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世界の先進諸国のなかで、戦後73年間、まったく戦争を経験しなかった国は、日本だけです。
なぜそのようなことが出来たのでしょうか。

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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
昭和16(1941)年12月8日は、「大東亜戦争」開戦の日です。
この日の未明、ハワイオアフ島の真珠湾にあった米海軍太平洋艦隊基地および、マレー半島への上陸作戦が開始されました。
この戦争について、戦後のわたしたちの世代は、名称を「太平洋戦争(The Pacific War)」と教わりました。
現在、日本と米国では、その名称が使われています。
なるほど米国からみれば、この戦争はまさに太平洋で行われた戦争です。
けれど戦争には、英国や、オランダ、フランスなども参加しています。
彼らにとっての戦域は、太平洋ではありません。
そもそも西欧では、太平洋戦争(Guerra del Pacífico、スペイン語)といえば、明治12(1879)年から明治17(1884)年にかけて、南米のボリビアとペルーが、チリとの間で行った戦争のことを指す言葉です。
従って昭和16(1941)年にはじまる極東地域での戦争のことも「太平洋戦争」というのでは、同じ名称が重なってしまって、わかりずらいものとなります。
ですから英国では、この戦争のことを「対日戦争(War with Japan)」と呼んでいます。
また、英国の歴史学者クリストファー・ソーンは、この戦争の戦域に東アジア、東南アジアだけでなく、西太平洋、オーストラリア、インドなども含まれることから「極東戦争」と呼ぶべきと提唱しています。
一方、中華民国や中華人民共和国では、この戦争を「中日戦争」と呼んでいます。
開戦始期も、昭和12年、つまり支那事変の始まりをもって、戦争の始期としています。
わたしたち戦後世代は、この戦争を「太平洋戦争」と呼びますが、実は他にも「極東戦争」や「対日戦争」、「中日戦争」など、様々な呼び方があるわけです。
どうしてそのような戦争の呼称にこだわるのかというと、呼称はそのまま戦争の意味を示すものでもあるからです。
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もともとわが国に「太平洋戦争」という正式名称は存在しません。
この名称は、戦後に日本にやってきたGHQが、占領統治時代の「検閲」によって「事実上定着」させただけのものです。
従って法的には、いまも昔も「大東亜戦争」です。
「法的に」というのは、「大東亜戦争」という名称は、開戦後まもなくの12月12日に内閣で閣議決定された呼称だからです。
そして実は、翌昭和17年2月17日には、法で定められていた「支那事変」の呼称も、「大東亜戦争」に含めると閣議決定されています。
いまにいたるまで、これを修正する閣議決定も法律も定められていません。
ということは、法的にわが国における正式名称は、いまもなお「大東亜戦争」のままです。
遵法精神があるならば、与野党行政とも、「大東亜戦争」と呼ばなければならないものです。
それに、太平洋戦争と呼んでしまうと、東アジア地域での日本の戦争の説明がつかなくなります。
マレー半島は太平洋ではないし、満蒙や支那での戦いも、戦域から外れてしまいます。
また、「太平洋戦争」と呼んでしまうと、支那事変との戦争の一連性が途切れてしまいます。
支那事変と太平洋戦争がまるで別々な事案のような印象になってしまうわけです。
昭和12(1937)年にはじまる支那事変は、昭和20年8月15日の終戦の日まで係属していたわけですから、本来これもふくめて「大東亜戦争」と呼ぶという閣議決定が、正しい呼び方なのです。
さきほど、昭和16年12月12日に「定められた」と申し上げました。
では、12月8日の開戦当時には、この戦争が何と呼ばれていたかと言うと、「対米英蘭蒋戦争」です。
ですから、真珠湾攻撃やマレー攻撃のとき、呼び方は、報道用語として「対米英蘭蒋戦争」です。
もう少し詰めて「対米英蘭戦争」という呼び方もされています。
では、それがなぜ「大東亜戦争」という名になったのか。
その理由は明快です。
この戦争が、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」であったからです。
大東亜戦争を、「日本の軍部による侵略戦争」だったという人がいます。
最近の学校などでは、そのように教えているし、教科書にも、そのように記述しているものがあります。
けれど、少し考えたら誰にでもわかることですが、戦争は軍が「勝手」に行うものではありません。
戦争は、国家が国家の意思として行うものです。
軍は国の命令によって動くのです。
他所の国は別です。
すくなくとも日本においては、日本人は論理性を重んじますから、たとえ軍であっても、それが明らかな暴走であれば、すぐに鎮圧部隊が出動して、関係者全員が軍法会議によって処罰されます。
実際、二二六事件がそうでした。
「日本による侵略戦争」という言葉も、不適切です。
それは東アジアに入植していた欧米列強であり、その下請けとなっていた蒋介石の国民党軍です。
自由意志を持つマレー人やベトナム人、ラオス人、インド人、Chineseらと戦ったのではありません。
開戦当時のハワイも、当時はまだ米国の州ではありません。
ハワイが米国の50番めの州になったのは、昭和34(1959)年8月21日のことです。
開戦当時のハワイは米国が力によって強引にハワイ王室を廃絶させた自治領です。
しかも人口の半分は日本人でした。
そのハワイ、オアフ島に、米国は海軍基地を作っていました。
日本が行った攻撃は、その米軍基地に対してだけです。
もし、日本によるハワイ攻撃が侵略とするなら、米欄によるガダルカナルやパラオ、グアム、サイパン、沖縄等への攻撃も、侵略です。
そもそも、です。
江戸時代の終わり頃、欧米列強は地上の35%を支配していました。
その強大な欧米支配の脅威に対して、国論をまっ二つにしながらも、多くの血まで流して国をまとめ、統一的近代国家を形成するために大変革を行ったのが明治維新です。
日本は、明治維新を無事になしとげたからこそ、その後の近代化が起こったし、その日本が立ち上がったからこそ、世界から植民地支配が一掃されるという動きになったのです。
第一次世界大戦が始まるころには、欧米の支配地域は地球上のおよそ84%です。
その第一次世界大戦に勝利した日本は、大戦の戦後処理を行うパリ講和会議で、国際連盟の結成に際し、その連盟憲章の第一条に「人種の平等」を入れるべし、と提案しました。
そのような時代に、世界にむけて人種の平等を高らかに謳い上げたのです。
この提案は、は米英によって拒否されるけれど、この時点で間違いなく日本は、世界の被支配諸国の民衆にとっての希望であり、欧米諸国において財力のある植民地支配者たちの絶対的な敵になりました。
方や世界の84%を支配する大金持ちたちです。
方やまだまだ貧しい国でしかなかった東亜の一国です。
そして日本が行った戦いは、経済的利益のための戦いではなく、人間は皆平等に人としての権利を持つという、正義のためだけの戦いでした。
資力を持った強大な支配者たちに、世界の中でただ一国、貧しい日本が正義のために立ち上がったのです。
日本は、全身血まみれになりました。
国土も焼土となりました。
けれどもその戦いによって、いまではすっかり世界から植民地が一掃されました。
日本の凄みは、そこまでの戦いをしてほとんど瀕死の状態になりながら、それでも日本という国と民族をしっかりと保持得たことです。
これがどれだけ凄みを持ったことかということは、北米のインデアンが、かつて800万人もいながら、いまでは36万人に減少し、しかも全員が混血だという現実を見れば、よくわかることであろうと思います。
戦後のわたしたちは、ながく豊かで平和な生活を維持することができました。
世界の先進諸国のなかで、戦後73年間、まったく戦争を経験しなかった国は、日本だけです。
なぜそのようなことが出来たのでしょうか。
その答えが、昭和16(1941)年9月6日の御前会議の際の永野修身海軍軍令部総長の言葉にあります。
「政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。
すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。
統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。」
日本は、まさに勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦いました。
いくたびの玉砕戦では、傷ついた体に蛆がわき、食べるものさえない中で、身を敵に晒し、果敢に戦い抜きました。
おかげで、わたしたちは、戦後の平和な生活を享受できてきたのです。
それだけではありません。
世界の植民地秩序をぶち壊した日本は、自国の復興を行うだけでなく、かつて植民地支配されていたアジア諸国に、技術や経済の援助を積極的に行い、諸国でに工業生産がはじまると、そこでできた製品を積極的に買い上げて、お金がそれら諸国に落ちるようにしていきました。
そうすることで独立したばかりのアジアの諸国は、近代化に拍車をかけることができたのです。
わたしたちは、いまの平和を享受するあまり、歴史が順調に推移したと思いがちです。
何か安全なレールの上を順調に走って来たかのように誤解しています。
けれどそこには、実は様々な試行錯誤があり、その中で、勇気をふるって決断をし、汗を流し、血を流して、時代を切り開いてくださった先輩たちがいてくださったのです。
わたしたちは、そのことを決して忘れてはいけないと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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