識からすれば、愛はChinaやKorea的言語感覚こそ異常です。
異常な用例を引き合いに出しても、話がややこしくなるだけですので、このことは除いて、本来の「愛(LOVE)」で考えを進めてみたいと思います。

およそどの国のどんな人であっても、自分が生まれた郷里には愛着があるものです。
けれど世界には、そういうごくあたりまえ(と思える)愛着さえも持つことができない不幸な国もあるわけで、そうした国における「愛」の言語感覚と、日本のそれを一緒にして考えると、本当に話がややこしくなる。

親の子への愛、自分が所属する学校や会社など社会への愛、郷里への愛、国への愛、愛は、すべてに通じるものです。
そして愛が、自分の内なるものとしてのいとしい思いなら、自国への愛は、人が持つごくあたりまえの感情です。
だから「よその国」と区別して、「我が国」というのです。

ところが「この国」という言葉は、客観的であるがゆえに、「我が国」という言葉が持つ情愛を失わせます。
ひらたくいうなら、血の通わない「冷たい言葉」です。
その意味では「我が国」は、血の通った「暖かな言葉」です。

「この国」という言葉は、私達の心から、実は国への愛を失わせる、たいへんに冷たい無機質な言葉です。

言葉はたいせつです。
皆さん、これからは「我が国」と呼びませんか?
ちなみにこのブログでは、書きはじめてもう11年になりますが、その間「この国」という書き方は、誰かの言葉の引用や特別な場合を除き使用していません。

お読みいただき、ありがとうございました。


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