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我が国は、紀元前200年頃から、紀元後の8世紀のはじめまでという、およそ千年の歳月をかけて、漢字を我が国の文字として日本語の記述に同化していったのです。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
現代の常識のひとつに「漢字はChinaから渡来した」というものがあります。
Chinaで漢字を統一文字として採用したのは秦の始皇帝で、それまでのChinaには、各王朝ごとに、異なる文字が使われていたわけです。
ところがこれでは秦による統一国家の運営ができないということで漢字を共通文字として使用することが定められました。
その漢字が、秦が崩壊後に日本に渡来してきた秦の始皇帝の末裔達や、始皇帝から派遣された徐福などによって日本にもたらされ、これを我が国でも統一文字として採用し、現在に至っているわけです。
ではその漢字は、どうやって生まれたのかと言うと、漢字のもとになった書体が篆書(てんしょ)と言われています。
秦の始皇帝が用いた書体が、まさにこの篆書体でしたが、非常に書きにくいものであったために、徐々にこれが定型化されて生まれたのが隷書体となり、いまの漢字の源流となりました。
では、篆書はどのように生まれたのかと言うと、篆書のもとになったものが甲骨文字(こうこつもじ)であるといわれています。
甲骨文字は、まるでホツマ文字そっくりですが、違うのは、いくつかの記号が組み合わせてできていることです。
たとえば「見」という字は甲骨文字ですと下のようになります。

上の部分が「目」の象形であることは一目瞭然だと思います。
では下の部分は何から来ているのか。
これは不明とされています。
要するに甲骨文字は、漢字の原型であるとはいえ、その文字はすでに会意(二つ以上の異なる意味を持つ記号を組み合わせること)されて文字になっているわけです。
なんでもそうですが、部品がなければ製品は決してできあがりません。
では、その部品は、どこでどのように生まれたのでしょうか。
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ここにおもしろい文字があります。
それが阿比留草文字と呼ばれるものです。
日本の神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)と呼ばれる文字です。
神代文字はいまの学会では江戸時代の贋作だと言われていますが、不思議なことに源義経や菅原道真といった、明らかに江戸時代以前の人たちが奉納した弊紙に、そうした神代文字が用いられています。
ということは、神代文字は、大昔から「あった」ということです。
ただ、我が国は高温多湿の国であり、紙も木簡も長期間の保存に耐えません。
ですから何百年ごとに、新たに書写しなけれならなりません。
つまりお伊勢様の式年遷宮と同じで、更新することで、長く伝えるという仕組みが大昔からあったわけです。
その意味で、発見された神代文字で書かれた書が江戸時代であったからといって、そこで使われている文字までも、江戸時代のものと考えるのは、いささか早計です。
さて、阿比留草文字の五十音表が下の図です。

この阿比留草文字を使って、先程の「見」を書いてみます。
「見」は音読みは「ケン」ですが、訓読みは「みる」です。
そこで阿比留草文字で「みる」と書いてみます。
すると、上にある甲骨文字の「見」よりも、はるかに説得力のある「見」の原型が浮かび上がります。

Chinaでは、秦が文字を統一するまで、様々な文字が使われていたとされています。
したがって古い時代の甲骨文字としてChinaで発見された文字が、そのまま漢字になったかは、もともと疑問視されてきたのです。なにせ形がぜんぜん違う。
文字の原型が甲骨文字と呼ばれる亀甲文字、鹿骨文字から来ていることは疑いがないのです。
しかし、どの甲骨文字が漢字の原型になったのか。
これは、現段階では不明です。
さらにこの阿比留草文字を使って「たへる」と書いてみます。
すると下の図のようになります。

あら不思議。
今度は漢字の「食」という字ができてしまいました。
つぎに「こころ」と書いてみます。
すると下の図のようになります。

あら不思議。
漢字の「心」になってしまいました。
平和の「和」という漢字は、訓読みが「かず」です。
そこで阿比留草文字を使って、「かす」と書いてみます。

あら不思議。
漢字の「和」になってしまいました。
ちなみに日本語の表記に際して、濁点(゛)や半濁点(゜)、「はっ、えぇ、あぁ」のような小音をちいさく表記は、実は明治時代にはじめられたものです。
それまでは、濁点も半濁点も小音もありません。
ですから「だってそうなんだもの」は、「たつてさふなのだもの」と書きました。
ところが外国人からすると、これはたいへんに読みづらい。
そこで時の政府が、漢文に使われる音符記号などを参考にしてはじめたのが、いま使われている濁点等の文字表記のきまりです。
我が国における神代文字は、全国に300種類くらいが発見されていますが、いずれももともとは鹿骨占いや亀甲占いで用いられていたヒビ割れのパターンの象形です。
下にある写真は実際に鹿骨占いに用いられた鹿の骨ですが、こうした骨のヒビ割れのパターンを、読み解くのに使われたのが、神代文字と呼ばれるものであったわけです。

ですから神代文字は「一字一音一義」といって、ひとつひとつの文字(記号)に、ひとつの音が当てられていて、それぞれごとに、ひとつの意味を持っています。
占いに使うのです。
当然そうなります。
写真の左上の骨であれば、丸い穴のところが「れ」で、「れ」は何かを失う、あるいは水に流すといった意味を持つのだそうで、占いの目的がたとえば「仇討をすべきか」という問ならば、その占いの結果は「れ」であり、「水に流しなさい」という意味であるという御神託になると解釈されるわけです。
そうしたひとつひとつの文字の意味を解釈した文字として、迩々芸命(ににぎのみこと)が開始されたニニギ文字というものもあって、これは国構え(口)のような四角い箱の中に、びっしりと小さな神代文字が書かれた文字が、ひとつの文字となっているものです。
おそらくは、一字一音一義の意味を説明するための文字集(記号集)だったものなのでしょう。
文字(記号)と占いがセットの文化を持った国では、容易にその一字一音一義を崩すことができません。
現に日本人は、いまでも、カナ文字を使っています。
ちなみにカナ文字には、ひらがなとカタカナがありますが、ひらがなが漢字の草書体から生まれたことは皆様御存知の通りです。
けれどカタカナが漢字から生まれたという説には、にわかに賛同しかねます。
下の図は有名なものなのでご覧になられたことがある方も多いものと思います。

「ア」が「阿」のこざとへんから生まれたというのはわかるとしても、ではどうして「へ」が「部」のつくりから生まれたことになるのか。
素人目で観ても、どちらも同じ「阝」の形をしています。
「和」から「ワ」が生まれたにしても、どうして下の部分の線がなくなったのか、合理的な説明がつきません。
むしろカタカナは、もともと神代文字として使われていたものを、漢字渡来以後もたいせつな文化として保持したと観たほうが、はるかに合理的です。
実際、つい近代まで(つまり戦前戦中まで)、男子はカタカナと漢字で文書を書くものとされていました。
神代から続く文化を、私達の祖先は、カタカナという形で遺したのだと考えたほうが、はるかに合理的です。
話が脱線しましたが、一字一音一義で、文字には神聖が宿るとされる国では、容易にそこで用いられている記号を組み合わせて、別な意味にしてしまうということができません。
では、そうして生まれた音符としての記号を、文字として輸入した国ではどうでしょう。
記号は単なる音符です。
音符ならば、その音符を組み合わせて、単音なら「♪」、半分の音なら「♫」のようにするかもしれません。
同様に、「た」と「へ」と「る」と並んだ記号について、
「これなあに?」と聞かれて、
「うん。食べることだよ」
と言われれば、まとめて3つの記号を組み合わせて「食」という記号にしてしまう。
ある意味、合理的ともいえる使用方法が、一字一音一義という文化を持たない国では、普通に行われてしまうのではないでしょうか。
漢字は日本に、秦王朝の末期に日本にやってきた徐福、その何百年か後に日本に渡来した秦氏の末裔等によって持ち込まれました。
ちなみにお隣の半島では、百済からの仏教伝来(538年)の際に「日本に文字(漢字)を教えてやった」としているそうですが、大きな間違いです。
それ以前に百済が日本の朝廷の高官に賄賂を贈って、伽倻の地を勝手に百済の領有にしてしまったのです。
激怒した朝廷による制裁処置を警戒した百済が、ですから「ゴマスリのために唐の国の仏典や高僧、仏像などを寄進した」というのが真相で、そもそも国家的賠償に等しい賄賂に、自国産品を使わなかったのは、百済自体に日本に誇れるものがひとつもなかった・・・つまり百済は日本の属国であって日本文化のパクリしかできない日本の保護国であったということを意味します。
まして日本に漢字を「教えてやった」などと、おこがましいにも程がある話です。
さて、こうして秦国以降、日本に漢字が持ち込まれました。
持ち込まれた漢字を見た私達の先祖は、彼らが使う漢字を観て、
「なるほどこれは便利なものだ」と思ったことでしょう。
なぜなら、もともと日本で生まれた神代文字を上手に組み合わせて文字としているのです。
別な国の文字というよりは、日本の文字を工夫してさらに使いやすくしているのです。
世の中が複雑化するにともない、漢字をつかって簡素に表現し、しかも意味を正確に伝えることができるということは、実に合理的です。
一方、一字一音一義の我が国にもとからある記号の場合、長い歳月の間に、それぞれの豪族ごとに、使う記号の形がだんだん変わってくるし、読み方の音も、各地の方言の発音の違いによって、やはり変わってしまいます。
現代人の我々からは、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、民謡などを歌うときには、子音がものすごく強調されます。
大勢の前で、マイク無しに言葉を伝えるためには、「か」を「ka」と単に発音するだけでは、聞いている側には「k」の子音が消えてしまって、「a」しか聞こえません。
「おはよう(ohayo)」も、子音が消えたら
「oao」としか聞こえない。
ですから民謡などでは、子音を伸ばしてはっきりと発音する訓練がされるといいます。
つまり声音は、聞き方によって異なる意味にとられてしまうことがあるのです。
ところが、漢字を用いると、漢字が会意象形文字で、ひとつひとつの文字の意味が、ある程度視覚的にも明確です。
たとえば「権力」の旧字は「權」ですが、木の上の枝からミミズクが下にいるスズメを監視しているという象形です。
要するに「權力」というのは、監視する力であるわけで、このことは訓読みの「 いきお(い)、おもり、かり、はか(る)」では、なかなか伝わりにくい概念となります。
そういう点で、漢字は非常に便利なものであるわけです。
便利なものは柔軟に取り入れてきたのが我が日本人です。
我が国は、紀元前200年頃から、紀元後の8世紀のはじめまでという、およそ千年の歳月をかけて、漢字を我が国の文字として日本語の記述に同化していったのです。
漢字は日本の神代文字から生まれたかもしれないという以上の説は、いまはまだ「ねず説」です。
けれど、あと30年もしたら、様々な考古学上の発見等で立証されて、必ず世界の常識となっていくものと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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