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予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。

大正6(1917)年にロシア革命が起きました。
共産主義は社会の対立を煽(あお)り、対立を正当化します。
当時のChinaは、社会環境が劣悪でしたから、民衆の社会への不満が高まっていました。
そうした不満に裏から資金や武器を提供すれば、その動きは激しさを増します。
当時のChinaは、明治44(1912)年に清王朝が倒れたばかりです。
同年1月1日に、南京で孫文(そんぶん)が中華民国臨時政府を樹立して臨時大総統職に就任しましたが、孫文は「孫大砲」と呼ばれる口舌の徒で、軍事力が弱い。
そのためChina社会を牛耳る各地の軍閥を掌握できずにいました。
Chinaでは、ホラ吹きのことを「大砲」と呼びます。
孫文はインテリで口説の徒ですから「孫大砲」です。
口説の大砲は、いくら撃っても痛くない。
けれど各地を仕切る軍閥の大砲は、ドンと撃てば人が死にます。
だから軍閥の力は強い。
孫文は当時の世界の先進国であった日本に留学し、Chinaの平和を希望する日本人から資金援助でChina革命を起こしましたが、各地の軍閥の掌握ができない。
そこで北京軍閥の長である袁世凱(えんせいがい)に、大正4(1915)年に大統領職を譲り、袁世凱は「中華帝国」初代皇帝に即位しています。
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ここは大切なところです。
いまでも「中華民国」の成立は1912年(明治44年)とされていますが、なるほど「孫文の中華民国」はそのときに成立していますけれど、成立のわずか3年後の1915年(大正4年)末には倒れて、袁世凱の「中華帝国」が誕生しているのです。
ところがその「中華帝国」も、翌1916年(大正5年)3月には、帝政取り消し声明が出され、これによりChina国内は軍閥が群雄割拠する「国のない時代」に突入します。
ちなみに下の図が「袁世凱の中華帝国」の国旗です。

さて、こうした中で、大正9(1920)年に起こったのが「尼港事件(にこうじけん)」です。
「尼港事件」は、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、Korean、Chinese約四千のならず者たちが、共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある尼港(現・ニコライエフスク)を襲った事件です。
この事件で、石田領事を含む約700名の日本人居留民が虐殺されました。
このときはまだ、狙いは日本人ではなく、白系ロシア人たちでした。
しかし日本人は、眼の前で白系ロシア人たちが虐殺(というよりも大量屠殺に近い)される様子を見て、これに抗議しました。
そして巻き添えを食う形で、日本人も虐殺されました。
尼港事件で味をしめた共産パルチザンは、日増しに乱暴狼藉を激化させました。
昭和2年になると、日本国内では大正デモクラシーの影響で、日本の思想界、言論界、政界、財界、メディアとも、極端な平和主義と反軍主義が横行し、
「日本の軍傭を縮少し、Chinaや欧米に対して、萎縮外交をせよ」
「内需経済にこそ、歳費を注ぐべきだ」
などという新聞見出しが踊った時代です。
日本が安全保障理事国を務めた国際連盟の平和思想や、欧米列強の軍縮の呼びかけなどの影響もあったものと思いますが、風潮は昨今の日本と似ているといえるかもしれません。
それにしてもこの時代の日本は、まるで戦後のどこかの国と同じで、日本の軍隊の存在自体を悪だと決めつけるような風潮にありました。
おそらくスパイ工作もあったことでしょう。
日本の国内言論が反軍、軍縮一辺倒になる一方で、Chinaでは、日本に対する露骨な排日侮日運動が行われ出したのです。
軍事というのは、いざというときに行使できるから、相手国にとって脅威となるのです。
最初から、行使しません、あるいは行使そのものをためらう風潮があり、一方で、客観的な軍事動員可能数が、20分の1程度しかないとなれば、当然に相手側からしたら、やりたい放題になります。
それが排日侮日反日運動の正体です。
もちろん当時の日本には、軍がありましたし、また政治においては政友会や一部の新聞においても、満蒙の邦人擁護のために日本は軍事力を行使すべし、という主張はありました。
もはや平和外交では満州問題は解決しない、正義は力を振るってこそ正義となり、力なき正義は、悪徳に他ならないという主張もあったのです。
ところがこの時代の日本は二大政党制です。
政友会が主張することであれば、民政党はすべて否定です。
民政党が主張することであれば、政友会はすべて否定です。
たとえば当時の鉄道は、政友会系の人が鉄道大臣のときには駅名が全部右書き、民政党系に政権交代すると、それが全部左書きに変えられました。
全国に交番が各地に二つずつあったのもこの時代です。
交番に民政党系交番と、政友会系交番があったのです。
議会がこのような状況にありますから、議員たちの関心は、もっぱら国内の闘争にありました。
海の向こうの大陸で何があろうが、知ったことではなかったのです。
それによって、当地に住む日本人がどうなろうが、選挙に関係なければ、関心の外でした。
そんな中で起きたのが、昭和3(1928)年5月3日の「済南事件」です。
済南というのは、山東省にある商業都市で、当時、日本人をはじめ、多くの外国人が居住していました。
その斉南で「Chinaの軍閥同士の大規模な衝突」が起こったのです。
日本は居留民保護のために、同年4月下旬には済南に派兵しました。
きわめて少数の派兵です。
居留邦人保護が目的だからです。
ですから派遣軍は、済南城の外にある商埠地にバリケードを築いて、戦いが及ばないようにしていました。
ところが総司令の蒋介石は、
「治安は国民党軍が確実に確保する。
日本は(バリケードを)撤去して欲しい」
と要請しました。
その国民党軍によって治安が崩壊しているから、日本が派兵しているのです。
そんな中で、バリケードを取り去るなどということは、あり得ないことです。
ですから現場では、当然、受入れを拒否しました。
すると蒋介石は、日本政府に同じ申立をしました。
日本政府は、現場から遠く離れた日本の東京にあります。
そして無責任にも、バリケードを撤去せよと命令するのです。
バリケードは、5月2日に撤去されました。
そして起きた事件が「済南事件」です。
5月3日、蒋介石の国民党軍の兵士が、満州日報の取次販売店を襲撃して掠奪を働きはじめました。
アチラの人の掠奪というのは、実際に通州事件の際にそれを見た人の記録がありますが、とにかくなんでも持っていってしまうというすさまじいものです。
「持っていってしまう人」は、民間人だけではありません。
警察官から役所の職員まで全部です。
いざ暴動となると、職業による分類など一切関係なくなります。
さらにChinaでは古来、暴徒とヤクザと軍隊は同じものです。
つまり「蒋介石の国民党軍の兵士が、満州日報の取次販売店を襲撃して掠奪を働きはじめた」ということは、単に暴徒が暴れ始めたということであって、こうなると軍の統制も、政治関与もあったものではありません。
ひとたび火がつけば、そこにいるすべてのChineseが暴徒に早変わりします。
暴徒たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えました。
知らせを受けた日本陸軍は、急きょ救援部隊を現場に急行させました。
するとChina兵たちは、たちまち遁走し、国民党の兵舎に隠れて、銃撃を加えてきました。
やむなく日本軍はこれに応戦しました。
すると今度は、市内のあちこちで乱射や掠奪、暴行がはじまりました。
日本側は、全体の治安維持のために、冷静に国民党軍に停戦を呼びかけました。
ここに、いかにも日本人らしい「事態の履き違え」があります。
いったん暴徒となったら、兵も民もないのがChinaです。
いったん約束したら、それを最後までちゃんと守ろうとするのが日本人です。
しかしChinaでは、どんな約束も、相手を全員殺してしまえば、守る必要がないのです。
国際法上は、軍服を着ていれば兵です。
その兵は、国民党軍に所属しています。
その国民党の総裁の蒋介石が、「責任を持つ」と約束し、その約束に基いて、日本側はバリケードを撤去しています。
しかし暴動が起きたら一切の統制がなくなってしまうのもChinaの特徴なのです。
ですからChina兵は、白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使にさえ、China兵は銃撃を加えてこれを射殺しました。
戦時国際法も何もあったものではありません。
市内全域はたちまちのうちに修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女が、暴兵の手で惨殺されました。
この事件で、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っています。
下のものです。

この事件で被害にあった男性は両手を縛られ地上を引きずられたうえ、
頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、
顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、
頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなど、
およそ人間のすることとは到底思えないような残酷さで12名が凄惨な殺され方をし、その他約四百余名が暴行、強姦、掠奪によって重軽傷を負う被害を受けています。
当時の外務省公電にある公式文書です。
=======
腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、
陰茎を切り落とし・・・(以下略)
======
現場を視察した南京駐在武官佐々木到一中佐の手記です。
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予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。
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ちなみに上にある女性の写真は、間違いなく済南事件のときの新聞報道写真であり、被害者の女性も日本人、横に立っている男性も間違いなく日本人医師なのですが、いまの中共政府はこの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として流用し、さらに同じ写真を南京事件のChinese被害者として流用し、展示しています。
こういうインチキを国家規模で行うのもまたChinaの特徴です。

731部隊記念館では蝋人形になって展示

この尼港事件から斉南事件までの流れについて、
「もし当時の日本が早期に徹底した武力を用いてChinaの反日勢力に対して徹底的な弾圧と報復を行っていたら、事態はここまで深刻にならずに済んでいたのではないか」
というセンセイもおいでになります。
なぜそういえるのかというと、同じ時期、英米仏蘭独伊などは、Chineseに襲われていないからです。
なぜなら彼らは、たったひとりでも自国民にケガ人が出ようものなら、徹底的な反撃と打撃をChineseたちに与える。だからさしものChineseたちも怖くて手が出せなかったというわけです。
もちろん、それもあろうかと思います。
ただ日本だけが標的にされたのには、もうひとつの裏の事情があります。
清王朝の時代に、最下層の野蛮人としてこき使われていた朝鮮族が、この当時、「ウリたちは日本人だ。世界最強だ。お前たち漢族よりも偉いんだ」と言って、Chineseを襲撃し、財物を奪い、女性に対して次々と強姦をはたらき、証拠隠滅のために殺人を犯すという事件が多発していました。
もちろん、そのようなことをするのは、ごく一部の不逞Koreanでしかありませんし、大多数のKoreanたちは、まじめに普通に暮らそうとしていました。
しかし、国際社会では、たったひとりでも、おかしな行動をすれば、「○○人は」と言われてしまうものです。
まして、そのおかしな行動が、強姦や殺人などの凶悪犯であればなおのことです。
漢族たちも、こうした犯罪に対して、手をこまねいていたわけではありません。
彼らは、徒党を組んで犯人のあぶりだしをしました。
ところが、悪事が露見して、ヤバイと感じた不逞Koreanは、その度ごとに、
「ウリは日本人ある。Chineseに襲われて危険ある」といって、日本の軍隊に保護を求めてきました。
日本軍としては、形式上は彼らは「日本人」ですから、保護せざるを得ません。
そしてChineseたちの言い分も聞くのだけれど、KoreanとChineseでは、言っている言い分がまるで違っている。
日本軍としては、とりあえずKoreanの身柄を保護し、Chineseたちに引きさがってもらうしかありませんでした。
しかし、犯罪による被害にあったという事実は、決して曖昧にはならないものです。
実際、自分の妻や娘が殺されたとあっては、絶対に許せないと思うのは、これまた万国共通の人間としての本能です。そして恨みはますますつのる。
そしてそういう対立が生まれているところに、さらに対立をあおり、火に油を注いで事態を混乱させるのは、まさに共産主義者の常套手段です。
対立をあおられた被害者らは、共産主義パルチザンとなって、徒党を組み日本軍を襲撃し、満鉄への破壊工作を繰り返しました。
そしてそうした行動は、だんだん大きな戦略的な動きとなり、そしてついに大惨事を招くことになったのが、尼港事件であり、この済南事件であり、その後に起こる通州事件であったわけです。
ベトナム戦争でも、韓国軍は出動し、軍事的にはほとんど貢献しなかった一方で、銃を突きつけて村人たちを皆殺しにしたり、女性を陵辱しました。
ベトナム戦争は、北ベトナムという資本力も乏しく、国土も狭く、しかも大陸内の陸続きの国が、南ベトナムと世界最強の名高い米軍等を相手に、ついに勝利した戦いです。
世界中、共産軍というのは、相手が強ければすぐに逃げ出す弱兵なのに、なぜ、北ベトナムだけがそこまで強かったのかといえば、自分の女房や子供を、敵兵によって陵辱され殺されたなら、男なら誰だって命の限り戦います。たとえ両手両足がなくなっても、噛み付いてでも戦い抜く。
韓国人との混血児であるベトナムのライダハンは、釜山日報によれば3万人とのことですが、強姦され妊娠、出産する確立が10分の1と考えると、他にも陵辱され殺害された女性たちが数多くいたことを考えれば、いったいどれだけの数の女性たちが犠牲になったのか、想像を絶するものがあります。
だから北ベトナムの男たちは戦いました。
枯れ葉剤を巻かれて、息ができなくても、どんなに苦しくても戦い続けました。
思想の問題ではないのです。悲しみが結果としてどこまでも戦うという道を選び、そして北ベトナムに勝利を招いたのです。
その意味では、米国も敗戦の憂き目を見ましたが、ある意味、朝鮮族の被害者であったということができます。
米国のペンタゴンは、いまも韓国人をたいへんに嫌っているといいますが、さもありなんと思います。
韓国民の全て、あるいは朝鮮族の全てがこのような悪党とはいいません。
けれども、そういう悪事をはたらく者が、ひとりでもいれば、そこに恨みが残り、その恨みは増殖するのです。
済南事件においても、通州事件においても、その原因をたどれば、不逞Koreanに行き当たります。
そしてそのことが、結果として、彼ら朝鮮族を庇護した日本軍への怨嗟となり、漢族の日本人への恨みとなって、Chinaに派兵していた11カ国の中で、日本だけが標的になるという事態を招いたという事実もあるのです。
済南事件は、日本人が、忘れてはならない事件だと思います。
※この記事は2009年8月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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