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秀吉の朝鮮出兵については、秀吉がもうろくしていたために起こしたとか、秀吉の成長主義が引き起こした身勝手、あるいは戦いを好む戦国武士団を朝鮮に追い払って殺して数を減らすためだったとか、近年ではろくなことが言われてないようです。
なぜ秀吉は朝鮮出兵を行い、世の大名たちもこれに従ったのでしょうか。
このことを考えるためには、当時のアジア情勢を知る必要があります。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
この時代は、世界中に植民地を獲得したスペイン帝国が、植民地からもたらされた莫大な富によって「太陽の沈まない国」と形容されるほど富と覇権を握っていた時代です。
そしてスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府をルソン(いまのフィリピン)に置いていました。
スペイン人が日本にやって来たのは、天文十八年(一五四九)のことです。
日本は彼らを快く迎え入れましたし、このとき来日したフランシスコ・ザビエルは、あちこちの大名に招かれました。
なかにはキリスト教の信者になった大名もいたほどです。
宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。
ところが日本がほかの国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、またたく間にコピーし量産してしまったことです。
気がつけば、なんと日本は鉄砲保有数で世界一になっていました。
なんとその数、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約五十万丁です。
これには宣教師たちも驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロは、スペイン国王に
「スペイン国王陛下
陛下を日本の君主とすることは
望ましいことですが、
日本は住民が多く、
城郭も堅固で、
軍隊の力による侵入は困難です。
よって福音を宣伝する方策をもって、
日本人が陛下に喜んで
臣事するように
仕向けるしかありません」
と報告しています。
人口なら日本より南米やインドのほうがはるかに多いし、城も日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞の方が堅牢そうです。
にもかかわらず彼らがこのように書いているのは、
「鉄砲の数が圧倒的で軍事力で日本には敵わない」
とは国王宛ての上書に書けなかったからです。
こうしてスペインは日本での布教活動に注力していきます。
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あたりまえのことですがスペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国もスペインは植民地化を狙っています。
当時のスペインは、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に
「一緒に明国を奪わないか」
と持ちかけています。
当然日本はこの申し出を蹴っているのですが、秀吉が日本を統一した頃になると、次第に明国への対策が大きな政治課題となってきました。
なぜならスペインが明国を植民地として支配下に収めると、スペインに支配された明国兵が数の力にモノをいわせて日本に攻め込む可能性が出てきたのです。
元寇の再来です。
この脅威を取り除くには、明国との間に緩衝地帯を置くしかありません。
こうして秀吉は、文禄の役(一五九二〜一五九三)、慶長の役(一五九七〜一五九八年)と二度にわたる朝鮮出兵を行ないます。
同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。
何をしたかというと、スペインに対し
「臣下の礼をとれ」
と迫ったのです。
最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正十八年(一五九一)年九月のことです。
秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に「日本に入貢せよ」との国書を手渡したのです。
スペイン総督府にしてみれば腹立たしいことですが、隣国であるイギリスの国力が増し、自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの実情にあっては、日本に対して報復的するだけの力はありません。
すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはスペイン総督府です。
日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、スペインにとって政治的、軍事的圧力となります。
しかも海を渡って朝鮮に出兵をするということは、兵員を海上輸送する能力があるということですから、いつルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。
さらにスペイン総督府は、同年七月に秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けて、膨大な贈り物も持参しています。
いかにスペインが日本を脅威に感じたかということです。
けれど秀吉は重ねて
「スペイン国王は、
日本と友好関係を打ち立て、
ルソンにあるスペイン総督府は、
日本に臣下としての礼をとれ。
それが嫌なら、
日本はマニラに攻めこむぞ。
このことをスペイン国王に
ちゃんと伝えろ」
という書簡を渡しています。
秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難してしまいます。
本当に海難事故で遭難したのか、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
けれどおそらく後者ではないかといわれています。
さらに秀吉は十月には原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせています。
マニラに到着した原田喜右衛門は、たまたま在マニラの中国人約二千人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲っている現場に遭遇しました。
スペインは応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に中国兵を殲滅してしまいました。
ゴメスは特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようとしました。
名護屋(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見した特使は、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
けれど秀吉は聞く耳を持ちません。
重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請しています。
この秀吉の判断は正しいものです。
なぜなら当時の世界において対等な関係というものは存在しないからです。
さて秀吉の死去にともなって慶長の役は終わりました。
「だから朝鮮出兵は秀吉の気まぐれで起きた戦争だ」というのは大きな間違いです。
この年の九月にスペイン国王のフェリペ二世が逝去し、東亜情勢は当面の危機を脱したのです。
日本は朝鮮半島を押さえる必要がなくなった。
それが半島からの撤収の理由です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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