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「百俵の米も食えばたちまちなくなる。
 だが教育にあてれば明日の一万、百万俵となる。」
小林虎三郎の言葉です。

20181214 米百俵
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

米百俵(こめひゃっぴょう)といえば2001年の流行語として覚えておいでの方も多いのではと思います。
当時、小泉内閣発足時の総理の国会所信表明演説で、この言葉を引用して有名になりましたが、もともとは幕末から明治初期にかけて活躍した越後・長岡藩(いまの新潟県長岡市東部)で大参事を務めた小林虎三(1828〜1877)にまつわる故事から引用された言葉です。

越後・長岡藩藩主の牧野氏は、三河国でもともとは今川家の家臣でしたが、今川家が滅び、後に徳川家康の家臣となり、以後、豪勇を持って知られた徳川十七将に数えられた名門です。
この牧野氏が最初に知行(ちぎょう)していた牛久保は、戦国時、常に今川、武田、織田、松平からの脅威に晒されていたところで、ここから家訓として「常在戦場」の四字が生まれています。
「常に戦場にあるの心を持って生きる」という意味です。
ちなみに山本五十六大将も、この「常在戦場」を座右の銘としていました。

米百俵の逸話に出てくる小林虎三郎は、幼いころ天然痘を患い、その後遺症が左顔面に残る人でした。
けれど一生懸命に努力して、長岡藩校で若くして助教を務めるほどの俊才となり、長じて佐久間象山の門下生になりました。

佐久間象山は、私塾「象山書院」を運営して多数の弟子を獲った人ですが、特に後に吉田松陰と呼ばれる吉田寅之助と小林虎三郎は、塾の「二虎」と呼ばれ、
「義卿(松陰)の胆略、炳文(虎三郎)の学識、稀世の才」
と称えられています。


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ちなみに佐久間象山自身も、江戸昌平黌(しょうへいこう)において佐藤一斎のもとで学び、山田方谷と共に「佐門の二傑」と称された人です。
佐久間象山が小林虎三郎に送った手紙があります。
そこには次のように書かれています。

 「宇宙に実理は二つなし。
  この理あるところ、
  天地もこれに異なる能わず。
  鬼神もこれに異なる能わず。
  百世の聖人もこれに異なる能わず。
  近来西洋人の発明する所の
  許多の学術は、
  要するに皆実理にして、
  まさに以って我が
  聖学を資くるに足る」

実理というのは、空理の対語で、実際に即した道理をいいます。
洋学も漢学も、すべては国の「おほみたから」である民のためにあるというのが、林羅山にはじまる江戸の昌平黌の学問の基幹であり、佐藤一斎はその最後の学長です。
その教えを受け継いだのが佐久間象山であり、小林虎三郎であり、吉田松陰であったわけです。

さて、この頃、黒船が来航しています。このとき幕府の老中であった長岡藩主の牧野忠雅に横浜開港を建言したのが小林虎三郎です。
このことが原因で小林虎三郎は帰国謹慎を申しつかるのですが、結果として虎三郎のこの案は幕府の採用するところとなりました。
こうして何もない砂浜だった横浜に、わずか三ヶ月という、おどろくべき短期間で建設されたのが、横浜の町並みで、これがいまの横浜市に至っています。

戊辰戦争のとき、小林虎三郎は、やってくる官軍に対し、幕府の正当性をしっかりと訴えながら、なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。
けれど藩内の意見は河井継之助の奥羽越列藩同盟による開戦論となります。

長岡藩は勇敢に戦いました。
この戦いは戊辰戦争中最大の戦いであったともいわれています。
が、結果は敗北。そのため十四万二千七百石あった藩の収入は、6分の1の2万4千石に減じられてしまいます。

減封になったからといって、藩士の数が減るわけではありません。
藩士たちはたいへんな貧窮のどん底に追いやられてしまいます。

あまりの藩内の貧窮ぶりに藩主の親戚の三根山藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。
飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。
けれど百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、ひとりあたり、わずか二合程度にしかなりません。

そこで当時、藩の大参事となっていた小林虎三郎は、その百俵を元手に、藩に学校を造ろうと提案したというのが、この「米百俵」のお話です。

「百俵の米も食えばたちまちなくなる。
 だが教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

ちなみに米一俵は、おおむね一両に相当します。
一両はだいたいいまの六万円くらいです。
つまり米百俵とは、金額にすればおよそ六百万円ということになります。
一藩の財政という点からすれば、決して大きな額ではありません。
逆にいえば六百万円が藩論をゆるがすほどの大金とされるほど、当時の長岡藩は財政的にも、また食糧自給の面においても、追い詰められていたということです。

結果、米は売却され、売得金によって藩内に学校が建てられました。
ちなみに明治政府が学制の布告によって全国に小中学校を建てたときは、布告だけです。
それでも全国各地では、旧藩士や地元の庄屋さんたちが集まって、土地や校舎建設や、机などの什器備品代から教師を雇う費用まで分担しあって、短期間のうちに全国に学校が整いました。

長岡藩の場合は、この建設および初期費用として、藩として少額ながらもちゃんと費用負担をしたうえで、まさに学制などに先駆けて、学校を建設したわけです。
しかもこの学校には、士族だけでなく、一般の庶民の入学も許可されました。
藩士たちだけでなく、庶民までもが「納得して虎三郎に協力してくれた」から、これが実現したのです。
明治政府によって学制が敷かれたとき、この学校は現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となって、現在に至っています。

本当に苦しいときにこそ、自制して明日の民の幸せのために行動するか。
それとも目先の欲望のために、道義や道徳観を失って非行に走るか。
あるいは辛いからと逃げ出すか。

この小林虎三郎の物語は映画化されていて、いまはyoutubeでも無料で視聴することができます。
この映画ができたとき、主催者が映画の試写会の案内を長岡市内の六十六ある学校に出したそうです。
けれど試写会にやってきたのは、わずか七校だけでした。
平成5年(1993)のことです。

まだ日教組華やかりし頃です。
しかし逆にいえば、日教組が強大な実力を発揮していたときであっても、すくなくとも一割強の学校では長岡の歴史を忘れず、米百俵の映画の試写会に学校の者を出席させました。
おそらくいまなら、もっと多くの学校が参加することと思います。


お読みいただき、ありがとうございました。
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