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だから手紙は、ノートの切れ端に、2ページにわたって書きました。
その文章は、一文字も崩さずに、すべて楷書で丁寧に書かれています。
きっと、ひともじひともじに、心を込めて書いたのでしょう。
そしてその手紙が、彼の最後の言葉となりました。

先の大戦のあった昭和20年、日本人の平均寿命は、男性23.9歳、女性37.5歳です。
戦争がはじまる前は、日清、日露、第一次大戦、China事変等の戦争がありながらも、日本人男性の平均寿命は42歳前後だったといいますから、いかに先の大戦がすさまじい戦いだったかがわかります。
白人至上主義があたりまえのこととされ、有色人種は差別され、収奪され、支配され続けた世界の中で、最後の最後に立ち上がり、死力を尽くして戦ったのが日本でした。
その結果、植民地として支配された多くのカラードの国々が独立し、自国の歴史、伝統、文化を復活させ、また国民のひとりひとりが自由と繁栄を謳歌することができるようになりました。
このように書くと「右翼だ」という人がいますが、右とか左とかに関係なく、事実は事実として受け止めるべきものです。
そもそも我が国は、そうした右とか左とかいう、対立という考え方を持たなかった国です。
今の人は「対立」と書いて「タイリツ」と読みますが、もともと「対」の旧字は「對」と書きました。
「對」は、編がノコギリの象形で、つくりの「寸」が右手の親指と人差指で何かを図ったり持ったりする象形です。
要するにノコギリを手にして、大木に向き合っているわけで、そこから「對」の訓読みは、
・ならぶ
・そろう
・むかふ
となりました。
ですから「對立」と書けば、「並び立つ、そろって立つ、向かい立つ」といった意味になります。
要するに、現代風の、互いがぶつかり合い、反発し合う意味での「タイリツ」という語法は、もともと日本には存在しなかったものです。
言葉がないということは、概念がないということです。
律令時代の太政官には、左大臣、右大臣がありましたが、我が国では古来、「ひ(霊)」が上、「み(身)」が下という慣習がありましたから、左大臣が上、右大臣が下という位置づけになり、これはいまでいう部長、副部長のような関係ですから、そもそも両者に、いまどきの言葉でいうタイリツ関係がありません。
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ちなみに左大臣、右大臣は、それぞれ「さだいじん、うだいじん」ではなく、
左大臣=ひだりのおとど
右大臣=みぎのおとど
と呼ばれていました。
「お」は「緒」で結びのこと、
「ど」は「土」で、場所を意味します。
ですから「お」と「ど」は、結ぶ場所のことですから、
「ひだりのおとど」なら、天皇からみて左側の場所で天皇と民を結ぶ人、
「みぎのおとど」なら、天皇からみて右側の場所にいて天皇と民を結ぶ人、
という意味であったわけで、そこに「タイリツ関係」は存在しません。
地方で反乱などがあるときは、討伐のための軍が朝廷から派遣されましたが、我が国は国土もそこに住む民衆も、すべては神々のたからであり、神々を代理する天皇のおほみたからです。
地方の豪族その他が、これに反乱を起こすということは、神々を否定し、天皇を否定するということになりますから、それは「ゆがみ(歪み)」です。
その歪みを正すために派遣されるのが、朝廷の軍です。
この「歪みを正す」ことを、古来「たける」といい、「たける」とは、歪んだものを、竹のように真っ直ぐにすることを言います。
自分からレーダー照射をしておいて、やってないとか、日本側が低空飛行で挑発したからだとか、嘘ばかり並べ立てるような歪んだ者がいれば、神語りに基づき、我が国では、まず経済制裁を行います。
それでキレて、軍を起こすようなことがあれば、神軍を派遣してこれを完膚なきまでに打ち破り懲らしめる。
それが上古の昔からの我が国の考え方です。
ここにタイリツという考え方はないのです。
むしろ、自己都合でタイリツしようとする馬鹿者があれば、これを「たける」。
そうすることで、豈国(よろこびあふれる楽しい国)を保持したのです。
では「よろこびあふれる楽しい国」とは何かといえば、誰もが豊かに安全に安心して暮らすことができる国です。
そのためにたいせつにされてきたものが「愛とよろこびと幸せと美しさ」です。
家族の愛、母の愛、人々のよろこびと幸せ、それが「うつくしさ」です。
知覧から飛び立った特攻隊員に、相花信夫少尉がいます。
第七七振武隊として、昭和20年5月4日に出撃し、18歳で散華された方です。
宮城県出身で、二人兄弟で、兄も陸軍軍人で、中支戦線に向かいました。
弟の信夫も陸軍に入隊し、特攻隊員として知覧基地に赴任しています。
信夫がまだ6歳のとき、父は後妻をむかえました。
後妻は、二人の兄弟の継母となったのだけれど、生母が恋しい二人は、なかなか継母になつかなかったそうです。
継母に対し、乱暴な口をきいたりもしました。
さからったりもしました。
「おかあさん」
なんて、一度も呼んだことがありませんでした。
けれど継母は、二人の兄弟を実の子以上に可愛がり、献身的に愛情を注いで育ててくれました。
おそらく、なかなかなついてくれない兄弟に、人知れず涙を流す日もあったことでしょう。
けれど継母は、世間で言うような、継母による先妻の子イジメのようなことは一度もしませんでした。
それどころかひたすら兄弟に愛情を注いでくれました。
だから信夫も、飛行兵になるほど、頭の良い、出来のいい子供に育ってくれました。
けれど、そんなやさしい継母に対し、兄も、弟の信夫も、なんだか照れくさくて、面と向かって「お母さん」とは一度も呼ぶことができませんでした。
表面上は、逆らってばかりいました。
そして相花信夫は、特攻隊員となりました。
いよいよ飛び立つことになったある日、相花信夫は、そんな継母に手紙を書きました。
物資のなかった時代です。
だから手紙は、ノートの切れ端に、2ページにわたって書きました。
その文章は、一文字も崩さずに、すべて楷書で丁寧に書かれています。
きっと、ひともじひともじに、心を込めて書いたのでしょう。
そしてその手紙が、彼の最後の言葉となりました。
********
「母を慕いて」
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言へ
世の此の種の母にある如き不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母
尊い母
俺は幸福だった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったらう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでせう
今こそ大聲で呼ばして頂きます
お母さん、お母さん、お母さんと。
相花信夫
第七七振武隊
昭和二〇年五月四日出撃戦死
宮城県 一八歳
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※この記事は2012年1月の記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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